■ 01

「ねえなまえさん、以前話されていたことについてですが」
「な、なんでしょうかベルゼブブさん」
「そうではなくて……せめてこの姿の時は、先日のように呼んで頂けませんか」

 斜め上から感じる視線。斜め上から降ってくる声。
 隣に並ぶことには慣れていた筈なのに、位置が違うというだけでこんなにも勝手が違うなんて。そう思ったのは最初だけで、勘違いだったと今ではわかっている。勝手が違うと感じたのは私が緊張しているからではなく、相手であるベルゼブブさんこそが"いつもどおり"の様子ではないからだったのだ。ちらちらとこちらを見ては口を開きかけ、何も言わないまま閉じる。そして数歩進んではまたちらちらとこちらを見て、何も言わず視線を逸らし、またしばらくしてはこちらを見て。さっきから、いったい何度そんなことを繰り返していただろう。次があればいよいよ追求してやろういう私の心を読み取ったわけではないだろうが、その"次"はやってこなかった。代わりに、散々肩透かしをくらった吐息がようやく言葉となって耳まで届く。


  ***


 「遅いですから駅まで送ります」なんて"いつもと同じ"ことを言って付き添ってくれるのは、もうすっかり"いつものこと"だった。
 ぶぶぶと隣を飛ぶ横顔に向かって他愛のない話をしたり、ぺたぺたと歩く翼と手をつないだり。たまに不慮の事故というか……道クソ食いを眺めることになる日もあったけれど、事務所の喧騒を離れてのんびりと歩く道は思いのほか楽しい時間だった。ますます差し入れのイケニエ選びに気合が入ってしまう程度には、楽しい時間だった。
 けれどそんな"いつものこと"でも当然ながら例外はあるもので、それは例えば契約悪魔の本分であるお仕事が残っている日だったり、今日のように夜を待たずに帰ろうかという日だったりした。そんなわけで「じゃあまたね」とさくちゃんたちに手を振った私は当然ながら一人で帰る気だったし、振りかえしてくれる面々には金色の巻き毛も含まれていた。
 いつもより早足で階段を下りながら、今日もベルゼブブさんはもふもふだったなぁ、今度はどこのカレーパンを買ってみようかなぁとにやにや笑う自分が、一歩間違えれば不審者扱いされそうな浮かれっぷりなことは自覚している。けれど、駅へと向かう私の背にかけられたのは、胡散臭そうな視線でもなければ職質の決め台詞でもなかった。

「なまえさん、お待ちなさい!」

 聞き慣れた声とともに、聞き慣れない音がした。
 雑居ビルの階段をカンカンと踏み鳴らし現れたのはベルゼブブさんだったのだけれど、確実にいつもと違うところが一つ。彼は靴を履いていた。飛ぶのではなく、長い足を使って階段を駆け下りていた。つまり彼は、人型だった。ほんのさっきまでプリチー悪魔だったのに。

「どうしたんですか珍しい。ひょっとして、今からお仕事ですか?」
「まさか。今日はこの姿で送ってやろうというだけですよ」
「……おや、それこそ珍しい」

 先日のお泊まり大作戦の時は、人の姿でなければ計画そのものが成り立たないという必要性があった。けれど今日みたいに、たかだか事務所から駅までの送迎でソロモンリングを緩めるなんて用心深いアクタベくんらしくもない。しかもこれが虎の子の愛弟子さくちゃん相手ならまだしも、腐れ縁程度の私の送迎に……?
 なんて小首を傾げてみたところで、すでに人型になってしまっているベルゼブブさんに「たまにはいいでしょう。これもあの事後処理の一環です。それとも、私よりもアザゼルくんに送って欲しいとでも言うつもりですか」と拗ねるように言われてしまえば、もうなんだっていいやという気になる。そもそも、アクタベくんが決めてアクタベくんが術を緩めたのだから私があれこれ考える必要もないのだった。


  ***


「なんでしょうか、"優一さん"」

 そんなこんなで歩き出したものの、なんだか"いつも"よりも静かだなぁと思っていた矢先。ベルゼブブさんがやっと口を開いたかと思ったら、らしくもなく真剣な声で話し始めるから。つい、肩にきゅっと力が入ってしまった。とっさに上擦った声で返事をしたところ、今度はハの字の眉でこう言われた。「先日のように"名前で"呼んでくれませんか」と。
 だから応じただけなのだ。"ベルゼブブさん"と呼んだところを"優一さん"に変えて、言い直しただけなのだ。
 なのに、それで結構ですと頷いたベルゼブブさんがあまりに満足気だったから、またもや一体どんな顔をすればいいのかわからなくなる。慌てていることが悟られないようにと願いながら、街路樹や生垣に視点を移す。これはどういうことだろう。なんでまた、名前なんて。
 "ベルゼブブさん"だろうが"優一さん"だろうが、ペンギンだろうが人型だろうが、どちらも同じベルゼブブさんに違いないだろうに。けれど悪魔は悪魔なりに、結界の影響下にある時と本来のものに近い状態を区別しているのだろうか。

 そういえば、いつだったかアクタベくんが「単純さが増して、より本質に忠実なバカになる」と言っていた。見た目だけではなく情緒や思考という知能レベルで影響を受けるなら、ソロモンリング下と通常時を区別するという拘りも理解出来ないこともない。ただ、それでも。繰り返すが、私にとってはいつだって同じベルゼブブさんなのだ。
 だからつまり、その、なんと言うか。先日のような目的があっての恋人ごっこでならまだしも、今更とってつけたようにファーストネーム呼びは……正直居心地が悪くてむずむずする。
 けれどぐるぐると違和感に苛まれている私になどまるで気が付かない様子で、一人上機嫌になったベルゼブブさんはさっさと本題へ移ることにしたらしい。ちらちらと何度もタイミングを窺っていたさっきの姿は微塵も残っていない。


「あなたの私たち悪魔に対しての憂いが、随分と滑稽なものだといい加減にお気付きになられてはいかがですか」

 どういう意味ですか。困惑を声にしようとする直前、一歩先に出たベルゼブブさんの足がごくごく当たり前のように十字路を折れた。駅までの最短ルートはこの道を直進だし、何度も送ってくれたこの悪魔がそれを知らない筈がない。言葉と行動の両方に向けて、今度こそ問いかける。

「なんのつもりですか?」
「……あなたのお母様と契約悪魔のケースは、こう言っては失礼ですが非常に稀なことです。グリモアが天界に持ち去られるなど、そうそうあることではないのです。あなたは悪魔を失うことを殊更に恐れておいでですが……私たち悪魔からすれば、人間の方がずっと脆く、危うく、あっという間に死んでしまう蜻蛉のようなものなのですよ」
「でも、あの事務所でも一冊ありましたよね。牛のモロクさんだっけ」

 私だって聞いてるんですからねと口を挟むと、視線を逸らしたベルゼブブさんは「あのクソ牛がっ」と舌打ちする。見慣れた仕草だけれど、ペンギンではない今では絵に描いたような"残念なイケメン"ぶりが素晴らしい。
 けれど再びこちらを向いた時にはもう、親しみやすい三枚目な気配は消えていた。細いとはいえ道のど真ん中で足を止めたベルゼブブさんは、いたって真剣そのもののといった顔付きで告げる。
「あれこそ新米悪魔使いが遭遇した不幸な事故です。ただ、あの一件でさくまさんの自覚も強まりましたし、こう言っては皮肉ですが──氏の結界は大したものですから。二度目は有りません」
 ──あ、これあかんやつや。こんな事態に陥ったことはない筈なのに、妙な既視感に襲われた。


「ですからなまえさん、何処にいるかもわからないような妖怪変化を追い求めるよりも、もっと現実的かつ建設的な選択肢に目を向けてはいかがですか」

 すれ違う人など誰もいない、静かで暗い道。すぐ横の道は商店街だというのに、呼び込みの声すら聞こえない。
 それどころか大通りを走る車の音も、線路を進む電車の音も聞こえない。たった数歩の内に、踏み越えてはいけないラインを踏み越えてしまったような気がする。そしてそれは多分気のせいではないのだけれど、今となっては後の祭だ。
 街灯は遠く、こちらを向いたベルゼブブさんの表情はよく見えない。にも拘わらず、爛々と輝く瞳だけは妙にはっきりとわかってしまう。目の前の彼は先日と同じただの人間の姿をしているというのに、何故か見紛うことも出来ない程に"悪魔"でしかなかった。
 けれど変貌ぶり以上に妙な違和感が私を捕らえて離さない。甘い言葉で人を騙し、魂を堕とし、全てを奪う恐ろしい存在……確かにいきなりの展開にびっくりはしている。どんどん増していく空間の重圧感は、相対したものの大きさを否が応でも知らせてくる。でも、本当のところは、こんなことは百も承知なのだ。出会った時からこの悪魔を上級悪魔だと認識していて、悪魔だと思って触れてきたのだから。だからまあ、それはいいのだ。気になるのは、これほどまでの悪魔にもかかわらず、何故その目はそんなにも余裕を失くしているのかということで。
「つまり……? 何が言いたいのですか」
 嫌な予感はひしひし感じているけれど、一歩目の時点で回れ右を選び損なった今となってはこの道を前進あるのみだ。尋ねることしか出来ない代わりに潔く腹をくくった私に対して、一拍置いてベルゼブブさんが言い切った。

