■ 鍵の開く音は甘い 前編

「──で、そのトカゲになっちゃった岡田さんというのが、その子なんですよ」
「いいなー私も人の金で遊んで暮らしたいなー」

 冗談だけど、なんて笑いながら手の平でまどろんでいるトカゲを眺める。
 ずんぐりむっくりとした体つきで、こうして持っているだけでずっしりと重い。今みたいにトカゲとしては可愛いけれど、なるほど人間の男だったら特に遠慮したいタイプだ。

「じゃあこの増田さんは、曰く前世は資産家の跡取りで世界を救う勇者で、今生も金に困らないタイプのおぼっちゃんだったのが、餌と住処に困らないトカゲにジョブチェンジってことか。この調子で行くと来世は何になるんだろうねぇ。あーもう、元人間だったのが嘘みたいに可愛いなぁ。増田さん絶対今の方が良いと思う」
「なまえさん、増田じゃなくて岡田ですよ」

 直触りでは熱がられるかもと心配したのは最初だけで、人肌が心地良いのか降ろされた時のままいつまで経っても逃げようともしない。うとうと瞼を落とした首筋をそっと撫でると、ちらりと目を開きかけたもののすぐにべたっと脱力した。どうしよう本当に可愛い。
「ねえねえ今の見た? どうしようさくちゃん凄く和む」
「気に入ったんなら持って帰ってもらっていいですよ。正直ここに置いといても餌代がかかるだけだし……」
「うわ薄情。でもうちにはもう猫がいるからねぇ」
 オモチャ認定されでもして、うっかり惨劇発生となったら寝覚めが悪い。何より、これ以上私に生き物を背負う余裕はない。
「それに私、鉢植も枯らしちゃうタイプだし」
「あー……それじゃダメですね……」



 そんな時間が、ずっと続くと思っていた。
 こうしてさくちゃんと他愛ないやり取りを楽しみながら元増田のトカゲを撫でる、そんなのんびりとした時間が続くと、何の疑いも不安も感じることなく思っていた。



 ──というのが、つい先刻のことだ。


 あの穏やかな時間はもう帰ってこないにも拘わらず、私はといえば相変わらずにまにまと緩みっぱなしの頬で事務所のソファに身体を預けて絶好調である。
 しっとりとした爬虫類の皮膚に代わってふかふかの羽毛を抱きしめれば、ぷんすか怒っていたベルゼブブさんがピギィとまた吼えた。

「ちゃんと聞いているのですかなまえさん! 全く信じられません。この魔界のエリートである私が喚び出されてやっているというのに、よりにもよってあんなトカゲに夢中になるなんて侮辱もいいとこですよ!」

 怒りに震えて全身で憤慨を示すベルゼブブさんだが、現実はといえば太ももの上でぽふんぽふんと跳ねているだけなので私にとってはご褒美である。ああもう超絶可愛い……! いつものことながら、ついさっきまで肉片になって散らばっていたのが嘘のような完全復活っぷりで今すぐ頬ずりしたくなる。
「だってベルゼブブさんも悪いんですよー。懲りずにさくちゃんに喧嘩売ったりするからー」

 何があったかのかといえば、別に大したことではない。
 ベルゼブブさんがこっそりと冷蔵庫に入れていたタッパーをさくちゃんが発見→お説教→ベルゼブブさん逆ギレ→グリモアの刑執行→スプラッタ地獄、といういつものアレである。本当に、毎回毎回よく懲りないものだと思う。
 そんなわけで手持ち無沙汰になってしまった私は、ベルゼブブさんが再生するまでの時間を有意義に過ごすという名目で、かねてより気になっていたトカゲに構い始めたのだ。
 少しだけのつもりがついつい夢中になり過ぎてしまって、至近距離で聞こえた羽音にはっと顔を上げた時にはもう手遅れだった。一体いつ復活したのかも分からないベルゼブブさんは無言のまま、おかえりと呼びかける私の手から取り上げたトカゲをそのまま水槽に投げ落とし──びたん、ぼちょん。重く鈍い音を聞いた時はさすがに覚悟したけれど、幸いなことにトカゲは何事もなかったように今もどっしり生きている。


