| ■ 04 にぃにぃにゃんにゃんと鳴く毛むくじゃらの小さな塊に左右から詰め寄られ、ベルゼブブはハァと溜息を吐いた。 ひとしきり案内が済んだかと思いやさっさと台所へと消えたなまえは「あらこの子達ったら興味津々。良いなぁ、ベルゼブブさんって動物に好かれるんだー」なんて能天気に言っていたが、これは好かれているのではなくただの品定めだと何故解らないのか。 「結界を解いてやるから、あいつの相手をして来い。但し、もし"何か"に気が付いたとしても黙れ。余計なことは一切吹き込むなよ」 アクタベに言われた時は大して気にも止めなかったが、今となっては何故もっと尋ねておかなかったのかと後悔しか浮かばない。 「……クソ。あの女、突っ込みどころしかねぇじゃねーか」 事務所でしか顔を合わせていないから気が付かなかったのか、それともそれすらもソロモンリングの制約だったのか。 待ち合わせ場所で、ベルゼブブは声をかけられるまでなまえを認識してはいなかった。 大勢に紛れて判別が付かなかったという意味ではない。存在自体を感知できなかったのだ。声をかけられたと理解した瞬間、突如目の前になまえが現れた。けれど自分を取り巻く熱い視線の主たちに嫉妬と困惑や落胆以外の変化がなかったから、彼女の出現に本当の意味で驚いているのは自分だけだとわかってしまった。 そして、その奇妙な感覚はマンションでも同じだった。なにしろ、立ち止まった女に「ここ」だと言われても、もやがかかったようにその先が見えないのだ。 けれど鍵を取り出したなまえが奇妙な動きをして、壁としか認識出来なかった場所に消えて行き……そして貸して下さいと白い手が伸びて来た途端、ぱっと鮮やかになった視界が示すものはどう見てもただのマンションの玄関でしかなかったのだから、笑えない。 「招かれないと入れないなんて、吸血鬼みたいだなって」 呑気に笑う女に、「お前がおかしいんだ」と言ってやりたくて仕方がなかったが、彼女の魔術でないことが明らかだったから沈黙するしかなかった。触れ合う程に近くに居た彼女が何かしたとするのなら、高位の悪魔である自分が気が付かない筈がないのだから。 そもそも、今まで散々可愛がられてきてやった身で断言するが、なまえ自体から妙な気配や魔力など感じたことがない。となると……(まあ実のところあのアクタベがつるむような人間だから只者ではないだろうと思っていたが)どうやら厄介なのはなまえ本人ではなくその周辺らしいというのは認めないわけにはいかないだろう。 悪魔使いだったという母親とその契約悪魔の奇妙な関係も、実際にこんなものを見せ付けられてしまえば妄想話と笑い飛ばすわけにはいかなくなる。 悪魔がかけた悪魔避けの術。 しかも術者不在でも効力を保ち続ける程に、簡素ながらも丁寧に編まれている……そんなものが、"庇護"でなくてなんだと言うのか。ベルゼブブの記憶にある悪魔は、とてもそんなことをする男ではなかったというのに。持ち去られたグリモア、消滅した悪魔、悪魔を忘れた母親、グリモアを読めない目、解けない術、悪魔よりも悪魔らしい悪魔使いの友人、歪んだ性癖。ざっと浮かぶだけでも充分だ。この大悪魔である自分ですら目眩が抑えられない程に、彼女の周りはどこまでも面倒臭く、底なしに狂っている。 「お前たち、そんなにあれが大事なのか」 にゃんにゃんにぃにぃと鳴く猫たちに向かって伸ばした手は、ずざざーっと飛び退かれ空振りに終わった。 息ぴったりに棚の下に潜り込んだ二匹はけれどもそれきり喚きもせず、動きもせず。 ただただ沈黙の中で今夜の珍客を観察することにしたらしい二匹を無視し、退屈を潰し暇を潰し苛立ちを潰し疑問を潰し……けれども片っ端から潰し尽くすにも限度がある。潰し損ねた舌打ちのままもう立ち上がって八つ当たりでもなんでもしてやろうかと外面をかなぐり捨てかけた時、憎らしいほど絶妙なタイミングで漂ってきたのは抗えない芳香だった。不穏な思考など吹っ飛ばす勢いで、ぐぅぅぅと腹が震えた。 *** 「おやベルゼブブさん、もういいんですか?」 カレーになるまであともう数段階という鍋をかき混ぜながら振り返ったなまえは笑顔だった。ストーカーに怯える身とは到底思えない気楽さだ。 「名前、元に戻っていますよ」 「今回は盗聴器はなかったんでしょう? だったらひとまず安心です」 それはそうですけどねぇ。だからってあんまり簡単に普段通りに戻られると、それはそれで私としては甲斐がないのですよ。浮かんだ言葉を声に乗せる代わりに無言のまま距離を詰める。 「……ベ、ベルゼブブさん? あの、なんだかとっても近くないですか?」 ソロモンリングなしの今の姿でなら、ただの人間の女の心など捕らえる事は実に容易い。 そう自信満々に、日頃は見上げてばかりの額にそっと唇を近付けたというのに。 頬を染めるでも瞳を潤すでもなく「なんでしょうか」と色気のない顔を返されるのだから堪らない。どこからどう見てもお忍びの王子にしか見えないこの美青年に向けての反応とは、到底思えないし信じたくない。ちらりと流し目に訴えてみてもまるで変わらない困惑一色の表情に、このままで済ますものかと意地の炎が燃え上がる。 「いや、機械が無いことがわかっただけで、覗かれていないという保証の方はまだですよ。というか、あの手紙の雰囲気からして遠眼鏡くらいは用意していてもおかしくはありません。せっかくこれ見よがしにカーテンを開けたのですから、もっとあからさまに、恋人らしく振舞うべきではないかと」 だからって、オイ。 成る程と素直に頷くこのバカ女をいい加減どうにかしてくれ。 意地まみれの口先八丁ではあったものの、あまりにも騙し甲斐のない反応に呆れが強まる。けれども呆れたところで動き出した唇は止まらない。 「それに相手はクズ中のクズですからね。機械越しでは満足せず、天井裏にでも潜んで聞き耳をたてているかもしれないでしょう」 でもここってマンションだし、なんてもっともな反論は「物の喩えです」とぴしゃりと封じる。マイクもカメラもなかったのは本当だ。けれど、暴露の悪魔は全てを語りはしなかった。 今もはっきり感じる不快な視線……あの手紙に染み付いていた澱みと同じ物がどこからやってくるのかなど、本調子である今のベルゼブブには手に取るようにわかるのだ。アレがこの場に潜んでいる可能性などない。あの小心者はただ、道を挟んだ先のアパートの一室で爪を噛んでいるだけ……。 息をするようにすらすら出てくるのは出任せばかりだが、そもそもベルゼブブの言葉を疑ってすらいないなまえがそれに気が付くことなど有り得ない。 「ですからなまえさん、手始めに……普段通りではなくもっと親密そうに、呼んで下さい」 誰に聞かせる必要もないのなら、なぜそんなことを口にしたのか。なぜ彼女の反応を望んだのか。 それに気が付けていたならば、この後の展開はもっとましだったに違いない── (2015.10.06) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |