木漏れ日
「貴様、またそこに登っていたのか。」

呆れた声で元就は木の上に向かって言う。小柄な元就よりもかなり上の方から、ガサガサと木の葉が擦れる音がして、ひょっこりと顔が覗く。

「あら、元就様、こんなところからすみませぬ。」
「貴様は猿か。女子の自覚は持て。」

ため息とともに言った彼に、彼女は戯けて『猿ならば鬼退治についていけますね』と呑気なことを言う。その鬼とやらは貴様の実の兄ではないかと言いたくなったが、堪えた。
そんなことをしては、また面倒なことになる。


半年程前、誠に不愉快な同盟の為に元就に輿入れして来た長曾我部元親の妹・美黎。元親が随分と可愛がっていた年の離れた妹であり、彼女もまた大抵の子供には恐れられる偉丈夫である兄に大変なついていた。それを知っているからこそ、元就やその家臣たちは人質として姫君を嫁に乞うたのだ。
随分と初めは事あるごとに兄様兄様と泣き叫んでいた。最近になって、漸く自分の中で踏ん切りがついたのだろう。泣き顔を見なくなった。
その代わり、事あるごとに元就の元に行くようになったのだ。花が綺麗だ、本を読んで、夢見が悪い……。くだらないことが多く最初こそ一蹴していたが、彼女がめげずに何度も元就の元に通ったこと、また断る度に今にも大泣きしそうな顔で部屋を出ていくことから女中らにあらぬ噂が広がりかけたことを機にとうとう元就は折れた。無碍にしすぎては同盟に障りがあるのは勿論、ただでさえ幼妻故に世継ぎを案じる家臣達の士気に関わる。

そんな打算尽くめで美黎の戯れに応じるようになったが、一言で言えば悪くないものであった。
今迄何とも思わなかったことに気付く余裕が生まれ、元就らを見る家臣らの表情に笑顔が増えた。
元就は愛妻家だと市井に噂が広まり、毛利への好感度は上々。民草の忠誠心は上がった。
元就は美黎に知らず識らず己の内に入ることを許していた。絆されたと言えばきっと言った者は斬られようが、元就は極力兄の話題を彼女の前で出さぬようにしている。それは、乳母に玩具を取り上げられるように、鬼にせっかくの面白みを取られないようにする為に。



「でも元就様、ここで書を読むのは気持ちがいいのです。
涼しくて、程よく日輪の光が入って来て、過ごしやすいですよ。」
「美黎、また我の書を勝手に持ち出したのか……。」

相変わらず木の上の妻は楽しそうに元就を見下ろしている。
大きく溜息をついた元就は、裾を簡単に捲ると美黎のいる木を登り始めた。然程高くはない木であるから彼は簡単に登りきり、彼女が居る枝の少し下の、太い枝に腰をかけた。

「成る程、確かに書を読むにはもってこいか。」
「でしょう!風も通りますし、ほんとうにここは素晴らしい場所です!」

元就とより近くなった美黎は、クスクスと笑いだす。
訝しげな表情を浮かべて居れば、彼女は自ら訳を話した。

「美黎はいつも、元就様を見上げております。ですから、元就様が美黎を見上げていらっしゃるのが不思議なのです。
それに、もしかしたら元就様から美黎はこんな感じに見えているのではと思うと、何だか元就様に近づけた気がして嬉しいのです。」

その様子に、元就は柄にもなく成る程と思う。
ちょうど2人の今いる高さの差は2人の身長差と同じくらいだ。きっと、同じものを見ていても、美黎と元就では違うのだろう。
元就は暫く何かを考えた後、フンと鼻で軽く笑ってその思考を吹き飛ばした。

「もうすぐ八つ時ぞ。貴様も早く降りねば、我が貴様の文も食う。」
「そ、それは狡うございます!急いで降りますから、美黎のぶんも残して置いて下さいね!」

大人気ない元就と無邪気な美黎。
凸凹な2人のやり取りを見ながら、捨て駒たちは安芸の平穏な日々を送るのである。
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