■ 柄にもないことをさせる

 広田鋭一は困っていた。
 信じ難いことに、少なくない時間自分への思いを秘めていたというなまえには悪いが、広田としては自分たちの距離はほぼ初対面のそれである。誘っておいて言うのもなんだが、何を話せばいいのかさっぱりわからなかった。とりあえず、ラグビーのことクラスのこと教科担任のことと、当たり障りのないことを口にする程度でいっぱいいっぱいだ。その度に苗字はにこにこと相槌を打ってくれるのだが、広田自身も話が弾んでいるとは思っていなかった。

 だから今日に限っては「腹減ったなぁ」と言ってみたのは場を保たす為だったのだが……気が付けばなぜか、コンビニのパンコーナーで動かなくなった苗字を前に戸惑いの吐息を漏らしていた。真剣な眼差しで棚を見つめる苗字には悪いが、おまえは何歳だと言いたくなる。
「……いや、別にいいだろ。夕飯前だし無理に買わなくても」
「えっ、あごめん待たせちゃってた。えーとじゃあこれとこれと……」
「おいおい5個ってなんだ5個って。いつ食う気だよ」
「えっ、……あー……明日の朝とか、お昼?」
「昼飯なら購買あんだろ。つーか苗字って弁当じゃねえか」
「…………そうだね」
 苗字が小食なことは既に聞いていた。広田から見れば信じられないくらいに小さい弁当箱ひとつがやっとなのだと言ったなまえに、具入りのパンが何個も食べられるとは思えない。さすがに本人としても無謀なことは分かっていたらしく、腕の中の袋を幾つか返すことに決めたようだ。けれども、その手は何も掴まないままふらふらと揺れるばかりである。ううーと小さく呻くなまえに任せていたら埒があかないだろうことに、広田はこの短い付き合いの中で早くも気付き始めていた。

「貸せって」

 苗字の手からひょいひょいと袋を取り上げて、ついでに棚から新しく数個掴んでレジへと足を向けた。そして、追ってくる足音が何かを言う前に先手を打つ。
「分けてやるのは1個だけだから、ちゃんと決めとけよ。残りはオレが食うんだからな」
 これ以上おまえの優柔不断に付き合っていられるかというのが素直なところだったが、ありがとうと言われて悪い気はしない。一緒に帰らねぇかと誘った時と同じように表情を崩したなまえから視線を外し、足早に扉をくぐれば外はもうすっかり暗くなっていた。
 買ったばかりのパンを取り出し、勢いよく開けてかじりつく。次の十字路を右に曲がれば広田の家まではあと少しだ。
「あ、それ」
「んだよ。これは違うやつだろ」
「そうなんだけど……ううん、なんでもないごめん」
 わかりやすい。弟や後輩たちを思い起こさせるようなわかりやすさである。あまりのしょげっぷりに噴き出せば、きまり悪そうに見上げてくるなまえと目が合った。
「ほらよ」
 別に断られてもいいと思いながら、歯型を避けてちぎったところを差し出してみる。暗がりでもわかる程にますます真っ赤になった苗字は、けれども口にしかけた断りを結局飲み込んでありがとうと手を伸ばしてきた。相変わらずわかりやすいが、今度は弟や後輩とは思えなかった。キラキラと光る瞳は素直な仔猫か何かを餌付けしているようで、なかなか気分がいいものである。
 広田にとってのひとくち分にも満たないそれを数回に分けて咀嚼していく苗字を見ながら、なるほどなあと独り言つ。

「なぁもうすぐ十字路なんだけど」
「えっもう!? あ、違う、今のなし、なしだから」
「なに、苗字ってばまだどれにすっか迷ってんの?」
 ふたつ目の袋をペリッと開けながら問えば、なまえがうううと呻いた。
「……それもあるけど、けどそういうことじゃなくて……」
 それもあるのかよ。やっぱりなと思いながら今度は先にパンをちぎった。ほらよ、と差し出せばあとは先ほどと同じである。どうやら苗字は唇以上に正直で、胃袋以上に欲しがりな瞳を持っているらしい。満足気に口を動かしながらもすぐに未練にまみれた表情を浮かべる苗字が再び何かを言う前に、広田は口を開く。
「苗字の家まで、どう行きゃいい」
「ん。橋の近くだからまっすぐ……え? ちょっとまさか、待って、ちょっと待って!」
 いいよ、大丈夫だよ。広田くんの家あっちだって言ってたよね。慌てる苗字を早足で躱しながら、広田はあのなぁと眉間のしわを深めた。
「こんな時間に女ひとりで帰らせられっか」
「いやいやでもだって、凄く遠回りになっちゃうし……」
「それくらい屁でもねーっての。運動部なめんな」
 オレの"彼女"なんだろ甘えろよ、とまではさすがに言えなかった。

 みっつ目のパンをちぎりながら、橋の場所を思い浮かべる。
 パンが残りひとつになるには十分な距離だったし、橋の手前からぐるりと回れば広田の家までもそう遠くはない。



(2016.12.28)(タイトル:インスタントカフェ)(目が我慢できないタイプの食いしん坊)
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