■ ふたりのためのお伽話

 シュウの微笑みに合わせて、昔ほどの艶を持たなくなった髪がさらりと動く。
 いつの間にか白が混じるようになった長髪にそっと指を絡ませながら、私はゆっくりと男の胸へともたれ掛かる。

 自分がこの男のどこに惹かれたのかと思えば、その本質にこそ惹かれたのだ。
 だから、十三年前のあの戦で私はこの男を選んだのだし、選ばれたいと願ったのだ。



- - - - 【 ふたりのための お 伽 話 】 - - - -




「クラウスは、なんて?」

 訊ねた口元に、笑みが浮かんでいるのは仕方が無いことだろう。
 実際のところ、シュウの様子を見ていれば手紙の内容など簡単に検討が付くというものだ。

「ハイイーストの一件は、今回の衝突を最後に終息に向かいそうだと」
「そう、よかった。……にしても、まさかあの人たちまで駆け付けるなんて思わなかったわね。いい加減どこかに落ち着いたのかと思っていたら、相変わらずなんだもの」

 青い色男と茶色い熊の姿を思い浮かべれば、広がる懐かしさにくすくすと声が漏れるのを止められない。もっとも、私が思い描ける彼らの姿といえば、過ぎ去ったあの日々の姿でしかないのだけれど。今でも、時に向こう見ずな戦い方をして星辰剣に叱られているのだろうか。

「ふふ。なーんだかんだ言いながら、結局協力しちゃうシュウもシュウで優しいわよね。面倒見が良いというか、弟子思いというか。……ねぇ、あのまま中央に残っていたら、今頃どうなっていたのかしらねぇ」

 あなただったら、今回の企みももっと序盤で徹底的に叩いて、こんな騒動なんて起こさせなかったでしょうし。そう考えると確かに、シュウの不在はデュナン国にとって大きな損失と言えるでしょうね。
 などと、先日訪れた使者の言葉を引用する私を彼はじっと見つめている。一向に動かない口元に首を傾げて反応を促せば、躊躇する素振りの後そっと口が開かれた。

「お前は……、お前は、ここに居てよかったのか?」

「なぁに?」
「今の俺はしがない交易商だが、お前は……お前の力こそ、ここで燻るには勿体ないものだ。実際、あいつら以外にも、今回の戦場にも懐かしい顔は多いのだろう。行きたかったんじゃないのか?」

 おかしなことを言う。私が懐かしむ顔は、つまりシュウにとっても懐かしい顔でしょうが。
 もう一度彼らと戦いたいというのならば、それはむしろ貴方の方じゃないの?

「とっくの昔に国政から退いた俺が、今更出て行って何になる。現に、クラウスの奴は上手くやっていた。今回の乱も、俺の助言など無くても結果は変わらず……無事に鎮圧できていたさ」

 言葉だけ見ると自嘲の様な内容だが、その表情は意外なほどに柔らかくて優しい。弟子を見守る師匠の顔に見惚れていると、頬にシュウの手が添えられた。これも、とても緩やかで、優しい。まるで工芸品でも愛でているよう。

「お前のおかげで、俺を狙う者などもうここには居ないのだろう? 事実、ここ数年は商売も軌道に乗っているというのに、かつてのようにつまらない妨害を受けることも煮え湯を飲まされることも無い」
「まあ相変わらず、小さい嫌がらせは絶えないけどね」
 口に出してみた軽口にも、シュウが乗ってくる素振りは無い。ただならぬ空気だ。居心地の悪さに襲われる。なのに、シュウの手は離れない。

「……なまえ、すまない。本当は、もっと早く告げるべきだった」

 シュウが、目を伏せる。
 なんだろう、妙な空気だ。嫌な、空気だ。動悸が、煩い。


「あの日から……お前には、本当に感謝している。だから、もう、充分だ」


 ……え?
 ゆっくりと言い聞かせるように告げられた言葉に、思考が止まる。
 シュウ……と混乱の中で男の名を呟けば、相変わらず優しい、固く乾いた手が頬を撫でていく。

「俺は、歳を取った。これから先もまだ生きるつもりだが……それでも、ここで静かに商売をしながら老いていくだろう。だからな、お前は、ここまででいい。……俺はもう充分、お前に救わてきた。なに、お前の力を必要とする者は、他に幾らでもいるのだろう?」

「……シュウ? 何が言いたいの?」
「お前には、もっと若く強い男の方が良いだろうということだ。こんな静かな町の小さな屋敷で、成り上がりの交易商に囲われるような真似は……お前には似合わない」
 一体何を言っているのと問うための声は、けれどもシュウの口から続く言葉に飲み込まれた。
 それにお前は、戦っている姿が美しい、そう続けられた賞賛に不謹慎だが頬が染まる。
 そんな場合じゃないのだけれど、でも、この口から「美しい」なんて言われたのは初めてだったから、つい……。という場違いな思考を数秒で終わらせ、改めてシュウの顔を見つめてふと気がついた。私に向けられる眼差しに、いつのまにか色濃く表れていた、彼の悲しみと寂しさに。


  ***


 再会までの年月をどこかに置き忘れた様に、昔のままの姿でこの屋敷まで尋ねてくる者は、一人二人ではなかった。
 その度に、あの戦争で歩みを共にした者の中には、真の紋章持ちも少なくは無かったのだということを今更のように思い知らされた。彼らの強さを思い出すと同時に、当時の自分には見えていなかった、残酷な現実にめまいを覚えたものだ。

 何かの折にと会う度に、異なる時の流れを否応なく見せつけられた。
 時間を忘れた彼らを、羨むことが全く無かったといえば、それは嘘になる。

 しかし、むしろいつまでも変われない彼らに、胸を痛めることの方が多くなっていく。
 特に、四十を手前にしたここ数年はその傾向が顕著だった。例え何十年の月日が過ぎたとしても、変わらぬ姿でそこに在るだろう彼らを、哀れに思うことすらあった。

 しかし、そう思った後にふと気が付くのだ。
 自分の傍で微笑む彼女もまた、彼らと同じなのだと。人外のなまえもまた、いつまでも若く美しい姿のままだということに。そして、同時に思い知るのだ。並ぶ自分ばかりが、老いているということに。


「ふふふ、やぁね。私が変わっていないと思っているのは、貴方とエルネスタたちくらいなものよ。まあ、あの熊あたりなら野生の勘で気付くかもしれないけど」

 なんということだろう。
 身を裂く思いで吐き出した決別の言葉は、呆気にとられる程の軽さで笑い飛ばされた。

「……周りの反応に、気が付いていなかったでしょう? 次回のお出かけの時にでもよく見ていればいいわ。すれ違う人もお店の人も誰も彼も、私の事を若い女だなんて見てないから」

 けらけらと笑う姿について行けず茫然するものの、さすがに十数年と共に居ればなまえの言動にも慣れるというものだ。ふぅと息を吐いて、なんとかペースを取り戻す。
「お前……その口ぶりは、さては何か術でも使っているのか?」
「うーん、まあ、そんな大したものじゃないんだけどね。……人ってね、そんなにちゃんと相手の事を見ていないのよ。さっと流れる視線では、一番外側の輪郭をなぞるだけなの。注視しようとしても、結局は先に認識している輪郭ありきで考えるのね。だから、その一番外側に出す気配を工夫してね……っと、まあ理詰めで組み立てた技術じゃないから上手く言えないんだけど、要は姿勢とか立ち振る舞いとか、そういう仕草みたいなものでも随分印象って変わるでしょう? そういうものの応用編よ」

 ああそうだ。これはこういう女だった。
 この大雑把な説明で、人に理解を促すのだから堪ったものでは無い。
 だが……昔を思い出す。お前は何だという問いに「長く生き過ぎてよくわからない」とふざけたことを真面目に言い放った過去を思えば、非常になまえらしいと言えるのか。

「ただでさえ、女は装いで印象が変えられるのよ。化粧に服装に物腰に、仕上げにこの技術を加えて町を歩けば、誰がどう見たってあなたに似合う『ご婦人』なんだから」
「……俺の目には、若い女しか映っていないが」
「だって、それはあなただもの。言ったでしょ、あなたと真の紋章持ちは例外」

 さすがに、こうやって定住するとなるとご近所さんとかお手伝いさんの目ってのもあるしね。一応これでもその辺も考えて、自然に綺麗に歳を重ねているつもりなんだけど。
 呑気な口調で語られる言葉を、俺は半ば唖然となって聞いていた。
 そんな芸当が出来る事も、他人の視線を気にしていることも、一度だって聞いた覚えがなかった。

 実際、甘く耳朶を揺らす声も、その外見も、出逢った頃から変わらないというのに。
 添えた手に重ねられた手も、襟元から覗く肌も、瑞々しい若さに溢れているというのに。

「言わなくてごめんなさいね、そんなに気にしているとは思わなかったの。それに私、別に戦場が好きなわけでもないし。……流れていた方が、生き易かっただけで」
 そうだ、そんなことなど無論理解していたさ。だが、だからこそ、この町での暮らしもまたなまえの負担になっているだろうことを、考えないわけにはいかなかったのだ。
 もっとも、気が付きながらも自分からは手放すことは出来ず、こうして月日が過ぎたわけだが。

