| ■ 11 「優一さん朝ですよー」 声より先にぺちぺちと頭を押す冷たい肉球の感触で目覚めてしまったベルゼブブは、飼い主に似て自由気ままな猫達を放り出して身支度を整えるとリビングを目指す。 あらぁ、お客様を起こしてくれたの? 良い子ねぇ、可愛いねぇ、んー天才! 親バカ丸出しで猫を構うなまえの横を通り過ぎようとして、飛び込んできた光景に足が止まった。まさかという驚きと、隠しきれない期待に胸と胃袋がざわりと揺れる。テーブルに置かれた皿からは、昨日の夕食以上にこんもりと盛られた白米とルーがほくほく湯気を立てている。 「これは……」 「昨日は遠慮してたみたいなので、思いっきりどうぞ」 朝だというのに分厚いカーテンが引かれたままの理由はこれか。 最初から悪魔の姿で貪っていいよと言われて、断る理由は見当たらない。出来立てのカレーも美味だが、一晩置いたカレーが格別なことは説明するまでもない事実だ。一口含んだだけで昨日とは段違いの旨味が広がり、幸福感に包まれる。けれど、この味の変化が時間の経過によるものだけではないことには、ベルゼブブ程の上級者でなくとも簡単に気が付くだろう。 「なまえさん、一体いつの間にこんなアレンジを……!?」 ピギィと真面目な顔で尋ねれば、さすがですねと嬉しそうな声で寄ってきた彼女は紙袋を差し出した。 「はい、カレー弁当。さすがにあのままじゃ二食分には足りなかったので、あれこれ加えて増やしちゃいました」 中身は見えないが、どんと響いた音からしてボリュームたっぷりなことは想像に難くない。 ピギャース!! なにこの女、クソ可愛えぇぇぇ……!! 行き場のない叫びを堪え、めり込もうかという勢いで顔を机に押し当ててもざわめく心までは止められない。ついでに言えば、スプーン片手にピクピク震える危ない姿を目に映しながらも「そんなに喜んでもらえると頑張った甲斐がありますねぇ」で済ませてしまう適応能力の高さもまた素晴らしい。 「それでですね。さっきゴミを出しに行ったら、こんなものがポストに突っ込まれていまして」 「……ああ! 例の胸糞悪いストーカーですか。どれ、貸してみなさい」 まさかカレーの感激で本来の目的を忘れかけていた、なんて言えやしない。 そういえばと慌てて身構えれば、続いて不快感と敵意も目を覚ます。私のなまえを狙い、あまつさえ怯えさせるなど、徹底的に償わさなければ気が済まない。本当ならもっともっとカレーの余韻に浸っていたいところだが、そういうわけにもいかない。 結構な枚数に綴られた言葉は、ちらりと目をやるだけで充分だった。その男は誰だの、そんな風に確かめなくても僕の愛は君にしか向いてないよだの、寂しいならなぜ僕の元に来てくれればいいのにだの、なぜ今僕の部屋に君がいないんだろうだの、こんなにも思っている僕の愛をなぜ理解してくれないのかだの。知性の欠片も感じられない文字がのたくった紙切れをぐしゃりと握り潰すと、ここは自分の怒りよりもまず被害者であるなまえを気遣うべきだと顔を上げる。 けれど肝心の彼女こそが、意外な程にのほほんとした表情でいるのだから拍子抜けだ。尤も、先程からずっとこんな感じだったのだから当たり前といえば当たり前だったのだが、それにしても警戒心や嫌悪感にムラがありすぎだろう。 「あー……あなた、こういうものは恐くはないのですか?」 昨夜、人間の姿をした私に対してはあんなにも怯えたというのに。面白くないという感情は極力隠して、呆れだけを口にする。 「まあ今更ですし。それに、今までだってこうして対策した後はぴたりと止んだので。さっきもお楽しみたっぷりの情事後ゴミ袋を出してきたので、さすがにもう懲りてるだろうなーと」 「……そうですか、ではきっと大丈夫でしょう。ですが、この件が片付いたところであなたが若い女性であることに代わりはありません。くれぐれもお気を付けなさい」 御足労おかけしましたと頭を下げる女は、きっと本当のところは何もわかってはいないだろう。 