■ カクテル・ハニーとホロ酔い逃避行

「うへー……さすがに、少しばかりはしゃぎ過ぎたかなぁ……あー気持ちいーわ」

 ワイワイガヤガヤと賑やかな宴会場から伸びる細い廊下を進めば、見事な中庭が広がっていた。異国情緒溢れる庭の中央では、見事な鯉も泳いでいる。そんな中庭をぐるりと囲む朱色の手すりに、ズルズルと身体を預けて倒れこむ。但し、片手に持ったグラスの中身のたった一滴も零さないように気を付けて。
 一体どういう空調システムなのか、火照った頬をふわりと優しい夜風が撫でていくのが心地いい。でもまだちょっと暑いな。一枚脱いだらちょうどいいかな。
 まるで本当に外で涼んでいるようだと瞳を細めて、でも本当に外だったらさすがにもっと寒いから、やっぱりここは外とは違う異空間なのだなぁと感慨のまま熱い息を吐く。こんな面白い場所でこんなに楽しく過ごせるなんて、生きててよかったとしみじみ思う。


 不意に、バタバタという足音が床を震わせた。
 一体誰だろうと顔を向ければ、廊下の向こうから近づいてくる相手は見間違えようもない人で。
 食後のスイーツをどうぞと言わんばかりのあまりに出来過ぎた人選に、酒を舐めていた口が間抜けに開いていく。

「大丈夫ですか!? 誰か呼んできましょうか……いや、動かしても大丈夫なようなら、僕が運びますが」
 その慌てた様子に、一体どうしたのだろうときょとんとした私だけれど、すぐにああそうかと合点がいく。
「ごめんね、大丈夫だよー。ちょっと食べ過ぎで気持ちよくなってるだけーえへへー」
 心配いらないのさーと笑ってみせれば、ツェッドさんは拍子抜けだと言うように吐息を漏らす。
 けれどそのまま立ち去ることはせず、あろうことかパチパチと目を瞬かせる私のすぐ隣に、その犯罪級の細腰が下ろされた。
「おやおや、ニューフェイスがこんなところで油売ってていいのかなぁ?」
「……こんなところで一人座り込む女性に気が付いた上で、放置して戻れるほどに僕は図太くはありませんから」
 そうやって淡々と口にされた言葉は明瞭なものだけれど、その顔がほんのり赤いことに気が付かない私ではない。この様子では、結構飲んだのだろう。そう思って盗み見れば、心なしか目元もとろんとしている気がするではないか。
 なんだ、よく見れば意外と表情豊かなんだなぁ……そう思うと、妙に可愛く思えてくる。
「ああ成る程。ツェッドさんも酔い醒ましってわけか。なら、ここはベストポジションだね。風がとーっても気持ち良いし、何よりこの見事な庭といったら!」
 ひゃっほぅと万歳するつもりが、間合いを読み間違えたのかそれとも重い腕が上がりきらなかったのか……片手だけが何かにばちんとぶつかった。
 熱くはない、むしろ冷やっこいと表現するのが適切なくらいの、程よい弾力を持っている"何か"に、だ。
 けれどそれが何なのかと思考を巡らす間も無く、真横から聞こえた声が答えを知らせる。だって今ここに、びっくりしましたよ、と言うような相手は一人しかいない。

「ああもう。はしゃぐのも結構ですが、気を付けて下さいよ」
「うわごめん。痛くなかった? っていうか、やっぱり今の感触ってツェッドさんか」
 さすがに、目や口には当たらなかったよね。慌ててツェッドさんの顔を覗き込めば、急な重心移動に私の視界はぐらりと揺らいだ。痛くはありませんが……と困惑した風なツェッドさんが、みるみる二人に分かれて回り出す。うわぁ凄いや、ツェッドさんとツェッドくんだよ。
 揺れる視界に不快感を覚えるでもなく、むしろ堪らずケラケラと笑い出した私を心底怪訝そうに見つめたツェッドくんたちは、けれどもすぐに私がちびりちびりと飲んでいるグラスに視線を移した。

