■ 月の雫か人魚の涙か

 滾る漲るこの力は、振るってこそ価値がある。
 数百年振りに栄養満点の美味しすぎるご飯を食べた私は絶好調かつ上機嫌で、つまり端的に言えばうずうずしていた。とはいえ、この小さな町はそこそこ平和で、そうそう派手な事件も無いわけで。せめてと貰えた仕事も単なる森の小物退治だった。
 だが、思う存分とはいかないものの、そこそこに発散できて気分は上々だ。ささやかながら報酬も得たしさて後はゆっくり休もう……と宿まで歩いて来た私だったが……ここまで来て、あと一歩を踏み出しかねていた。

 覚えのあるりすぎる圧迫感が、路上にいても伝わってくる。
 しかも明らかにその元は、私の根城である目の前の宿のしかも二階の角部屋どんぴしゃだ。
 うわぁ、と思わず声が漏れる。これは不味い事態かも知れない。向かった先に死屍累々の惨状があることすら覚悟して、恐る恐る扉を押し──けれども、すっかり馴染みの宿の奥さんはおかえりと笑顔を向けてきた。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら「た、ただいま、です」と応えた私はきっと間抜けな顔をしていただろう。ああよかった。五体満足で生きていた。いつもどおりの明るさでかけられるねぎらいの声にはいつも通りに返せたが、何気なさを装ってみるものの階段を上がる足はいつもより幾分か重かった。正直なところ部屋に行きたくない。

  ***

 閉じた扉の向こうから伝わってくる気配には、やはり嫌な予感しかしない。とはいえ、こうして立ち竦んでいたところで、事態は悪い方にしか進まないのは明らかだ。覚悟を決めてゆっくりと扉を開けると、やはりと言うかなんと言うか"案の定"かつ"予想どおり"な展開が待ち構えていた。

「お待たせ。ごめんね、ちょっと出てて……」
 間髪入れず、チャキリと鋭く尖った剣先が向けられる。
「お前……どこへ行っていた」
 剣呑な視線と共に凄まじい怒気をぶつけてくるのは、我儘で物騒で短気な黒騎士様だ。
「いやぁ、ちょっと森にモンスターが巣食っているっていうから、その、退治にね……」
「それは、一晩もかかることなのか。待ちくたびれたぞ」
 はてこの言い方は……ひょっとして昨日も来ていたのだろうか。ならばちょっと悪いことをしたかもしれない。
 けれど別に「暫くこの辺に居る」とは言ったものの、ずっとこの宿に居るとは言っていないしなあ。私が責められる筋合いなど無い筈なのだけれど、この傍若無人の人外には"筋合い"なんてまっとうな常識は通用しない。それを嫌という程知っているが故に素直に両手を上げて降参を告げると、その素直な反応がお気に召したらしく彼の方もあっさりと剣を引いた。
「ごめんなさい。此処のところ忙しそうだったし、また来てるとは思わなくて。ていうか、その気になれば私の居所なんて丸わかりでしょうが」
 なにせ先日の弱りきった私の居所を簡単に嗅ぎ付けたような男だ。夜空に輝く一等星並に主張する絶好調状態の今の私のことなど、きっとすぐさま見つけてしまう。しかもたっぷり自分の匂いがついているのだから──私の行方を辿ることなどもはや手間とも言えないだろうに。
「フン。明日まで留守だと宿の女が言ったからな」
 多忙な中こうして待っていてやったのだと胸を張る男の後ろには、食器の山が……って、ああ、なんだそれで大人しくしていたのか。奥さん、あなたの料理が惨劇を食い止めたようですよ。とはいえ、それならそれで確かめなければならないことがある。

「ちょっと。それ全部、私の支払いになるんじゃないでしょうね」
「俺が金を持っていると思うのか」
「変なところで威張らないで。っていうか貴方、今はハイランドの高給取りでしょう?」
「知らん。金は無い……が、お前にはこいつをやる」