いっそ全て"暴露"してやったらどんな顔をするだろう。けれど、アクタベに念押しされた身ではそれも叶わない。 さて。昨夜の一件により、命令以上の感情でこの案件にあたることになったベルゼブブとしては、あくまで本来の姿は食事の間だけにするつもりだった……のだが、いざ再度変身をという段階になってみれば(案の定というかマイペースというか身勝手というか)なまえがそれを渋り始めた。もうちょっといいでしょう。もっと見ていたいです。そう裾を引っ張ってくる姿自体は見慣れたものである筈なのだが、非ソロモンリングという開放感に加えてプリチー姿の時とは目線も違う。ベルゼブブの胸は予想外の衝撃に貫かれたが、その場にうずくまることはなんとか避けて丸めた背中を小刻みに震わせるに止めた。 キラキラと輝く瞳を向けられ悪い気がするわけがない。自慢の羽をここぞとばかりに震わせてやれば、なまえの口からは熱っぽい吐息が漏れでた。そのうち、感極まった顔で「触ってもいいですか」と問うから許可してやると、壊れ物でも扱うかのようにそっと触れるので思わず吹き出してしまう。いつも事務所であれだけ遠慮なく抱きしめていたくせに。そして、昨夜だってあんなに情熱的に迫ってきたくせに。 「ねえなまえさん、悪魔の肉体はあなたがた人間よりもずっと頑丈ですよ?」 お忘れですかと囁くついでに頬を撫でてやる。その気になれば薄い皮膚など容易く裂ける指先で、彼女が自分の羽に触れた時のように殊更にゆっくりと、優しく、そっと撫でる。くすぐったそうに右に左にと小さく捩れる身体は無防備そのもので、許されている距離に眩暈を覚えた。嬉しいことは嬉しい。けれど、幼少期の体験から悪魔だけはちょっと……と言ってはばからない彼女が相変わらず自分を"そういう"対象としてまでは意識していないことの表れでもあるので、無邪気に喜んでばかりもいられない。正直なところ胸の内としては複雑だ。オスとして意識されてもみたいが、かといって今すぐこの距離を崩すのは惜しい。更に困ったことに、そもそもこの魔界のプリンスである自分が女に向かってこんな感情を抱くことや葛藤することは今まで考えたことすらない事態で、つまり初めての状況にどうしようもなくわくわくしているのだ。 などと食後のひと時をそれなりに楽しんでいたベルゼブブだが、次第に余裕や愉快さよりも別のものが意識を占め始め、そろそろ潮時だろうと這わせた指を一本二本と解いていく。特別だと定めた女を相手にして独り善がりな欲望のまま襲いかかる程に愚かでも飢えてもいないが、だからといってこうも甘ったるい空気の中でいつまでもタガを外さずにいるのも辛いものなのだ。 「さあ、もういいでしょう。いつまで遊んでいるのだと氏の怒りをかうのは御免ですからね」 「え、え、まだいいじゃないですか!」 食い下がろうとする彼女を無視して姿を変えると、ひゃぁという小さな悲鳴と共にあれ程近くにいた身体があっさり離れていく。予想していたとはいえ、あまりにも露骨な反応だ。 おいコラおまえと眉間に皺を寄せると、さすがに当人としても今のは不味いと思ったらしくごにょごにょと言い訳をしながら戻って来た。 「や、その、今のは驚いただけで……ごめんなさい。うう、大丈夫ですよー。さっきのお姿の方がそりゃずっとずっと素敵ですけど、これもベルゼブブさんだってわかってるから大丈夫ですよー。うんうん。よく見たらそこまで変わってないですし。あ、感触は違うけど大きさ自体はここもそんなに変わってないんですね!」 「そんな触り方では、見せつける程のいちゃつきには程遠いですよ」 確かめるためか誤魔化すためか。恐る恐る触れては離れてを繰り返す手をさりげなく払い、勢いよくカーテンを開ける。途端に差し込んでくる日差しに目を細めながら、勢いに任せて傍の彼女の腰を抱けばガチガチの身体がもう一段硬くなった。けれどここで甘やかしては意味がない。 「人間の男が苦手ならばそれでもいいですから、せめてこのベルゼブブの身体くらいは覚えなさい」 この手は先程あなたに触れた手です。