■ 10

 多少ノリツッコミの心得は持ち合わせているとはいえ、お笑いに関しては門外漢なことに変わりない。
 そもそも私がしたいことはお笑いスター誕生の瞬間に立ち会うことではなく、あくまで今ここにある好奇心を満足させることで……やけに真剣な眼差しを向けられても困ってしまうのだけれど。

「えーと、まあ今後のコンビ運営に関してはまた別の話ということで、はい、終わりです。あとはこちらの続きをしましょう」
「なまえさん! あの、あなたの気持ちは大変に嬉しいのですがやはりこういったことはもっと然るべき舞台を整えてから……」

 真っ赤なタイに手をかける筈が、あっさりと両手を封じられてしまう。さすが蝿という素早さだった。
 ぎゅっと握られた手元は痛みこそ無いが全く動かせない。先程のように一方的に触りに行くならまだしも、こんな風にしてベルゼブブさんの手の感触を意識させられるのはなんか、その、妙に気恥ずかしいといいますか。相手は"そういう意味"では全く対象外な悪魔で、でもやっと出会えた存在なのだから後学のために……とあくまでも純粋な好奇心として肌の継ぎ目(それが隠された腕や肩や胸にあるのではという予想)を確かめたかっただけなのに。ああ、こんなところで深夜テンションのツケが回ってくるなんて。 

 けれどそれきり、待てど暮らせど声は降ってこない。急になんだかドキドキしてきてしまった私を揶揄するどころか、貴族様に向かって無礼だろうがこのクソビッチがと叱り付けるような言葉すらも。珍しいこともあったもんだと窺った先で真剣さが増したどころか何やら思いつめてすらいるような眼差しを見つけてしまい、ついに、ようやく、やっとのこと、私は自分の迂闊さに思い至った。

「も、もしかして優一さんにとってはこれって結構デリケートな問題でした!? あの、ごめんなさい。みんな薄着か丸出しだからてっきり悪魔って脱いでナンボのお仕事なのかなーとか……思ったんですが……そうですよね、そういえば事務所での姿でも上だけとはいえぎっちり着込んでますもんね」

 もうちょっと深く考えるべきだった。あれ程までに惜しみなくペンギン尻を披露するくせに腕はしっかり隠しているなんて、いかにもそこに拘りがありますと言っているようなものではないか。
 程度の差こそあれ、誰しもコンプレックスがあるんだから……いくら相手が悪魔だからってその配慮を忘れてはいけなかったのだ。人間同士でも他人への配慮は大事なのに、まして他種族なのだからなおのこと。美的センスから常識から、何が正解かぱっと見で解る訳がないじゃないか。たまたま相手がベルゼブブさんだったからまだ関係修復に可能性があるけれど、もしこの調子でやっとの思いで出会えた龍やユニコーンや蜘蛛男の気分を害してしまったとしたら……ああきっと、フラグをへし折るどころの話ではない。

 直前のテンションから急落下しじめじめモードで打ちひしがれる私に対して、やはりなじることも叱咤することもなく、もぞりもぞりと這い出るベルゼブブさん。立ち去られても仕方が無い。でも、たとえこちらを見てもらえなくても想いは伝えなければならない……!

 けれど謝罪の言葉を重ねる前に、なんとベルゼブブさんの腰が落ちた。

 えええ、ひょっとして立ち眩みってやつだろうか。貧血ならまだしもリバースだったら危険だ。よりによってカレーというだけでも臭いと色残りが怖いってのに、直近で口にしていたのが糞便だってのが最悪だ。これは不味い。なんとしてでも阻止しなければ……ってこんな時に限って適当な袋が見つからない。ゴミ箱を差し出そうか、でも処理するのは嫌だなあ。ゆっくりでもいいから自力でトイレまで行けるかなぁ。ああ、一体どうしたら。

 最悪の事態を想像して脳みそをフル回転させている私に、目の前の悪魔が立ち眩みにしてはやけにスマートな姿勢を保っていることに気付く余裕はない。
 本当は最初から、彼は崩れ落ちたのではなく跪いていたのだ。けれどそれを理解したのが、ああそうだ隣の部屋から猫用の袋を持って来よう、せっかく大人しく寝ているところを起こすのは可哀想そうだけれど、これからずっと異臭の取れないソファと床で暮らすことを思えば許してくれるだろう、などと考えながら浮かせかけた腰を実力行使で押し戻されてのことなのだから間抜けなものだ。

 解放されていた筈の手に、またベルゼブブさんのぼこぼことした美しい手が這わされ、何も言えないまま心ごと指が絡めとられていく。弱くはないけれど痛くもない、けれど決して抜け出せない。どうしたって理性の働いている強さで握られた手に向かって、ゆっくりと彼の顔が寄せられる。どうしたの、やっとの思いでそう唇を動かす前に悪魔の吐息が空気を震わせた。

 聞いたことも無いような深く重い声で絞り出される言葉の意味を理解する前に、本能的な部分が反応する。背筋を冷たい汗が一雫流れ落ちる。先程からの自分が、まったく、これっぽっちも正解を見出してはいなくて、それどころか恐ろしいほどに見当違いの方向に思い違いをしていたことにも気が付いてしまう。

「せっかく話題を逸らしていただいたというのに……すみません。ですが、このまま有耶無耶に流すなど出来ません。やはり私はあなたに謝罪しなければ。今までの数々の無礼と暴言、そして何よりも先刻の非礼を、今、この場で」