「……いつまで、傍に居るつもりなんだ」

 絞り出した声に、思いのほか懇願の響きが多く含まれていたことに気が付き狼狽する。はっと見やれば、言われたなまえまで目を見開いているのだから、なんとも居た堪れない。

「いや、だからな……お前の気遣いはわかったが、そうは言ってもな。お前にだって限界があるだろう。俺とて、いつまでもお前の食欲を満たしてやれるわけでもないだろうが」

 ただでさえ、こちらの体調を気にして少食なお前が、衰え始めた身体相手に遠慮なく喰えるとは到底思えないからな。
そう慌てて付け足すも、くすりと笑ったきり反応は無い。
 気まずく感じる程の沈黙を持て余していると、小さく「そっか」となまえが呟いた。
「……私は、今のシュウも格好良くて凄く好きなんだけど。そして、この後どんどん素敵になるであろう、あなたの未来が楽しみで仕方が無いのだけれど。……でもそうね、もしこの先あなたが望むのだったら……」
 そこでなまえが息を止め、再び数秒の沈黙が訪れた。見上げた彼女の視線の先では、カチコチと機械仕掛けの時間が主張している。

「……シュウの時計を、いじってみるのもいいかもね。巻き戻して、今度はもっと緩やかに動かすの」

「……そんなことが、出来ると言うのか」

 かすれた声に、喉の渇きを自覚する。今、この魔物は、何と言ったのだろうか。
 不老長寿は、いつの世も人の憧れだというのに。
 それをさも、ただの提案であるかのように……甘美な誘惑に、胸臆でざわりといつかの憐憫と憧憬が波を立てる。

「さあ。やろうと思ったことも無いから、成功するかは分からないけどね」
「『さあ』とはお前……言い出しておいて、なんだその答えは」
「やってみたら意外と出来るんじゃないかなーと思いついたのよ。それにまあ、月の紋章の性質とはいえシエラ様に出来るんだから、私だって頑張ったら出来るんじゃないかなーとかね。それにさぁ、今やってるこの印象調整だってここ数年でモノにした技術だし、まだまだ自分の伸びしろなんてわかんないしさぁ。うん、やっぱり私って素晴らしいわ。何事もやってみる価値はあるってことね」
「ちょっと待て。あれだけ言っておきながら……お前、今までどうしていたんだ……」

 立ち振る舞いがどうだ術がどうだとあれだけ言っておいて、付け焼刃とは。
 しかし、呆れながらも妙に納得するところが有るのも事実だった。なまえのことだ、そんな便利な芸当が以前から出来たのなら、同盟軍時代にもっと進んで利用したに違いないだろう。

「……いや、だってさ。一緒に年を重ねたいなんて、ここまで思ったことが無かったんだもん。シュウってば結構、交友関係広いしお付き合いもあるしさぁ。交易商の仕事の内だとか言ってやたらあっちこっち招待されるし、意外と露出も多いじゃない? 一緒に居るのが小娘じゃ、箔が付かないなぁとか思っちゃうじゃない。……だから、ちょっと、頑張ってみようかなぁと思って」
 案の定、持ち前のサービス精神を如何なく開示しながら、なまえの声はごにょごにょと小さくなっていく。
 ……まったく、だからこいつは。
 緩む表情を隠すように手を当てて、そっと吐息をもらす。思えば、最初からそうだったのだ。身勝手に「契約」や「餌」という言葉を使いながら、実際は俺が与える以上のものを俺に与えようと、常に献身的だった。

 幾ら説明されても、やぱり目の前の彼女は出会ったころと同じ、美しい女以外には見えやしない。
 四十路を目前にした自分には、今やこの夜の光は眩しすぎるというのに。

 だというのに彼女は、移る外見も衰える肉体も、去る為の理由にはならないのだと言う。なんて、馬鹿げた寵愛だろう。その気になればどこへでも行けるくせに、どこまでも付き合うのだと笑ってみせる。本当に、損な性分をしている。思わずにやける口元を手で隠しながら、そっと女の名を口にした。


