■ 06

 害があるのか。あるとすればどう対処すればいいのか。
 害がないのか。本当にないとするならどの程度の影響だったのか。
 それは先ほどまでの狼狽っぷりなど嘘のような静かな問いかけだった。感情的に責め立てるでも泣き喚くでもアクタベに言いつけると叫ぶでもなく、必要最低限のことだけを確かめると一目散に駆け出したなまえ。その後ろ姿が見えなくなってから、ベルゼブブ優一はソファの上で長い手足を折りたたんだ。誰もが振り返るだろう"王子様"には似合わない、三角座りという格好である。

「ああ! 私は、私は、なんてことを!!」

 握りしめた手のひらは、やはりいつものペンギンではなく人の手のひらだったけれど、もう浮かれることは出来なかった。そう、ベルゼブブ優一はらしくもなく浮かれていたのだ──彼女を見下ろす視界に、彼女と並べる姿に、彼女の部屋に、彼の為だけに用意された手料理に。
 ソファでの振る舞いが悪戯心によるものというのは嘘ではない。けれど今更口が裂けても言えないが、途中からはどうしようもなく本気だったのだ。
 だってあんなにビクビクしてくれるから。いつもと違う反応を見せてくれるから。あまりにも可愛らしく自分を意識してくれるから。
 けれどそんな理由を幾ら挙げてみたところで、「だからタガが外れた」と弁解するには無理がある。ソロモンリングに歪められた忌々しい状態ならまだしも、今夜の自分は貴族らしい優れた知性と品性を兼ね備えているのだ。全てが完璧であって然るべきであり、人間を手玉にとることなど容易い大悪魔だ。だというのにああ──失態だ。

 邪魔者でしかなかった飼い猫たちは、理性を取り戻した今となっては幸いと表せるかもしれなかった。あのままいけば、頑なななまえに苛立ちながらもきっと本懐を遂げてしまっていただろう。少しでも彼女が受け入れやすいだろう人間の形をとっていることを言い訳にして、怯える瞳すら甘美だと錯覚しながら、あの脆弱な人間を蹂躙していたに違いない。冷たさを増す肌に自棄になり、緩まない身体を無理やりこじ開け、拒絶の視線を捩じ伏せ、彼女の精神ごと歪めるように"堕とす"ことすら厭わなかっただろう。

 だが……はて?
 ……"乙女"を蹂躙することも堕とすことも悪魔としては"真っ当な非道"である筈なのに、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。

 けれども、その困惑の理由を求め胸の奥深くを覗き込む前に、それこそ悪魔をも恐れぬ凶悪な契約者たちの姿が問いを攫う。
 そうだ、なまえに何かあれば彼女以上に彼ら二人が黙ってはいない。日頃の"お仕置き"など比べものにもならない程の屈辱を味わわされるに違いない。そうだそうだ、その危険を避けようとしたのだ。大悪魔ともあろうものが悪魔使いに対してなんてザマだ、とか言ってはいけない。笑う奴はあいつらの恐ろしさを知らないから笑えるのだ。何はともあれその最悪の事態は回避出来たのだ。
 身勝手な安堵に瞳を閉じたところまではよかったが、それが却って仇となった。

 閉ざされた視界に安堵する間もなく、膝に広がる違和感。
 完全無欠の筈の大悪魔は、再び光の中でぱちぱちと瞼を震わせた。

「──あれ、私はなぜこんなものを?」

 涙は、自分ではなく彼女にこそふさわしいのに。
 ああそうだ。彼女は私の腕の中でかつてない程に震えて、涙を浮かべていた。

 怯えに濡れたなまえの瞳を思い出して、一旦は思考から弾き出すことに成功した筈の感情がざわりざわりと蘇る。下品な大笑いの代償として滲ませていたようなものとは程遠い、初めて見た本当の"涙"。
 アクタベの姿もサクマの声も、今度は浮かばない。ただただ、拒絶を滲ませるなまえの姿が繰り返され、引き結ばれた唇で静かに責め立てる。


 いつだって好き勝手に振る舞う人間どもに付き合わされるのは、育ちの良い自分にとってはなんともストレスのかかるものなのだ。だから、愚かな人間の筆頭でこそないにせよ、大悪魔である自分に舐めた口を利く者の一人であるなまえに対して、仕返しというか憂さ晴らしでもしてやろうという意図がなかった訳では決してないが、それだけでもなかったこともどうしようもなく真実で。


 一時は追い出しかけた自覚が蘇る。今度は目を背けることも出来やしない。
 頬を染めるでもなく真っ青になった彼女を腕の中に捕らえながら、それでも浮かれた心では確信していた……のだ。

 なんだかんだ言ってみたところで、女なら誰しもが振り返るようなこの姿で攻めていけばどうせすぐに落ちるだろうと。そうしたら、後は簡単だ。さっきまでの"おままごと"が霞むくらいに甘やかしてやって、優しくしてやって。痛い思いなんて何一つさせないまま、骨抜きにしてやればいい。
 だって本当の自分は、彼女が好きな毛皮も羽毛も纏ってはいないのだから……それならば、人間の方がずっと勝算がある。
 それが、どうだ。あんなにまでも徹底的に嫌がられるなんて。いつまでたっても彼女の身体は固く、見つめれば見つめる程、触れれば触れる程に、思い描いた光景から離れていく一方だった。
 不快感に染まる眼差しは、頭の足りないペンギン時ですら覚えのないものではなかったか。こんなものは彼女の好む"ベルゼブブ"ではないのだと、全身で拒絶を訴えてはいなかったか。

 まして(確かに苛立ったとはいえ)彼女が愛おしむ存在を傷付けるわけがないだろうに。
 それくらいわかってくれると思ったのに。なのに、あんな風に怒るなんて。

 いつものペンギン姿とは違う、本来の姿により近い格好でようやくなまえの前に立てたのに。ようやくこの両手であの女を抱きしめることが出来たのに。カレーだって行儀よく食べたし、持ち帰りの許可もそれとなく得られたし、あのまま進めば順風満帆確実だったのに。そして陽が昇って別れた後、ストーカー野郎に然るべき制裁を叩きつければそれで終わりだったのに。

 なのにどうして今、こんなにもかけ離れた場所にいるのだろう。



 らしくもなく湧く涙は底を知らないようで、拭っても拭ってもきりがない。



(2015.11.12)
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