 あ、なんかこれあかんやつや。

 麻痺した脳裏にアザゼルくんの顔が浮かんだ。
 よくわからない次元でお笑いに煩いあの悪魔の顔は、再び「あかんやつや」と呟いてぽんと消えた。つまりお笑いの悪魔にも匙を投げられる程に、致命的なまでに「あかんやつや」なのである。現実逃避失敗。

 だってこんな構図には覚えがある。けれどこんな場面は映画や紙の中でしか見たことがない。だって当然だ。どの媒体でも当てはまるのは騎士だとか姫だとか貴族の娘だとかそんな感じのばっかりだったから。つまり、縁遠いはずの自分の身に起きているとしたら、それはもう私の手には負えない事態であるということで。どう楽観的に考えても、この後の展開はいただけない。
 ただでさえ誰もが知る上位悪魔"ベルゼブブ"が、こんなふうに地に膝をついて、こんなにも真面目な様子で、挙げ句の果てに「謝罪します」などと。
 あかんこれはほんまにあかん。冗談にしてはタチが悪過ぎだ。笑い飛ばすにもハードルが高い。

 そしてなにより。

 冗談でなかった時が本当に不味い。

 駅前にいた時のようなかなり美形ではあるがあくまで"人間"の姿ならまだしも、この姿はまずい。 
 わざわざ裏地を見るまでもなく上質なことが分かるこの悪魔的な紳士服(私のせいでもはや皺だらけだけれど)に加えて、複眼羽根付きという本気装備で頭を下げられるなどシャレにならない。
 魔界の貴公子様に何のネタ要素もなく、ただただ本気の礼なんてものを尽くされてしまったら詰み確定だ。これがもしも明らかな戯れだったら喜んで踊るし、多少のタチの悪さなら最終手段としてアクタベくんに泣き付けばいい。けれど、こうやって真摯に振る舞われるのはいけない。こんな存在に礼を尽くされれば、ただの人間である私なんぞは礼を尽くし返す以外に道はない。けれど、ただの人間でしかない私には、返せるものなどたかだか知れている。


 つまり、完璧に、待っているのは僥倖ではなく詰みでしかない。

 やばいやばいやばいやばいやばい。


 これ、ベルゼブブさんが目を伏せてるからまだいいけど、こっちを見られたらもう逃げられないよね。目があったら返事しなくちゃいけないよね。大丈夫ですよいいですよ気にしないで下さいーってへらへら笑い返していいところなの!? やばいやばいやばいやばいやばい──あ、お花畑が見えてきた……──

 急速に上がったり下がったりする血液で心臓が軋み潰れてしまう前に、脳の方で緊急停止が叫ばれたのか。薄れていく意識のなかで響く声はただの音として右から左へ流れていく。ああそうだ、これでいい。だって不可抗力なのだから。聞こえなかったら仕方がない。これでいい。きっともう、怖くはない。


「勢いに任せてどうこうなどと、あまりにもあなたに対して失礼でした。あなたはいつだって私の見せるままを受け入れて下さったのに……なまえさん、私はこの自らに流れる高貴なる血に誓いましょう。あなたのことを──」



  ***



 気絶に近い勢いで睡魔に飲み込まれていったなまえはその後の悪夢からも解放されたようで、ようやくすうすうと規則正しい寝息を立て始めた。
 淑女の寝室に怖気づくこともなく、かといって無防備な処女に不埒な真似を働くでもなく、ただ彼女を見つめ続けていたベルゼブブだったが、やがてベッドに肘をつき寝顔を覗き込むとそっと彼女の名を舌で転がした。ただそれだけなのに、たちまち駆け巡る衝動が彼の口角を乱暴に引き上げ鋭い歯を覗かせる。

 告げた言葉も柔らかな手に落とした口付けも彼女の正気には届かなかったようだが、そんなことは実のところどうでもよかった。大切なことは思いを戯れで終わらせるのではなく言霊に昇華させることであり、けじめだ。なまえが耳を塞ぎたがるのならば今はそれでもいい。どちらにせよ、悪魔ベルゼブブ優一が苗字なまえを欲していると示していくという指針に変わりはない。


 浅はかで愚かしいが、同時に愉快で愛おしい。
 この魂を手に入れたいと、たちまちのうちに大きく育ってしまった衝動が声高に繰り返している。
 散々目にしてきた矮小な人間たちの中でも類を見ない程に救いがなく、いびつ。哀れなほどにゆがみながらも凛とした輝きを放つ様は、肥溜めの海でひっそりと繁殖する貝がはぐくむバロック真珠を思い起こさせた。
 

 ──ああなまえ。金秘蝶貝が孕む歪み真珠のような魂。あなたの手をとる男には、誰よりも、この大悪魔こそが相応しい──


 奪うよりも、堕とすよりも、壊すよりも、歪にあるがままを見ている方が愉しそうだなんて。まして、選ばせるのでもなく、選んでやるのでもなく、選ばれたいだなんて。望まれたいだなんて。
 ただの人間に対するにしてはあまりに度を超えている執着心は、並の悪魔が軽率に抱けばたちまちのうちに破滅するような猛毒だ。そう、己の力量もわからないような、"並"の悪魔ならば。



(2016.05.07)
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