| ■ キスの雨なら傘はいらないでしょう コンコンと扉を叩いてノブを握る。 鍵のかかっていないその扉をガチャリと押し開ければ、そこは別世界。初めてこの部屋に足を踏み入れる人は、きっと誰だって驚くに違いない。 植物園の温室を連想するような常緑樹が配置された部屋はそれだけでも特筆に値する特徴だけれど、それよりも誰もが真っ先に目が行くのは奥に置かれた巨大な円柱型の水槽だろう。そして、そんな規格外な水槽の中で気持ちよさそうに漂っている人影こそが、この部屋の住人ツェッド・オブライエンその人なのだ。 「なまえさん! 待っていて下さい、すぐに出ますから……」 さながら、勝手知ったる他人の家。 そんな気安さでもって「やほーお届け物だよー」と片手を上げて水槽へと近付く私とは対称に、水中にいるツェッドくんはこれ以上ないと言う程ばたついた。 急がなくてもいいよと返した言葉に甘えてくれる様子もなく、あっという間の素早さでボンベ (エアギルス)を装着した彼によって水面が激しく波打つ。 ザパァァァンなんて水音に負けないように「ツェッドくん!」と呼んで階段の下で腕を広げて待ち構えてみる。無論、荷物は置いてだ。そんな私の姿を階段の先から見下ろして、ツェッドくんは戸惑いがちに笑った。 「……濡れても、知りませんよ」 「濡れたままで放り出されないなら、問題ないかな」 悪戯っぽく笑って言えば、ふぅと小さな溜息と共に「まったく貴女って人は」と呟きが聞こえ……幸福のあまり耳が溶けちゃいそうな程に甘い声で、そっと名前を呼ばれた。 「なまえさん」 トントンと階段を降りていた足が最後の二段にかかったのと、待ちきれない私が華麗なるフライングでその胸に飛び込んだのは殆ど同時だった。 宣言の上でとはいえ、勢いを付けて飛んだ私をふらつくこともなくしっかりと抱き留めたツェッドくんは本当に男前だと思うし、ますます惚れ直そうかというものだ。冷たい身体にぴったりと体を重ねると、落ちきっていない、もしくは乾ききっていない水滴がじんわりと私の服に染み込んでくる。 例えばこれが傘を持っていない路上で遭遇する不意打ちの雨だったなら、例えばどこかの庭で暴れるホースから飛ばされた水だったなら、私の顔は盛大に引き攣っただろう。 けれどこうしてツェッドくんと見つめ合うこの場に限っては、不快な筈の濡れた服の感触も「ツェッドくんがここにいる」という愛しい実感を伝えてくれる材料の一つになってしまう。 完璧に身を預けてだらんとなった私を器用に抱き直したツェッドくんは、そのまま地面まで辿り着くと今度は私の足をそっと地に戻した。 けれど視線はそのまま外されることなく、私から外すこともなく……数秒前まで腰に有った手のひらが頬を撫でるのを、見つめ合ったまま享受する。 すっかり見慣れた水掻き付きの指先にあるのは、硬く大きな爪だ。けれどその爪が決して私を傷付けることはないと知っているから、怖いだなんて思わない。むしろ、少しくらいなら傷付けてもいいから、時にはもうちょっと乱暴に、荒々しくがっついてくれてもいいのよ、なんて思わないことがないわけでもない。 それでも、最初の頃に比べれば随分と慣れてくれたものだし、ちょこちょこと可愛らしい強引さも見せてくれるようになったことを考えれば随分な進展だろう。 現に今だって、向けられている私の方が恥ずかしくなってしまう程に甘く緩んだ目尻が私を捕えて離してくれない。 例えばこれが何時もの執務室ならば「いつまで見つめ合ってるんですか」と無粋なツッコミの一つや二つは入っただろう。 けれど、生憎ここはツェッドくんの自室だし、上出来なまでにこの空間は私と彼の二人きりだ。 誰にも邪魔されることなく思う存分に蕩けきった眼差しを向けあった私たちは、やがてどちらともなくお互いの唇を求め合う。 そんな怖いものなんて何一つないようなキスの最中。 私の身長に合わせて折られる身体が窮屈そうで、今みたいなキスが繰り返される度に少しだけ私の心が陰っていることに、きっとツェッドくんは気付いていない。人類(ヒューマー)の女性としてはそこまで低いわけでもないけれど、決して高い分類ではない私の唇を求めて、ツェッドくんがその逞しい身体を折る……相手が私であるが為にそんな不便を強いられている彼に申し訳なくなるのと同時に、そんな窮屈さすら飛び越えて、この強く美しい人が私を欲しがってくれているという事実が甘い罪悪感を呼び起こすのだ。そう……"甘い"罪悪感。 申し訳なく思うことよりもずっと、この素晴らしい男性が求めているのが他の誰でもない私だということの優越感が勝るのだから、タチが悪い。 ツェッドくんへの思いを確認する度、ツェッドくんに思われていることを実感する度、どうしようもない幸福感と同時に浅ましい自分を再確認することになる。 「何を考えているんですか?」 焦点を合わす為のギリギリの距離を確保して、私の底の底にある感情まで全て見通そうとでもするかのように覗き込むツェッドくん。 不意に、他の誰とも違う輝きを放つその目に、自分の全てを暴かれてしまいたいという欲が湧き上がる。けれども露悪趣味に走るのは別にいつだって出来ることだと、やはり純粋さとは程遠い思考でそれを抑え込む。 「んー……もう乾いちゃったなぁ、ってね」 染み込んだと言っても、バスタオルが誇る給水具合にも及ばないレベルだ。せいぜい湿った程度の服は、すでに訪れた時と同じ軽さに戻っている。 服が乾くまでここに居てもいい?という恰好の口実がなくなったことを言外に嘆いてみせた私を前に、ツェッドくんは「ああもう貴女は本当に……!」と額に手を当てた。 「そんな口実が必要だと本気で思っているのなら、僕は今から……貴女をあそこに突き落としますよ?」 背後の水槽を指してそんな物騒なことを言うツェッドくんの口調は、あながち冗談と笑い飛ばせるものでもなくて。 日頃の常識的で紳士的な顔とは違う、ザップに対する遠慮のなさとも違う、どこか拗ねるような非難を受けて、さっきから煩いばかりの心臓が極め付けの悲鳴をあげた。 返事の代わりにぴょんと跳ねて再び抱き付けば、やはり今回もしっかりと受け止めて貰える。 ゴロゴロと喉を鳴らす猫のように、ツェッドくんの厚い胸板に頬を擦り寄せる私の顔は、きっとどうしようもない程に緩みきっていることだろう。 (2015.04.19)(タイトル:fynch) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |