■ 07

 リビングに響くえぐえぐという嗚咽になどまるで気が付かないまま、廊下の先にむかって声を飛ばす。

「ねえちょっと優一さーん、ちょっとこっち来て下さいー」

 ……。
 あれれ、足音が聞こえない。さすがにこの距離で届かないなんてことはないと思うんだけど。
「ねえねえ、さっきのアレの効果ってー、これで全部終わりですかねー? ねえって、聞いてますかー!」
 ちなみに、この程度の大声ではご近所迷惑の心配がないのがこのマンションの売りの一つである。
 何を隠そうここは、この私が探しに探した超優良物件。つまり猫飼いの宿命である防音設備と換気設備にだけは徹底的に拘ったマイスイートホームなのだから。


 さて。
 結論から言えば、猫たちは相変わらずの元気さだった。


 真っ青な顔でトイレ部屋に駆け込んだ私の心配などまるでなかったことのように、トイレ後のハイテンションでばりばりと爪を研いでいるかと思えば、傍らではもう一匹がキャットタワーをひたすらダッシュで登っては降りてを繰り返していた。いったいどんな惨状なのかと恐る恐る目をやったトイレの中では、ぷりぷりっと元気なウンチがほかほか湯気を出し……って、だから砂掛けろっていつもいつも言ってるのになんでこうやりっぱなしなのかこの子たちはー! そんなところまで可愛いんだけどもー!

 とまあ、そんな感じで差し迫っての問題は無いように見えはするものの、やっぱり元が超自然的な外的要因によるものだとなると不安が残ることは残るのです。

 だからこうして諸悪の根源に直接解説を求めようとしているのに、呼べども待てども一向に金髪は現れない。ああもう仕方がないなあと痺れを切らした私が溜息を吐く段になり、ようやくぺたりとぺたりと足音が聞こえてきた。

「ああよかった、今呼びに行こうと思ってて──ってどうしたんですかのその髪」
「べつに」

 いやいや、べつにで済ますのはちょっとどうかと思いますよ。だって真ん中分けでびしっと決まっていた筈の髪型がぐしゃりと乱暴に崩れているじゃないですか。おまけに顔はいつもより下を向いていて、表情が読み取れないんですから。
 けれども。そんな明らかに何かあった様子にぱちりと瞬きをしてみたものの、優先順位はあくまで猫たちには及ばない。だからそのまま、元気いっぱいの猫とトイレを交互に指差して「本当に大丈夫なの」と本題に取り掛かる。

「ですから、母体に負担をかけるようなことはしないと言っているでしょう。あくまで安全かつ自然に、生まれ落ちる時を待っているものを極力負担なくするりと出してこその"快便"なのですから」
「……えーっと、わかるようなわからないような……いやまあ、とにかく安全ならいいか、うん。とりあえずその"母体"って言い方はどうかと思う……んですけど」

 乱れに乱れて無残なすだれ前髪と化している髪の毛。その奥ちらりと覗き見える暗い瞳に思うことがないわけではないが、まあ可愛い可愛いこの子たちに問題が残らなら別にいい。強いて言えば「後で何かあったら責任取ります」的な念書を書いてもらって、アクタベくんに証人になってもらうための交渉をどうしようかとか気にするくらいで。
 そんな薄情なことを思いながら、よしじゃあウンチ取るかーとビニール袋とスコップに手を伸ばした私の腕を掴んだのは──死んだ魚のような目を、たった一瞬でギラリと情念たっぷりな輝きに塗り替えたベルゼブブさんだった。

「なまえさん、それをどうするおつもりですか」
「いや、まだ柔らかいんで……今の内にトイレで流そうかと思っていますけど?」
「なまえさん、私はそれを所望します」
「……え、こんなの貰ってどうするんですか?」
「食します」
「………………ああ!」

 そうかそうか、ベルゼブブさんって"蝿"だもんね。そっか糞便に寄って行くだけかと思ってたけど食べるのか、そうかそうか。そこまで"蝿"か。そういえば、さくちゃんが消臭剤振りかけたりやたらに歯磨き粉を買い揃えてたりしてたっけ。そうだそうだ、そういえば前にアクタベくんがスカ○ロ野郎って言ってたわ。いやぁ、会う時会う時、至って普通にカレー好きのペンギン悪魔だったからすっかり忘れてたわ。うっかりしてたけど、この人こう見えても"蝿"の大悪魔様だったわ。そうだよ"蝿"だよね。

「えーと、ちょっと猫砂がひっついちゃってますけど、それでも構いません?」
「……!? ……!! ……!!」
「ああ、そんなに懸命に首を振らなくても大丈夫ですから。じゃあ今から食べます? それとも紙皿かなんかに移してラップしとく方がいいですか?」
「い、今から! ぜ、是非……!!」

 やけに潤んだ瞳でコクコクと頷くベルゼブブさん。けれどこんなにも必死な顔で求めているのが猫の糞なのだから……こうなるとアレだ、金髪碧眼の高スペックがむしろ可哀想なものに思えてくる。
 えーと、じゃあまず何かに入れないと。紙皿はキッチンの上にあったし、確か割り箸もまだストックがあった気がするし。なんてことを考えている間に、用意の良すぎるベルゼブブさんはどこからともなく取り出したナイフとフォークを構えているではないか。

「なるほど。手掴みじゃないだけ上出来ですね」


 さすがに、いくらラブラブを見せつけるにしてもこれから起こることを見られるのは不味いだろう。どこかの誰かの目からこの珍事を隠すため、リビングに戻った私は真っ先にカーテンを引いた。



(2015.12.06)
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