「そんなになってて、まだ飲むんですか」
「うふふー。ガソリン入れなきゃ、自動車は走り続けられないでしょー? さあさあ、せっかくだしツェッドくんも一口どうかね」
「いえ、僕は……」
「あーなんだっけ。こういう時にぴったりの一言……えーと、ああそうだ『先輩の酒が飲めんのかぁ』ってやつ」
 だからほら、一口どーぞ。
 最早パワハラでしかない勢いでグラスをぐいと厚い胸板の前に押しやれば、しぶしぶ伸びてきた手がグラスを引き継いだ。いつの間にやら呼び方が好意と気安さを込めた「くん」付けに変わっているのだけれど、絶賛酔っ払い中の私に自覚がある筈もない。
 じゃあ一口だけとコクリと喉が動き……見守る私の横で、ぶはッと咳き込むツェッドくん。うわぁどうしよう、やっぱり凄く可愛い。
「ちょ、ストレートじゃないですか!? いったいどうして、この状況でさらにコレを選んでしまうんですか……」
「えーだってー…………あ、ツェッドくんの手ってひんやりしてて気持ちいいねぇ」
 グラスを受け取りがてら触れた手のひらの、そのあまりの心地良さに私はほうと息を吐く。
 そういえば、さっき叩いてしまった時も気持ち良いって思ったんだった。口にしかけていた飲酒の理由は、既にどこかに溶けて消えていた。
 ダブルを優に超える液体が跳ねるのも構うことなくさっさとグラスを床に戻すと、開いた両手をふわりと伸ばして低い熱で満ちた手を握る。さっきから、熱くて暑くて堪らないんだよね。それに、首に手首に心臓に、ああそうだ膝の裏も。とにかく心臓と血管がドクドク煩くってかなわないんだ。
 風邪をひいてもここまで熱くならないよってくらいに顔だって熱いし、きっと私の周りの空気も何度か上昇してるに違いないんだから。そんなことを思いながら。
「やー、本当にひんやり気持ちいいー。こりゃ夜風よりよっぽど効果ありだわー」
 火照った頬に、人肌というには少しばかりひんやりとしている柔らかな感触が気持ち良い。
 喉を潤すアルコール、胃を満たす食物、胸を満たす愛しい仲間たち。それらでも埋まりきらなかった小さな穴が、この冷たいぬくもりによって静かに満たされていくような気がした。
「あの、ちょっとなまえさんいい加減にしてください。うわ、ちょっと、本当に大丈夫ですか。どうしたんですか!?」

 みるみる靄が深まる思考の向こうから、ツェッドくんの慌てたような声が聞こえてくる。
 けれど、今の私には彼の声は耳に入っても、その内容までは理解できない。それでも、誰かの声と分かるだけで、私は嬉しい。なんでだろうとぼんやり考えて、のんびりとした蛇行運転の末にその理由に辿り着く。
「あー……そっか、そういえばここんとこ……ずっと一人だったから……」
 どれだけ馴染んだ振りをしてみたところで、GL社は潜入先でしかないし、勿論そこの人たちにも心を許すわけにはいかない。本部に呼ばれることもなく最後の召集もずっと前で、ご飯に行くようなオフもないとなれば、ライブラのメンバーとはろくに会えもしない。
 そういえば、いくらみんながいるといっても今日はいつになくよく食べた気がするなぁ。ここのところは能力も使ってないし、いつもなら、もっと……あれ、ひょっとして私、気付いていない振りをしていただけで意外と……

「……寂しかった……のかなぁ……」



 活発になりすぎた鼓動に合わせて、口元からははぁはぁと荒い息が溢れていく。
 その自分でも持て余す程の速度をなだめるように、優しい風がふわりふわりと髪を撫でていくのを深い霧越しに感知する。何度も何度も、そよそよと。さっき感じた風より、ずっと低いところで。
 それがあんまりにも優しくて気持ちよくて……ただでさえ朦朧としていた意識は、もはや抗うこともしないまま休息を求めて飛び立っていった。