「フン、私の高尚な趣味についてはいいんですよ。それより、今問題なのはテメェのケツの軽さだっつーんだよ! ああ? この私が駄目ならそこのトカゲでもいいとはどーいうことだこのクソビッチ! ヒトでさえなけりゃあんな虫でも構わねぇってのか!?」
「トカゲは虫じゃないですよ。どちらかといえばベルゼブブさんの方が──」
「お黙りなさいビチグソがァ! 少しくらい反省してみせろって言ってんのがわかんねーのかよォ!」

 ぺしぺし。ぺしぺし。
 肩や腕を叩く翼は激しさこそあるものの、痛みを覚えるようなものではない。唾が飛んでくる程の至近距離でまくし立てるベルゼブブさんのくちばしの内側、びっしりと並んだ鋭い歯に目を奪われたり、ちらちら覗く長い舌をひっぱり出してみたいという思いを堪えたりしつつ、ようやく生まれた隙を見逃さず腕を伸ばし──ぷんぷん湯気を出す悪魔をぎゅっと抱き締める。

「そんなに怒らないで下さいよぉ。ベルゼブブさんみたいな大悪魔といち爬虫類を同列に扱うわけないじゃないですか。こうやって思いっきり抱きしめさせてくれるのも甘やかしてくれるのも、強くて可愛いベルゼブブさんだからだってちゃーんとわかってますから」
「……せめてそこは、"可愛い"ではなくもっと別の言葉にしていただきたかったですね。まあ、この姿がプリチーなのは揺るぎのない事実ではありますが」
「そういう、自分の魅力をわかっている狡いところ"も"格好いいと思ってますよ?」

 ちなみにこれは単なるおべっかではなく本心からの発言だったりする。だってソロモンリングなんて不本意な形で存在を曲げられて、その上私のような凡人に馴れ馴れしく振舞われているというのに、それらを許容してこのペンギン姿も慣れればそう悪くもないですよと楽しんでみせるベルゼブブさんはどうしたって本当に格好いい。

 その格好いい存在が、私の低さまで降りて来て目を合わせてくれるのだから嬉しくない筈がない。
 笑ってくれたり、怒ってくれたり、抱きつかせてくれたり──近付くことを許してもらえるだけでなく、こうして構ってもらえることが本当に嬉しくて、いつだって私はこの悪魔を前にするとどうしようもなく浮かれてしまうのだ。
 そしてベルゼブブさんとは違う意味で狡い私は、この悪魔がどこまでも甘やかしてくれることをいいことに一番最初に言わなければいけなかった言葉を飲み込んだり、出し渋ってしまうことがある。たとえば今みたいに。
 でも、この暴露の悪魔は奥に隠した言葉を無理やり吐き出させようとはしないのだ。言えないならそのままでいいと、沈黙することを許してくれる。事実、今だってもうさっきまでの不機嫌さや罵詈雑言の嵐なんてまるで全部なかったかのように、私の太ももの上でくつろいでいる。いつもどおりでいてくれる。

「でもやっぱり、このままじゃ──」

 柔らかな重みを足に、暖かな熱を胸に感じながら覚悟を決める。もふもふの身体をえいやと動かし、同時に上半身を使って抱き込むように動きを封じる。胸の間でぱくぱく動くくちばしが、少しだけくすぐったい。とはいえベルゼブブさんからしたらいきなり引っ張られて呼吸もままならない内に今度は肉の塊を顔いっぱいに押し付けられたわけだから、堪ったものではないだろう。けれど今だけ、もう少しだけ。だってこうしてしまえば、私からは燕尾服の尻尾しか見えないのだ。そして勿論ベルゼブブさんの視界は私の胸で封じられている。
 本格的に抵抗される前に、その顔を見てしまう前に、私の顔を見られてしまう前に、金色の巻き毛に向かって聞こえるか聞こえないかという小さな声を絞り出す。


「よそ見して、ごめんなさい」



(2016.05.27)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨)(※付き合ってない)
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