『ねえ、珱姫。いつか、絶対にまた会いましょうね』

『それから……秀元様、是光様。今まで、本当にお世話になりました。御達者で』


その言葉を残し、妖怪の船の中に乗り込んだ椿姫は、そのまま東の空へと消えていった。
船の姿が見えなくなるまで、否、見えなくなった後も、名残惜しげに東の方を見つめる珱姫に従って、秀元と是光も少しの間その場に残っていたのだが。


「それじゃあ珱姫ちゃん、もうそろそろ行くでー」
「……はい……」
「申し訳ない。気持ちは分かるが、まだ今の京は安全ではないのです」
「あ……いえ、そうですよね。分かりました」


流石に姫君をいつまでも外に置いておくわけにはいかないと、彼等は珱姫に声を掛けた。
春も近付いたとは言えまだ夜は冷えるし、妖怪が襲ってこないとも限らないからだ。
例え京の中で最も安全な、花開院家当主の側にいるとしても。やはり花開院家に戻った方が、幾分かは安心できるのである。
奴良組も去ったことだし、近いうちに螺旋の結界を作る作業は大詰めに入るから、もう少しすれば話はまた変わってくるのだが。

三人は、秀元の操る牛車型の式神へと歩を進めた。
まだ未婚の乙女である珱姫に配慮して、いつもの物より大きい作りになっているそれに乗ずる。
中は広々としていて、珱姫は中々経験することのないその牛車に楽しそうな声を上げた。


「わ、素敵ですね……! 牛車というのは、みなこのような作りなのですか?」
「んー、これは式神やから、多少簡略化されとるよ。本物はもうちょい豪華になっとるんやけど、まあそこまで再現しとく必要もないやろってことでな」
「そうなのですね。でもとても精巧で、式神とは思えないくらい綺麗……」
「秀元の式神ですから。式神というのも陰陽師の力に左右される物です。他の、力のない陰陽師がしたところでこうはなりません」
「流石秀元様。花開院当主の成せる技なのですね」
「いやあそれほどでもー」


照れるわぁ、と秀元は全く顔色を変えずにけらけら笑う。
その様子にもとうに慣れたのか、珱姫は小さく微笑んでから、近くにあった窓から外の様子を見始めた。
式神の牛車は通常のそれとは異なり、浮遊して移動する。けれどこの時代、そんな移動形式の乗り物など他にはない。まして外に出ることの少ない珱姫ならば尚更だ。
中々見られない風景に小さく歓声を上げてはしゃぐ珱姫を微笑ましそうに見た後、是光は誰に言うでもなく呟いた。


「……行ってしまったな」
「椿姫ちゃんのこと?」
「ああ」


それに反応した秀元をちらりと一瞥し、是光は再び前へと向き直る。


「あの子は、俺かお前か、はたまた他の陰陽師か。いずれにせよ、花開院の人間と結婚するものだと思っていた」
「まあ、あれくらい力のあるお姫さんやったら、普通はそうやねえ」
「もし違ったとしても、何処かの名家に嫁ぐものだと。……そう、思っていたのだが」


その声は哀愁漂っていて、何処か物寂しい。
娘を嫁にやった父親の声にも似たそれを、秀元は珍しく茶化さない。
彼も何か思うところがあるのだろうかと是光は察して、そのまま話を続けた。


「まさか妖怪に嫁ぎ、江戸に行くとは。夢にも思わなかった」
「あはは、そらそうや。蘆屋の頃から考えても、妖怪んとこに嫁に行った姫さんなんてほぼおらへんしなあ」
「やはり反対するべきだったのだろうか。妖怪なんぞに嫁いで、椿姫は本当に幸せになれるのか……?」
「兄さん、その話もう十回は聞いたで? ええかげんにしいや。後悔せえへんって椿姫ちゃんも言っとったやろ」


呆れた秀元の声を聞き流しながらふと見れば、いつの間にか珱姫は窓辺にもたれ掛かって寝ていた。
普段であればとうに床に着いている時間だ。おまけに今日は遠出をしたし、疲れがあっても無理はない。
牛車の中は外よりもいくらか暖かく、短時間であれば寝るのも問題は無いだろう。
着いたら起こせば良いかと、是光は珱姫から視線を戻した。


「だが秀元、お前が反対しなかったのは正直意外だったぞ」
「そう? でも僕、兄さんよりはぬらちゃんと仲ええよ?」
「それはそうだが、椿姫が外に……妖怪の所に嫁に行くと言うことは、陰陽術の流出の面から考えても危険が高いだろう」
「ああ、椿姫ちゃん昔はよう稽古してはったしねえ。でも今のあの子には、それほど陰陽術は備わっとらんよ。前当主様に禁止されとったからねえ」
「……? ならお前は、その事で反対していたのではないのか?」
「反対? 僕なんか反対しとったっけ?」


こて、と秀元が首を傾げる。
だがその様は、本当に疑問に思っているのか、それともはぐらかしているだけなのか、一見しただけでは判断出来ない。
そのため是光はいつものように、疑問に思っていた場合の答えを返した。