  ***



「……とりあえず、大体こんなところだね。まあ、君が一度に覚える必要はないさ」
 大切なのは、君の顔を彼らに覚えさせることだからね。そう言ったスティーブンの微笑みの先で、新人はぷしゅーっと頭から湯気を出していた。それなりに限られた世界での生活が長かった彼にとって、こんな風に短時間に多数の人物と交流を持つことは実は初めての経験だったのだ……ということに気付ける者はそういない。
 この機を逃してたまるものかと妙に張り切ったスティーブンもその一人で、その結果こうして泣き言ひとつ漏らせないままツェッドは限界を迎えたわけだった。
 この段階になってようやく可愛い新人くんの背景に思い至ったやり手の上司は、すっかりパーティーを楽しむどころではなくなっている新人を振り返ると慌てた様子で解散を告げた。正直まだまだ紹介し足りないのだが、肝心の彼がこれでは意味がない。
「すまないね、さすがに疲れさせてしまったかな……あとはゆっくり楽しんでくれ」
 まあ、仕方がない。
 一応第一印象くらいはマトモに装える人物が多いとはいえ、隠しきれないアクも滲み出ていたし、そもそも数が多かったしな。ツェッドにねぎらいの言葉をかけたスティーブンは、流れるような動作で給仕から新たなグラスを受け取った。
 君はどうすると問われた視線の先で、ツェッドは疲れた様子で首を振る。
「それよりも……少し涼んで来ます」
 ワイングラスだけでも何度も何度も持ち替えていたというのに、なんでこの人はこんなにも顔色が変わらないんだろう。そんなことを思いながら何気なく出口の方へと視線を泳がせたツェッドの眼は……いささか覚束ない足取りの女性が、廊下の向こうに消えていくところを捉えてしまった。

「……あれは、確か」
「うん、なまえだね。ああ、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。あれだけ飲み食いすれば、ああなったって仕方がない。あのジョッキ、覚えてるだろう?」
 むしろあれくらいで済んでいるのが恐ろしいよとスティーブンが笑っても、ツェッドとしては納得がいかない。
 しかし、と続きかけた新人の言葉を、スティーブンはやんわりと制した。
「あれでも、人に迷惑はかけないタイプだから。まあ見ててご覧、二次会になればひょっこりさっきの調子で戻って来るさ」
「さっきの調子って……それはそれで、問題ありなんじゃないですか」
 思わずツェッドは嘆息する。
 スティーブンに連れられて来た時こそ彼女は何も持っていなかったが、その後が問題だ。視界の端々を通り過ぎて行った彼女は、常に何かを飲み食いしていた。見かける度、いつだって。誰と話していても誰と笑い合っていても、彼女はどう見てもおしゃべり以外の使い道に熱意を傾けて口を動かしていたように思う。
 けれどもそんなツェッドの困惑に気が付いた上であっさり笑い飛ばした彼の上司は、さっと周囲に目を配ると少しだけ真面目な顔をして囁いた。
「誰しも、何かしらの理由は持っているものだよ。だからこそ僕たちは……彼女の食欲も『愛している』」
「……え」
 しかし。これ以上なく意味深にそれだけ言ったスティーブンは、次の瞬間にはあっさりと底の見えないにこにこ笑顔に戻ってしまう。今何かとても重要なことを聞いた気がする……といくらツェッドが目を白黒させようとも、「じゃあな」と告げて歩き出した黒スーツはもう振り返らない。
 けれど。去っていく後姿が最後に「仕方がないからヒントをあげよう」と残した言葉は、やけにはっきりと耳まで届いた。


「例えば彼女が、"ひとり"で居る時は全く食事が取れない体質だって言ったら信じるかい?」



  ***



「……なんなんだ、この人は」
 成人女性とは思えない無防備さを見せつけるなまえを横目に、ツェッド・オブライエンは途方に暮れていた。
 酔い潰れても人に迷惑をかけないタイプだなんて、これの何処がそうなんですか。
 間違いなく僕は今迷惑しているし、廊下で寝られたらお店の人も困るでしょう。そんな恨み言は、言うべき相手に届かないまま浮かんだ端から胸に沈む。
 いつもより熱くなった頬に触れてきたあの手は、さすがに彼女が眠りに落ちた今はもうそこにはない。けれど柔らかな手が今もしっかりと自分の手を握っていて、しかもまだまだ離してくれそうにない。

 とはいえ、困惑しているのは事実だが、八方塞がりと言う程にどうしようもない程に困っているわけでは決してなかった。

 ……なぜならば、もたれ掛かられた肩越しに感じる、すうすうという呼吸が荒いものだから。
 深く寝入る前のこの状況なら、少しばかり肩を揺らしてやって何度か呼びかければ、起こすことはそう難しくはないだろうと想像が付いたから。そして、いくらしっかり握られたと言っても所詮は人類の、しかも若い女性の無自覚の内となれば。手段さえ気にしなければ、振り解くことなど容易い。


 けれども。
 このまま続けば低温火傷を招きそうな程に熱いその手のひらを今すぐ振り解く気にはなれなかったし、肩に感じる重みを押しのける気にもなれなかった。
 それは単に、遠慮なく実力行使に出れる程に親しい相手ではなかった(というか、初対面である)からでもあったし、一応ライブラでは先輩だしなぁという諦めによるものでもあったが……それだけというわけでもなかった。
 常人ならとっくに許容量を超えているだろうアルコールが彼女の身体の中で燃える熱は、触れ合う肩から絶え間なく、それこそ嫌になる程に伝わってくる。加えて、どくどくとフル稼働する頚動脈の響きと荒い呼吸音が、彼女の眠りが決して穏やかなものではないと聞いてもいないのに教えてくれる。
 そして更に、あの凄まじい食事風景が嘘のように、こうしていればなまえはただの若い女にしか見えなかった。

 ツェッドの感情に吸い上げられるように、スティーブンの言葉が脳裏をよぎっていく。するとたちまち連想ゲームのように、意識を手放す直前に彼女が口にした「寂しかった」という呟きの、あまりに他人事のような鈍い響きまでもが耳に蘇るのだ。
 そんなわけで……理不尽と跳ね除けるには色々材料が足りないことと、元来の人の良さ……そんな諸々の要素があるにせよ、つまり。単純な話、ツェッド・オブライエンの酔いの残る頭は見事にほだされてしまっていたのだ。

 握られていない方の手のひらで、なまえの顔をぱたぱたと仰いでやる。
 水掻きの分だけ効率よく運ばれているだろう風に、みるみる眉間のシワが緩むのが解りやすくて少し面白い。
 やがて、穏やかな顔から、規則正しい寝息が聞こえ始めた頃。ふと思い立ち、彼女の傍に置かれたままになっていたグラスにゆっくり手を伸ばしてみた。今度は用心深く口をつければ、度数の高い酒特有の刺激とともに芳醇な香りがふわりと広がる。なるほど。夜風に当たりながらちびりちびりと味わうには、なかなか趣味の良い選択かもしれない。
 尤も、既にこんなになるまで飲んでいたことと、この量は明らかに多いだろう、ということを無視した場合に限っての感想だけれども。

 そんなことを思いながら、さていつまでこうしているべきか……と宴会場の方角に意識を向けたツェッドは、今この瞬間に合わせたかのようなタイミングの良さで近付いて来る二つの気配を察知した。


 さて、うるさい兄弟子と曲者の上司がたどり着く前に、彼女を起こすことは出来るだろうか。(けれど、このまま眠っていてくれる方が説明が楽かもしれないなとすぐに考え直した。)



(2015.04.18)(タイトル:fynch)
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