この指をあなたは興味深そうに何度も揉んでいたでしょう。ほら、よく見て触って感じて下さいよ。この腕もこの背も、この顔もこの髪も、他の何者でもなくこのベルゼブブ優一の姿の内です。本来の気品はそのままに人間界用に調整した肉体なのですから、私を気に入ったのならぜひこちらも楽しんでいただきたい。 もともと、昨日も腕を組んだり肩を寄せたりの演技は出来ていたのだ。己の言葉に押され認識を改めようとするなまえを見下ろしながら、ベルゼブブは胸の中でだけ何度目かの溜息を吐いていた。こうしてみれば、いかに昨夜の自分が先走っていたか思い知るというものだ。それにしたって、あの姿が平気でこの姿に抵抗をみせるなど誰が予想し得ただろう。まったく、なんて難儀な性質を宿した女なのか。 *** 「いいですか、何かあってもなくても、次からはもっと早く言うのですよ。せっかく頻繁にあんな場所に顔を出しているのですから、利用するものは利用してやるぐらいの心構えでいかないと」 駅まで送ると言って聞かない彼女をなんとか説得し、マンション前で"恋人同士"の演技を始める。 これで"仕上げ"だとうそぶいて、抱き締めた髪の一房に口付けを落とし、最後にもう一度名前を呼ばせて。何度も何度も振り返ってマンションの中へと消えていくなまえの姿は打ち合わせ通りのものでしかない筈なのに、それを見送る胸は滑稽なまでに高鳴っている。 いっそ、今すぐ追いかけて手を掴み、掻き抱いてしまえたらいいのに。これが本当の恋人関係であったならば、離れるのが寂しいとぐずる彼女を優しく甘く慰めて、惚けさせたまま魔界へ攫ってしまえるのに。ああそうだ、むしろ逆に、身の程知らずにもこの大悪魔ベルゼブブの襟元を掴み、離れることは許さないと命じるような……そんな身勝手な振る舞いすらも……なまえならば似合うだろう。グリモアで縛る必要も、策を講じる必要もなく、ただの非力な人間のままで私を跪かせることが出来る喜びに彼女が気付く日が待ち遠しい。 そのためにも、ここからは念入りに進める必要がある。どんなに愛を囁いたところで、"悪魔の囁き"などとありきたりな誑かしと受け取られては意味が無い。悪魔の本気が……このベルゼブブ優一の誓いがどれ程に深く重く得難いものなのか、あの能天気な頭に刻みつけて差し上げなくては。ドラゴンだのユニコーンだの精霊だの、不愉快な寝言を口にしていられるのも今のうちだ。 けれど今はまず、彼女のあの笑顔を絶やさぬように、身の程知らずに地獄を見せるために、今度こそ本当の"仕上げ"に向かおうか。 *** 「ちゃんと"片付けて"来ただろうな」 一泊二日の仕事明けをねぎらうでもなく、面倒に巻き込まれている友人の様子を訪ねるでもなく、開口一番にそれを問う男にああやはりそういう意味だったのかとベルゼブブの奥歯がぎりりと軋んだ。 初めからおかしいと思っていたのだ。アクタベが教えたというやり方は、穏便な撃退方法とは真逆だった。いっそ見事なまでにタチの悪い嫌がらせにしかなっていない。あんなもので諦めるような程度なら、ストーカーとして彼女に認識されることすらないだろう。だからあれらは……最初から、諦めさせるための行為ではなく、火に油を注ぎ最短で炎上させることを目的とした単なる挑発だ。なまえ自身がそのことに気が付いていないのは、つまりそれだけ"人間の異性"への想像力が欠如しているからで……。 現になまえは嬉しそうに話していた。アクタベに頼った翌日から、手遅れな程に執拗だったストーキングがぴたりと収まるのだと。しかも、いつも、いつも。そんな都合のいいことは通常ならありえない。そして今回、その役目を悪魔に振ってきた理由は── 「自分で手を下すより、悪魔を使った方が心が痛まないということでしょうか」 「ハッ、まさか。単に楽をしようと思っただけだ」 (2016.05.08) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |