■ もう少しだけ、このままで

 もふもふもふもふ。
 おすそ分けで持ってきた某有名ホテルのカレー缶ギフトが効いたようで、今日のベルゼブブさんはいつも以上に大人しくもふられてくれる。ちょろいなとか思ってしまうけれど、変につっついて「ではこれで終了です」なんて言われたら堪ったものではないので、この大盤振る舞いに感謝しつつもあくまで静かにひたすらもふる。もふもふもふもふ。

「なまえさんは悪魔とは契約しないんですか?」

 ふにふにのほっぺたに頬擦りしてすーはーすーはーとフローラルな香りを楽しんでいると、なんだか非常に血迷った言葉が聞こえた気がして思いっきり咳き込んでしまう。けれどまさかと向けた視線の先では、いたって真面目な顔をしたさくちゃんが居るではないか。おいおい、そんな「宝くじ買わないんですか?」みたいな気安さ悪魔契約を勧めるなんて、なんて恐ろしいことを言うんだこの子は。

「あのねさくちゃん、私は平穏無事な人生が大事な、ごくごく普通のしがない一般市民なわけよ。なにが好きで悪魔と契約なんざ……」
「今更"しがない一般人"発言はさすがに無理があると思います。ばっちり悪魔だって見えてるじゃないですか。しかも残念なくらいに人外フェチじゃないですか」
「こら、フェチとか失礼な言い方しないの。なんて言ったらいいかな、私は確かに人間がダメだけど、別のベクトルでグリモア持ちの悪魔ってのもダメなのよねー」

 グリモアという単語に反応したのか、ベルゼブブさんが腕の中でぴくりと震えた。
 おっと、逃がしてなるものか。身じろぐペンギンを抱きしめて、ついでにざわめく心を静めようとやわらかな羽毛を何度も撫でる。さながらアニマルセラピーだ。

「そりゃグリモアなしでも契約可能ってのは知ってるけどね。でも、いざという時の優先順位がグリモアの所有者の方が上ってわかりきっているのは面白くないじゃない」

 なにより、愛しい悪魔の生命線を別の人間の手に委ねているという状況が嫌で堪らない。私の知らないところで、そのグリモアがもしも天使に奪われでもしたら……そのヘマをした人間を仮に何度殺したところで取り返しは付かない。さすがにこの場で思いのまま口にすることはしなかったけれど、モロクさんのグリモアを天使に回収されたさくちゃんには伝わるところがあったようで表情が曇る。
 新米悪魔使いには、天使によるグリモアの強奪は脅威として刻まれただろう。あの一件からしばらく、さくちゃんたちの落ち込みようといったら見ていられなかった。それにしても、天界への持逃げという結果は同じなのに、破棄並のペナルティを課せられた私たち母娘が嘘のようにさくちゃんは無傷のままだ。アクタベくんが言うには"契約内容の違い"らしいけれど、まあ、どうでもいい。今となっては過去の契約内容もあの日の全貌も、わかりやしないし意味のないことだから。

「いやいや、だからなまえさんが所有者になればいいんじゃないですか。アクタベさんだって、なまえさんのグリモアは取ろうとしないだろうし」
「それ以前にそもそも、グリモアが読めないんだけどなぁ」
「簡単ってことはないでしょうけど、コツさえわかれば結構どうにかなると思いますよ。私もちょっとだったら教えられますし、あ、ほらアクタベさんだっているし」

 いや、だから"読めない"んだって……と笑い飛ばそうとして、気が付く。
 あれ、どうも何かがおかしい。決定的に伝わっていない。
 けれどすぐに、ああそうかと納得する。そういえば私たちは"そういう話"はしてこなかった気がする。アクタベくんがこの手の秘密をわざわざ世間話のネタにするとは思えないし、私が昔話をしたのもベルゼブブさんとふたりの時だった筈で。だったら、知らない彼女が疑問に思うのも無理はない。"読めない"という言葉の意味を正すには、一体どこから話せばいいだろう。子供の頃の出来事……あの悪魔の存在や、彼がいなくなってからのことを話す必要があるだろうか。どうしたものかと言葉を探していると、腕の中のベルゼブブさんがくちばしを開いた。それが"暴露"の一環なのか助け舟なのか、それともただ単に会話に混じりたかっただけなのか、私にはわからなかったけれど。

「なるほど、それがあなたの"ペナルティ"ですか」
「ご明察。解読出来ないとかじゃなくて、そもそも文字が文字として判別出来ないんだよねぇ。視力が極限まで落ちたみたいになるの。こればっかりは、アクタベくんでもお手上げだって」
「……へぇ、ならしょうがないですね」

 もう少し突っ込まれるかと思いや、さくちゃんはこのやり取りで納得したらしい。あるいは、私と同じく「知ったところで意味のないこと」だと興味を失ったか。
 すっかり輝きが失われた瞳を見るに、有能な悪魔使いが増えたら仕事が楽になるのになとかそんな期待を持ったもののアテが外れてがっかり……というところだろう。
 さくちゃんのこういうドライなところは今更だし私だって嫌いじゃないけど、それにしたって最近は露骨だと思う。どんどん新鮮さというか初々しさが失われていく様子はおねーさん的にはちょっぴり心配だったりするんだけど、アクタベくん的には歓迎なんだろうか。

 ああそうだ、せっかくだから一応念押ししておこう。グリモアを持っている悪魔は嫌だと言ったからといって「グリモアのない低級悪魔がいい」という意味では決してないのだと。だってアクタベくんが前に教えてくれたもの。グリモアという媒介を持てない低級悪魔はこちらの世界では存在を安定させられないしロクな力も振るえない。召喚が成功した所で待ち受ける未来は──ああ無情。

「だからやっぱり、求めるものは八百万の神か妖怪変化かユニコーンよね」
「はあ。なんていうかその……見つかったらいいです……ね……」
 あ、痛い。
 アクタベくんのぴくりとも動かない表情筋には慣れているけれど、この手の気の毒そうな視線は慣れていないんだ。
「ベルゼブブさーん、慰めてー」
「はいはい。まったく、困った女ですね」

 悲しい現実から逃げるように小さな身体に顔を埋めれば、ペンギンさんはやれやれと肩をすくめたもののそれきり文句も言わず受け入れてくれる。
 ふりふりのシャツ越しにふわふわの羽毛を感じ、そっと息を吸い込めば胸いっぱいに広がるのは最近流行りのフローラル芳香剤の功績だ。
 抱き心地も香りもまるでぬいぐるみのこの悪魔は、けれどもこうしているとやっぱり立派な悪魔さんなんだなあと実感する。
「いじけるのは勝手ですが、よだれや鼻水は付けないで下さいね」


 だってほら、耳元で囁く声は手厳しい内容とは裏腹にとても優しい響きをしているし、頭と背中を撫でる翼の心地良いことといったら。
 本当に、ダメな人間を甘やかすのがお上手だ。



(2016.05.20)(タイトル:fynch)(本編に入れるか迷った話)
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