  ***


「なまえ……そうだな、いつかここにお前が飽きたなら。……その時は、ここを離れてお前と共に旅に出るのも、悪くはないかもしれないな」

 きっとそんな日は来ないだろうと感じながらも、シュウが囁く。
 一瞬目を見開いた女は、すぐに笑顔になり、やがて悪戯を思いついたように囁き返す。

「まあ、しばらく飽きる予定は無いけど……でもそうね、おじいさんじゃ旅は辛いだろうから……じゃあ、今くらいに戻ってもらおうかな。シュウは群島諸国とか行ったことないでしょう? 古い記憶で良かったら、案内してあげるわ」

 きっとそんな日は来ないだろうと感じながらも、なまえは笑う。

「楽しみね。今度はちょっとは、シュウにも戦ってもらうから」
「ああ……そうだな。さすがに、お前に任せきりともいかないか」


  ***


 きっと、そんな日は来ないのだ。

 変わらない姿、変わらない時間、変わっていく周囲。
 祝福だとは決して言い切れない、残酷な紋章の宿命を背負わされてしまった彼らのことを、今もこの人は忘れていない。むしろ、時を重ねるごとに、実感を伴う悲哀となり……シュウに鈍い痛みを与え続けている。

 いつの世も、業突く張りが能天気に欲してきた、永遠と不老。
 けれど……引き換えに差し出す時間こそが、どれほど尊いものなのか、気が付く人間は稀だ。そして、シュウはそれに気が付いている。
 移り行く季節の中、変化する肉体がどれだけ尊いものなのか。世界と共に重ねる時間が、どれほど尊いものなのか。そして……それらはあの健気な少年たちが、どれほど欲したところで、今更手に入らないものだということにも、この人は気が付いている。

 人を辞めてまで、不老長寿に焦がれるか。得たいと思うか、否か。躊躇せず頷く者、答えられない者、躊躇の果てに首を振る者、そして……躊躇すらせず、人としての生を選べる者。

「そうそう。場所が違えば交易品も全く違っていてね……前に西の果てに行った時は、当たり前のように人魚の鱗がやり取りされててねぇ。シュウの目利きがどこまで通用するのか、なかなか興味深いところだわ」

 人の本質は、そうそう変わりはしない。

「ほう、文献の世界だな。行商の者からでも、そこまで遠い地域の話は滅多に出ないからな……やりがいがありそうだ」

 シュウの微笑みに合わせて、昔ほどの艶を持たなくなった髪がさらりと動く。
 いつの間にか白が混じるようになった長髪にそっと指を絡ませながら、ゆっくりと男の胸へともたれ掛かる。

 自分がこの男のどこに惹かれたのか。そんなこと、今更考えるまでもない。
 泥も穢れも全て引き受ける覚悟で軍師という立場に着いた、彼の本質にこそ惹かれたのだ。だから、十数年前のあの戦で私はこの男を選んだのだし、選ばれたいと願ったのだ。


 言うまでも無いことをわざわざ口にした自分の愚かさに、今更笑いが込み上げる。
 僅かな期待と興味を抱いて、その上で有り余る程の諦めを用意して発した言葉だというのに。問いかけの結果など、最初から分かっていたというのに。

 優しいシュウから返される「もしも」の戯れに、素知らぬ顔で傷付く自分にまた反吐が出る。
 永久を生きようか、なんて馬鹿馬鹿しい。当たり前だ。この人間は、そんな生き方は望まない。


「なまえ?」
「なんだろうね。いいことばかりじゃなかったし、血も沢山流れたんだけど……でも、なんでろう……。あのお城での日々を想うとね……なんだか楽しいことばっかり思い出すんだよね……」
「……何を今更。実際、お前はいつも楽しそうだったじゃないか」
「あれ、そうだったっけ」
「ああ。酒場か食堂か、俺の部屋にばかり居て」
「ふふふ、確かに! 毎日毎日、レオナのところでビクトールたちと飲んでは、シュウに会いに行ってたっけね。……あーそうだ、ハイ・ヨーのお弁当、いつも美味しかったねぇ」


 私があの一瞬を幸福だったと感じているように、シュウにとってもあのひと時が特別な時間として残っているのなら。輝く時間とその理由を身を以て知っている人間は、きっと選択を間違えない。

 だからきっと、"その日"など来ないのだ。
 戯れは戯れのまま、現実にはなりはしない。


 久しぶりに、ハイ・ヨーの料理を食べに出かけようかと話すシュウは微笑んでいる。
 そうねと応えた私も、微笑んでいた筈なのだけれど……いつのまにか、私は目を閉じていた。

 こぼれそうになる水滴を塞き止めるために、そっと瞼を閉じていた。



(2014.06.22)(それでも、先のことなど本当はわかりはしない)
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