「椿姫に来ていた縁談のことだ。全国から来ていただろう、天下一の美姫、などという名前が付いてからは特に」
「……あー」
「だがお前は、どんなに立派な家の申し出だろうが、椿姫にその話を持ちかけることなどなかったじゃないか。自分のところで断ってばかりで」


そのせいであの子は、自分がどれほど魅力が――価値がある人間なのか気付かないまま、嫁に行ってしまったと。
そう、愚痴のようにも聞こえる声色で是光は言った。
責められているようにすら受け取れるその声を、けれど秀元が意に介することはなく。
肩を竦めてやり過ごすと、そのまま窓辺に頬杖をついて言った。


「あれはなあ……何て言うか、仕方なかったんよ」
「仕方がない? どういう事だ、何か理由があったのか?」
「んー……」


珍しく歯切れの悪い秀元を、是光は不審そうな顔で見つめる。
秀元が煙に巻こうとしているわけでもなしに、こう言った言い方をすることは珍しいからだ。
基本的には頭も悪くない男だし、何より花開院当主である。そういった立場故か、うやむやにする物言いはあまり好まれないのだ。秀元自身がどうしたいかは別として。


「これ、他言無用でお願いしたいんやけど」
「任せろ。口は堅い方だ。……で、何だ?」
「椿姫ちゃんを他所に嫁がせるのを禁止したんは、僕やのうて前当主様なんや」
「……は!?」


思わず大きな声で言ってしまって、慌てて口を塞ぐ。
恐る恐る目を向けた先の珱姫は、相も変わらず寝こけていて、是光はほっと肩を下ろした。


「もー、兄さん声大きすぎ。他言無用やって言ったばかりやのに」
「す、すまん。つい……。……だが、それはどういう事だ? 前当主様が当主をなさっていた頃は、まだ椿姫は何処かに嫁ぐような年齢ではなかったはずだろう?」
「そやねえ。でも、椿姫ちゃんが本家に来てちょっと経った頃から決めてはったらしいで」
「本家に来た時……ってまだ凄く小さかった頃じゃないか……!」


過保護にも程がある。情報漏洩防止目的なら更に酷い。そんな小さな頃から警戒していたなんて。
他の花開院の姫君は、少なくともここ十数年の間は椿姫ほど力のある者はいない。
それでも多少なりとも陰陽術が使える者達ばかりだというのに、彼女達は普通に他の家に奉公に出たり嫁いだりしていた。にも関わらず。


「そんなに椿姫は重要視されていたのか? 確かに力は強いが……」
「うーん、それはちょっと違ってな。椿姫ちゃんが制限かけられとった理由は、霊力の方やなくて神通力の方なんや」
「神通力……?」


いよいよ話が分からなくなってきたと、是光は腕組みしながら眉を顰める。
神通力を他所にやりたくないというのは、まあ分からないでもない。あれは正に神のごとき力だ。珱姫の親がそうだったように、内で囲んで利用しようという考えを持つ人間がいるのは理解できる。
だが前当主はそんな利己的な人間ではなかった、はずだ。当主と言うだけあって考えの読めない人だったが、少なくとも悪人ではなかったはずだと是光は記憶している。
じゃあ一体何のために、制限が掛けられていたのだろうか。


「それは、どういう……?」


その時、がたんと小さな揺れと共に牛車が止まった。
外を見ると、そこは花開院本家の前であった。話をしている間に、本家の前まで来ていたらしい。
だがまだ話は終わっていない。珱姫を起こそうとする秀元に、是光は待ったをかける。


「秀元、最後まで言え。神通力と椿姫の結婚の制限、どういう繋がりがあるんだ?」
「えー……あんまり言うと前当主様に怒られそうなんやけどなあ。一応これ、当主にしか伝えられとらんことなんよ?」
「なら話せる部分だけでいい。椿姫は俺にとっても大事な妹だ、知る権利はあるだろう」
「……じゃあ、これだけな」


一つ指を立て、秀元は口角を上げる。
聞き漏らすまいと真剣な顔で耳を傾けた是光に、秀元は何処か楽しげに告げた。


「椿姫ちゃんの制限は、あの子を守るためにあったんや。僕がぬらちゃんとの結婚を許可したんも、ぬらちゃんなら椿姫ちゃんを守れるやろって思ってのことやねんで」
「守る……?」
「ほらほら、珱姫ちゃん。起きてえな、着いたでー」
「! ま、待て秀元、まだ話は……」
「……これ以上は秘密や。どうしても知りたかったら、花開院の書物を読みあさってみ。そしたら何か分かるかも知れへんで」


に、と秀元はいつもの飄々とした顔で笑った。
こうなればもうどれだけ問い詰めたところで無駄なことを、是光は今までの経験からとうに知っている。
声を掛けられた珱姫も起きはじめてしまったし、この話はもう当分する機会がないだろう。
だが一つだけ分かったこと、それはこの何を考えているか分からない当主があの子を嫁にやったのは、ただ彼女の幸せを願ってのことだけではないかもしれないということだ。
そうなると、椿姫の幸せを心から願う是光としては、やはり知れる限りのことは知っておきたいと思うわけで。
取り敢えず花開院秘録から手をつけようと、最後に見せた椿姫の笑顔を想いながら考えるのだった。


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