「私を望めば良いのです。この魔界の貴族にして最強の悪魔である私を選べば、残される不安など感じる必要はないのですから」

 最初に抱いたのは衝撃だった。なんだかとんでもないことを言われている、というものである。
 続いて感じたのは困惑だった。"望めば"とか"選えば"とかいう言い回しはおかしい。これではまるで選択権がこちら側にあるようではないか。

「解りませんか? あなたが求めてくださるのなら、私はこの高貴な私の貴重な時間をあなたという一人の人間に使っても良いと言っているのですよ。ねぇなまえさん、あなたはいい加減にご自分の面倒臭さを理解された方がいい。あなたの醜悪な部分全てを許容し、たかだか数十年……もって百年という限られた生に寄り添い、あなたの憂いを薙ぎ払い、あなたに仇なすものに鉄槌を下せるような存在が、あなたにふさわしいオスが、この魔界のプリンスであるベルゼブブ優一の他に現れると本当にお思いですか」

 今まで以上の重圧に取り巻かれて、息をすることも忘れてのまれてしまう。
 だって、いつのまにかベルゼブブさんの姿は絵に描いたような美青年ではなく、本来の悪魔の姿に変わっていたのだ。赤い複眼と背に生えた羽は、この夕闇の中にあってより妖しく輝いている。
 半ば強制的に、意識を揺さぶられる。ああやって人間の姿をとることがあっても、所詮はめくらましであり、術を解けばこの通りなのだと。今ここに立つのは美しい異形であり、目もくらむような輝きに満ちた悪魔だ。その美しい悪魔が、ただ私だけを見つめ緑色の手を差し伸べている。何百……いや、何千回思い浮かべたかもわからないくらいに願い続けてきたワンシーンを前にして(けれどその相手役はいつだって悪魔以外の異種族だったけれど)、ときめくなという方が無理なことだろう。

「さあなまえさん、この手を取っていただけませんか?」

 甘ったるい声で絡みつくように囁かれるのは、ベルゼブブさんらしい自信たっぷりな命令だ。けれども、拒絶を許さない悪魔の誘惑にうっとりするよりも戸惑いが勝るのは、私にロマンスのセンスがないからでは決してない。
 これ以上なく王子様然としている悪魔を前にしている筈なのに、どうしたことか彼の浮かべる表情がおかしなものに見えるのは私の思い違いだろうか。
 下降線を描く眉と小さく揺れる瞳が、まるで──嘘偽りなく乞い願うものだと思えてしまうのは、錯覚に過ぎないのだろうか。
 日頃あれだけ"エリート貴族"だの"魔界のプリンス"だのと自信の気位の高さを主張するこの悪魔にしては随分となりふり構わないものに見えるのは、気のせいなのだろうか。

 アクタベくんによって"こっちの世界"に戻してもらってから、目にしてきた悪魔たちは片手を超える。恫喝により縛ろうとする者。媚びた振りで隙を突こうとする者。アクタベくんや陰光和尚より明らかに御しやすい私に対して、悪魔たちはどこまでも狡猾だったし遠慮もなかった。けれどもその中に、こんな表情を浮かべて私を見る者はいただろうか。
 蠱惑的なだけの誘いなら、さすが悪魔の領分だと一笑に付せばいい。嘘偽りないという顔でわざとらしく親愛を装ってくるなら、こちらも本質に触れない範囲で歩み寄りを示せばいい。

 あるいは、こんなふうに戸惑うことすらベルゼブブさんにとってはタチの悪い遊戯の結果で、今だって実は腹の中で大笑いしているのかもしれない。だって相手はかの大悪魔だ。たかが人間の小娘なんて(実際のところ娘と言い切るには無理のある年なのだけれど、悪魔からしたら乳児と同じようなものだろう)一捻りで済む相手だろう。
 思考の隅に追いやられた冷静さは幾つもの根拠を並べて警告を発しているのに、他の部分が納得してくれない。

 ペンギンの時よりずっとずっと鋭い眼光が、じっとりと絡み付く。鈍く暗い輝きは、かち合った視線を逸らすことを許してはくれない。
 すっかり自分のものとは思えない程に暴れ出してしまった心臓が、熱い血液を全身に運ぶ。
 伸ばした背中の真ん中を一雫の汗が撫でていく。
 怖いのではない。恐ろしいのではない。
 ただ、目が離せない。


 こんなものは──知らない。



(2016.05.23)(END)(十羽一絡げの[人外]及び恋愛対象外の[悪魔]カテゴリからの脱却成功?)
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