 ずいと差し出されたものを反射的に受け取るところまではよかったが、いざ手の中のそれを確認すれば私の目はみるみる見開かれた。

「……ありがとう? って、わあ綺麗。パールね?」

 銀の台座に数個の小振りのパールが配置された首飾りは、凝った細工とパールの輝きが一体となった品のあるデザインだった。
 パールと言えばこの辺りではトラン湖だ。気品溢れる輝きは、北の騎士団領でも大変な人気だと聞いている。
 けれども、このような細工物の話は覚えがなかった。
「珍しい細工ね……初めて見たわ。ひょっとして、ハイランドの工芸品?」
「ああ。女どもの間で流行っているらしいぞ。皇女相手に出入りしている奴らが側近連中にも声をかけてきてな」
 キレイキレイと喜ぶ私を見つめながら、にこりともせず淡々と言葉を紡ぐユーバーが何を考えているのかはさっぱりわからない。そういえばこの男に"キレイ"を理解する感性はあったかしら、などと酷いことを考えてしまうくらいに人間味からかけ離れた男は、けれども情緒を理解しないが故にさらりと爆弾を投下してみせるのだということをこの時の私は正直失念していた。

「そんな石ころを贈り物にするのだと浮かれる奴らは愚かだったが、俺だけ買わないのも癪だからな。真似をしてみただけだ」

 ……えーっと。
 なんだろう、このむず痒さは。
 単純馬鹿なこいつのことだから、ただ本当に、負けず嫌いで考えも無く、本当にただ後先考えずつられて買っただけというのもアリではある。
 けれども、けれども、それだけでないだろうという期待を、私は止めることは出来ない。まして「奪った」のではなく、「買った」と言ったのだ。この男が。この人外が!

「おい、口が緩みっぱなしだぞ。気持ち悪い笑い方をするな」
「失礼ね。嬉しくってたまらないんだから。こういう時は可愛い奴だなって言うものよ」
「チッ。まあ、薄汚れたお前には、パールや銀の輝きなど似合わないだろうがな」

 おやまあ……薄汚れた、と来ましたか。
 これまた、考えなしの憎まれ口だということもわかるし、珍しい暴言でもないけれど、やはりいい気はしないもので。
 露骨なまでに笑顔を消した私に対して、ぎょっと目を見開くユーバーのわかりやすい反応はちょっとした見ものである。彼にしては珍しくあからさまに歪んだ表情は、自身の失言への後悔を雄弁に語っている。けれど、そうと気づいたところで酌んでなどやらない。
 せっかくだからお返しに虐めてやろうと口を開いたのだが、思った以上に自分でも傷ついていたらしく、言葉を探すことも満足に叶わず結局ぱくぱくと動かしただけで終わってしまった。私にしては"らしくない"その仕草は、同じく"らしくない"心境にあった彼にはますます傷心度合いを感じさせるものに映ったらしい。よりいっそう男が焦るのが伝わってくる。

「俺はっ、別に……!」

 次の瞬間、男の姿が部屋から消えた。
「ったく、逃げるんじゃないわよ。ヘタレめ」
 テレポートは疲れるから滅多に使わないと言ったのは、どの口だろう。

 まったく、あの男は……。
 残されたのは大量の食器と、その支払いと、可哀想な私と、綺麗な綺麗な首飾り……。

「ほんと、馬鹿ねぇ。パールなんて、貴婦人の装飾品だってのに」

 これが水にも汗にも熱にも光にも乾燥にも弱い、殊更に繊細な宝石だとは、当然知りもしないのだろう。
 なにせ、むき出しのまま手渡してきたくらいだし。それに、知っていたら──さすがの奴でも、旅と戦闘の日々を送る私にどうかなどと思う筈もない。

「それでも、まあ……さ。似合うだろう思ってくれたのなら、嬉しいなぁ」

 チェーンを持って光にかざせば、ゆらゆらと銀とパールの光が混じり、表情豊かに輝く。
 鋭くて、柔らかくて、冷たくて、でも暖かくて。白銀色のその輝きがあの男の瞳のようだと思った自分はもう相当に駄目かもしれない。



(2014.02.20)(ウィンディと帝国を食い潰した経験上、「女は宝石が好き」という認識は持っていそうです)
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