■ 彼女と就眠

「……いつまで、ここにいるつもりだ?」
「貴方が大人しく眠るまで、と言っておこうかしら。多忙な軍師様は、放っておくといつまでも起きているでしょう?」
「多忙だと分かっているのなら、邪魔をしないで頂きたいものだがな。だいたい、お前がこうして居座っている状況でこの俺が眠れると思うのか?」
「あら。何なら、一汗かいてそのまま腕枕をしてくれてもいいのよ」

 ちらりと舌を覗かせ告げられた誘いはあからさまで、シュウは渋面のまま反射的に舌打ちを漏らした。
「生憎だが、お前に付き合っている暇も、気力も、趣味も無い」

「……まあ、酷い言い方だこと。いいけどさ。じゃあ、私が出て行ったらちゃんと休んでくれるわね? 幾ら忙しくても、今夜くらいは休まないと──そろそろ身体がもたなくなるから。ちなみにこれは一般論じゃなくて、ここ数日の"お食事"から受けた感想であり、親切な忠告よ」

 下手をすれば、きっと明日の午後には倒れるから。笑って告げられた忠告に、シュウは思わず押し黙って眉間に触れた。この人外の性質を思えば、あながち冗談と捨て置くことも出来ない内容だ。経験と照らし合わせても、自分ではまだまだ限界を感じる所では無いが……そこまで考えて昼にホウアンから少しは休みましょうと説かれたことを思い出す。
「……なるほど。では、たまにはお前の言う事も聞いておこう」
 ふっと息とともに漏らされた素直な言葉に、なまえは意外だと目を丸くした。
「どうせこの件はまだまだひと段落すらつきそうにないからな。諦めて明日とりかかるとするさ。……というわけで、お休みなまえ。安心して、お前はさっさと出て行ってくれ」
「ここは優しく、お休みのチューじゃないの?」
「今日の分のエサは済ませただろう」
 不満げに口を尖らせるなまえに揺らぐことも無く、シュウは冷たい返事を投げつける。
 それを受けるなまえも慣れたもので、堪える様子も無く苦笑を返す。

「まったく。可愛げが無いにも程があるわねぇ。まだまだ若いんだから、性欲で突っ走っても許されるわよ?」

 契約とはいえ、お前みたいな変態相手に盛る趣味は無い。口づけだけで充分だろう……とシュウが言いかけた言葉は、結局口から出ることは無かった。
 挑発するようなことを言った癖になまえはさっさと扉へと向かっていたし、その後もためらう様子も見せずノブに手をかけたからだ。
 そのまま、最初から反応など期待していないとでも言うようにあっさりと廊下の闇に溶ける姿はなぜだかシュウの機嫌を絶妙に逆撫でする。そんな男の様子に気が付いているのか、いないのか。僅かに開いた隙間から、今一度ひょっこりと顔が覗いた。
「お休みハニー。夢の中でも会いましょうね」
「……おい、だれがハニーだ!」
 満足げに響く哄笑は、ばたんと扉が閉じた後も微かに聞こえ──やがて足音と共に部屋から遠ざかり、消えていった。


  ***


 軍師の部屋から明かりが消えたのと同じ頃。見張りの兵の目を盗み、一つの影が廊下を進んでいた。
 影は軍師の部屋の前で止まった後、扉に手を当てて小さく、ひとつふたつと何事かを呟いた。

 ……ふわりと、その手元に仄白い光が生じた。
 見る者が見れば紋章の光だと見紛うだろうその光を発したのは、他でも無く影……なまえ当人であった。
「こんばんは……今夜もよくお眠りね」
 簡単なものではあるものの、鍵はしっかりついている。
 けれど、そんな鍵はもう何度とこの扉をくぐってきたなまえには今更意味の無いものだった。カチャリという音すら立てることなく、あっさりと扉が開く。そっと開けたその扉の隙間から、静かになまえが身を滑り込ませても部屋の中は何一つ変わらない。部屋の主の眠りすら既に彼女の手の内だからだ。
 月の光も差さない室内をまっすぐ見据えたなまえは、迷いなく寝台へと進む。途中すっかり座り慣れた椅子を手にすることも忘れずに。

 眠るシュウの顔へと視線を向けたなまえの表情を、もしも彼が目を覚まし、もしも見ることが出来たのならば。もし、そんなことがあったのならば彼はきっと、彼女についての認識を大きく改めることになっただろう。
 普段の彼女とは異なる、柔らかな手つきで静かに優しくシュウの身体に触れてなまえはまた小さく呪文を唱えた。再び生まれた光は、先ほどとは異なりふわりふわりと二人を包み収縮し、今度は消えること無く薄衣のように微かに輝き続ける。その光に包まれながら、白い手がシュウの髪を撫でる。起きている相手には絶対にしない優しさで、いたわるように。
 時折、一房手に取って口づけてみたり、髪だけでなく頬に手を伸ばしたりしながら。

 やがて気が済んだと言うように笑ったなまえは、自分は椅子に腰かけたままという不自由な体勢のままベッドに上半身だけを倒した。
 別に、今だったら……仮にベッドに潜り込んだところで、シュウが目を覚ますことは無いのだけれど。でも、今はこの距離でいい。そんなことを思いながら、耳元で聞こえる寝息が安らかなことを誇らしく感じながら、なまえは術を使い続ける。


  ***


 空に朱が混じり始めた頃、ゆっくりとなまえが身を起こした。
 シュウへと伸ばしていた手を引き、来た時の手順を逆になぞるようにして、静かに部屋から出て行く。そして最後の仕上げとばかりに、閉めた扉の前でまた何事かを小さく呟いた。生じた筈の光は、今度は目には見えなかった。

 そして、いつも道りの朝がやってくる。

 彼女の足は、けれども廊下を戻ることは無かった。閉じたばかりの扉の外でゆっくりと息を吸ったなまえは、深呼吸の後に再びノブへと手を伸ばす。そして、今度は勢いよく扉を開けて、声を張り上げた。

「はーい、おはようシュウ! 昨夜はよく眠れたかしら?」
「…………はぁ。またお前か。全く、お前が来なければよい朝だと思えるのだがなぁ」

 心地よい目覚めが台無しだと不満げに呟くシュウの顔は、昨夜までの疲労の蓄積など欠片も見られない。顔色も良ければ、肌艶だって全く違う。身を起こせば、シュウ自身も身体の軽さを実感できたのだろう。不思議そうに肩を回し、首を回し、身体を確かめるような素振りを見せた。

 なおもなまえへの言葉を続けながら、ふと「ふむ……休むとこうも違うものか」と呟いたシュウを見て、なまえはそれはそれは嬉しそうに笑った。



(2014.05.23)
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