■ 05

「いやはや、さくまさん程ではありませんがあなたもなかなか筋がいい。これからは得意料理を聞かれたら謙遜など要りません、自信を持ってカレーと答えると良いでしょう。この私が許可します!」

 幸せそうな顔で振り向くのは、やはりというべきか今夜も絶好調にカレー愛が迸っているベルゼブブさんである。
 どうせ不味いものしか作れないんでしょう?という先刻までの舐めきった態度をあっさりと改めてみせる悪魔に、私の鼻はぐんと伸びていた(但し、ベルゼブブさんの評価はカレーに対してはとことん激甘なのだという前提も忘れてはいけない)。ナチュラルに他の女性と比べて云々〜と表現するあたりにデリカシーの欠如を感じないこともないけれど、事実としてさくちゃんのカレーは確かに美味しいのだから仕方ない。
 知らず知らずに入っていた肩の力がふっと抜けて、そうか私は緊張していたのかと気が付きもする。思えば、誰かのために何かを作るなんていつぶりだろう。

「まだありますけど、本当におかわりはいいんですか?」

 けれど。
 こんなにも美味しいですと褒めてはくれるくせに、いつも(プリチー姿)の大盛りより控えめな盛りっぷりが気になるといえば気になる所で。

「……ええ、お心遣いだけ頂いておきます。それにですね、このカレーも美味ですが一晩寝かせたカレーも捨てがたいのです! ああなまえさん、明日はぜひカレー弁当を!!」

 おいこらちょっと待ってって。
 テンション高く詰め寄られると、嫌でも気になる体格差……ってのがさぁ!
 無自覚な悪魔に欲望のままの勢いでぐいぐいと来られ、うっかりソファに足をとられ「しまった」と思う間もなく。逃げ道のない姿勢で見上げるお綺麗な顔立ちに、私の歯はギリリと不愉快に軋んだ。
 金髪碧眼のイケメンに覆い被さられているこの状況は、端から見れば眼福もしくは幸運な状況なのだろう。けれど、お綺麗ではあるもののどこまでも"人間のパーツ"で組み上げられたぱっと見"人間"でしかない青年に押し倒されたところで嬉しくもなんともない。むしろ、いつものプリチー姿の方が人外らしくて数万倍ドキドキする。


「おやどうしたんですかなまえさん、また肩に力が入っていますよ」

 私の硬直に気が付いたらしいベルゼブブさんは、数秒前の興奮もカレーへの賞賛のことも忘れてしまったかのように、妙に意地悪く、それはそれは意地悪く、にたりと笑った。

「いえ、特に何でもないのでお気になさらず……」
「そんなことを言っても、こんなに身を硬くして『何でもない』はないでしょう。ねえなまえさん、本日の私はすこぶる機嫌が良いのです。正直に言って頂ければ悪いようにはしませんよ」

 やけにゆっくりと首筋を撫でられ、肌がぞわりと泡立つのがわかった。
「……や、やめて、ください」
 いやいやと首を振るものの、拘束が緩む気配はない。
 それどころか、手のひらで身体のラインを確かめようとでもするように……ああダメだ。これはいけない。目の前にいるのは確かによく見知っている悪魔の筈なのに、なのに、なのに、この目が映す姿もこの肌が感じる指先も太ももの間に捻じ込まれる足の熱さも、よく知らない"人間の男"のそれでしかない。

「ふふふ、いくらあなたでもいざ悪魔を相手にするとなると恐ろしいですか? ご安心なさい、あなたが大事に大事に守ってきたものを奪うのですから、せめて人の姿で遂げてあげましょう」

 言うまでもなく、悪魔たちの下品な振る舞いなんて今更過ぎるほどに今更だ。
 下ネタで済ませる範囲も済ませられない範囲も、いつだって笑い話で片付けて来たじゃないか。……だから、記憶を探るまでもなくこんな風に嬲ってくる瞳には見覚えがある筈なのに、どうしたことかこの瞬間に限って記憶のどれとも目の前の男が結びつかない。カレーだとはしゃぐ姿はあんなに自然にいつもの姿と重なったというのに、それもこれも今となっては幻のように遠い。
 目の前に居るのは、私の知らない瞳を持ち、私の知らない顔で笑う、私の知らない"人間の男"。

 いっそ悲鳴を上げられたら幾分か楽になれただろう。けれど混乱した意識ではそれすら叶わない。いつだってそうなのだ。耐えられない程の嫌悪感に襲われた時、私の喉を通るのは悲鳴ではなく胃からせり上がってくる灼熱だ。酸っぱいものが込み上げてくる。視界が滲み始める。息が苦しい。


──シャァァ!
──フゥゥゥ!


 けれど。
 私が恥も外聞もなく衝動のままに吐き出して、すべてをどうしようもなく手遅れにしてしまう瞬間は訪れなかった。私とも目の前の男とも違う、全く別の二つの唸り声がいっぱいいっぱいの思考を現実へ連れ戻してくれたのだ。
 爪を出して威嚇する猫たちに、伸し掛かっていた男が面倒臭そうに視線を向ける──ああいけないと思う間もなく、二匹はびくりと大きく跳ねて走り去った。
 見たことも無い程に大きくなった尻尾は、そのままあの子たちが抱いた恐怖を表している。廊下を走る二つの足音をやけに遠くに感じながら、ギリリと奥歯を軋ませたのは無意識のものだった。
 あれほど全身に漲っていた恐怖と嫌悪感はどこへやら。身体中を駆け巡るのは、純然たる怒りだ。私の大事な大事な存在に、今この男は何をした?

「あの子たちに、何をしたんですか!?」

 視線で人が殺せるならば……そんな勢いのまま声を出すと、身体を弄っていた男の手はびくりと震え、呆気ない程に呆気なくその身体を退けた。

「い、嫌ですねぇなまえさん、ほんの冗談じゃないですか。そりゃあ確かにちょっとばっかりやり過ぎましたけどぉ……あ、あの、どうかこの事は内密に……」

 アクタベ氏には、とか。さくまさんには、とか。此処には居ない契約者に怯えながらあたふた視線を彷徨わせる青年の口からはよく知った名前が零れてくる。顔面蒼白で"たかが人間"からのお仕置きを思い震え上がる姿は、もう私の知らない"誰か"ではなくよく知る悪魔の顔をしていた。けれどいつもなら微笑ましく思うヘタレっぷりは、この場では逆効果でしかない。問いかけから程遠い答えにこめかみの痙攣が悪化する。

「……質問に、答えていただけますか?」
 わたしの、あの子たちに、あなたは、今、なにを、したのですか?
「えーとですねぇ、そのぉ、ちょっぴり脱糞したくなるようにしただけですよぉ。別に腸の中を無理やり引き摺り出すとかでは決してなくて、その、なんといいますか溜まりかけていた分だけがちょっぴり不自然なタイミングで出そうになっただけですから……害はないんですよぉ」

 いじいじと指先を捏ねる悪魔が真実を口にしているという保証はない。けれどじっくりと問い詰めていられるような場面でもない。
「ほ、本当ですよぉ。まして相手はあなたの飼い猫なんですから……このベルゼブブ優一、母体に過度の負担をかけるような強制排便は是としません!」
「……ではとりあえず様子を見て来ますけど、嘘だったら承知しませんから」


 この時の私は本当にいっぱいいっぱいで、とにかくいっぱいいっぱいで。
 だから、無事を祈りながらトイレ部屋に向かう後ろで、一人残された悪魔が一体どんな顔をしていたかなんて気にする余裕はなかったのだ。



(2015.11.01)
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