■ 素晴らしきこの世界で

「おねえさん ありがと〜」

 短い手をぶんぶん振って見送ろうとしてくれるネジくん。そののんびりした顔にまたねと笑いかけて、少しだけ軽くなった荷物を抱え直す。するとその拍子に特有の香りがふわりと袋口から溢れ出てしまい、抗いがたい芳香に私の胃袋はぐるるるると盛大な自己主張を始めてしまう。

「ふふふ〜 本当におねえさんは食いしん坊だよね〜」

 手にしたばかりのバーガーをさっそく頬張っているネジくんにだけは言われたくないセリフだけど、このタイミングでは弁解のしようもない。今度はいっしょに食べようね〜というお誘いに是非と応えた私の足は、この42番街のずっと向こうにあるアンダンタル広場を目指して走り出した。


 逸る心が望むままに、大きな声では言えないような移動手段も駆使し──見事ハンバーガーが冷めきってしまわない内に広場に辿り着いた私を迎え、休日の午前とは思えないようなハードなひと頑張りをいたわってくれるものは、信頼できる同僚でありスマートな紳士であり、何を隠そう私の自慢の恋人であるツェッドくんの笑顔しかないだろう。
 そして実際、待ち合わせ場所としてはお馴染みの銅像前で静かに佇む姿を捉えたが最後、私はこの両手の荷物をすぐさま放り投げて身一つでその逞しい胸板に飛び込んでしまいたくなったのだけれど、勿論そんなのは「あくまでイメージ映像です」というやつだ。

「ツェッドくん、お待たせ! 買ってきたよ!」

 ほらこれ!見て見て!浮かれ調子で両手の袋を掲げて駆け寄れば、数メーター先のツェッドくんはピンと触角を動かしてこちらを向いた。

「こんにちはなまえさん。ありがとうございます……って、今日も凄い量ですね」
「実は、これでも結構減ったんだよー。ほら、レオくんの友達でバーガー好きの子が居たでしょー」

 白いキノコ系の……そう具体的に続ける前に、ツェッドくんは「ええ。わかります」と頷いた。といっても、レオくん繋がりで何度かランチを一緒した私とは違って直接の面識はないだろうから、この場合は私の話をちゃんと聞いて&覚えていてくれて嬉しい!ありがとうツェッドくん!大好き!ってことになる。
 ちなみに何を隠そう、私が先日「ああそうだ。ねぇツェッドくん、今度の日曜はジャック&ロケッツ食べようよ。外でも行ったことなかったんでしょ?」と言い出すに至ったのはあのふたりに影響されてのことだった。
 そんでもって場所が42番街ならば、ツェッドくんと同席したい私は必然的にテイクアウトになるわけで、すると待ち合わせ場所と時間もとんとん拍子で決まっていく。経験上、店頭で告げるにはあまりにもアレな注文量になるのは分かりきっていたので事前に店舗に連絡入れて、ついでに「もしもゲートを出た所で運良くネジくんに会えたら分けてあげようかな」なんて考えのもと相当数の余裕を持ってオーダーしたのは事実だけど、まさか本当に会えるとは。レオくんにも言ってないのに、凄い嗅覚だよネジくん。いつぞや聞いた"バーガーの精"とやらのご加護だろうか。凄いなぁネジくん。バーガーを愛するものはバーガーからも愛されるんだなぁ。

 そんな風にジャック&ロケッツを巡るふれあいの顛末を話しながら、無難な木陰の一つにシートを広げて腰を下ろせば、あっという間に気分はピクニックだ。

 バスケットいっぱいの手作りサンドイッチの代わりに、持ち帰り袋いっぱいのハンバーガーをメインに置いて「いただきまーす」とかぶり付く。軽く焼かれたバンズの間には、繊細さとは無縁ながらも妙に癖になるパティを始め、お馴染みのレタスとチーズとピクルスという具材が挟まれている。グルメバーガーの類とは違う圧倒的なお手軽さと明らかに高カロリーなバランスは、子供の頃に食べたファストフードチェーンの記憶そのままだ。
 けれどそんなありふれたファストフードも、このHL(ヘルサレムズ・ロット)ではちょっとしたレアフードなのだから人生というのは何が起こるかわからない。

「あー、美味しい。この業界4位の意地って感じのバンズが、本当いい仕事してるわ」
「え、ジャック&ロケッツって4位なんですか」
「まあ1位のシェアが論外レベルで、2位はまあいいとして……3位4位は割と接戦だね。けどキャラ展開と強気な味付がツボでさ、子供の頃から私はジャック&ロケッツ推しだったなぁ」

 ちなみに1位HLでもちょこちょこ見かけるあのチェーンだよと添えれば、そう言われれば何軒も見ますもんねと相槌が返ってくる。ついでのように投げかけられる「なまえさんは、こういうお店よく利用するんですか?」との言葉には、少しだけ考えて素直に首を振ることにした。

「最近は、たまにレオくんたちと食べるくらいかなぁ。美味しいし便利なんだけど、あの店内で一人だと目立っちゃうんだよねぇ」
「なるほど」

 話しながらも、次から次へとバーガーを剥く手は止まらない。早くも包み紙の小山を築き始めている私という恋人の姿を確かめたツェッドくんは、野暮なことなど一言も発することなく手元のバーガーにはむりと食らいついた。

 むしゃむしゃと動くツェッドくんの口元を横目に、そっと胸をなで下ろす。
 そう──さすがに"気を許す"という次元とは程遠い環境だけれど、お互いに無関心な人たちがひしめき合う店内はそれなりに居心地がよく、手っ取り早く"栄養補給"として胃袋を動かす程度には問題無い状況と言える。静かな部屋に一人でいるよりは、確実に食は進む。けれど女性型人類がトレイ山盛り程度の量を食べたくらいでも、一期一会の初見同士が集まるような店内では無駄に注目を集めることになってしまうのが面倒なのだ。
 そんな面倒を許容した上で"栄養補給"を試みることに時間を充てるくらいなら、気心の知れた人たちと美味しい"食事"を楽しみたいし、それが難しければ馴染みの店で常連たちに囲まれてフォークを握る方がずっといいし、それすら叶わないのなら……その日も食べないだけだ。
 私の暴飲暴食が酷く限定的なものであると知っているのはライブラの中でも特に付き合いの長い限られた人たちぐらいで、もちろんツェッドくんはその中には含まれていない。
 だってそもそも初対面の場からして、気心の知れた人間が集まっているというこれ以上ない好条件に胃袋が踊り狂っていた新年会だったのだし、その後もなんだかんだでチェインやザップたちとのご飯会が定番だったし、そして晴れて恋人同士という間柄に至った今は言うまでもなくツェッドくんとの食事は最高の楽しみだ。
 だから彼はよく食べる私しか見たことがない筈だし、私から言い出さない限りそんな繊細ガールだとは思いもしないだろう。けれど、事実ツェッドくんといる時の私は常に胃袋リミッター解除中なのだから……それでいいんじゃないかと思うのだ。


「美味しかったです。わざわざ買いに行って頂いて、すみませんでした」

 指先を拭きながら言われた言葉に、ぴくりと眉が上がってしまうのを自覚する。
 ねえ待って。こんなことにまでお礼を言ってくれるその丁寧さは好きだけれど、でもこの場に「すみません」は相応しくないでしょう?
 ぐらりと上半身を倒して、私のそれよりずっとずっと太くて硬くて広くて安定感のあるツェッドくんの二の腕にもたれ掛かる。うわわ、なんて言いながらも反射的に引きかけた身体はすぐに重心を取り戻したし、空いてる方の手は私を支える為に伸ばされた。
 整えられた場所を心地よく感じながらも思うのは、彼の剥き出しの肩や腕に対して私の髪や服が与える刺激がどうか不快なものでないならいいなということで。ああ。あと、重いとか思われませんように……とも。そんな、指先が触れ合っただけで真っ赤になる程ではないけれど、全てを委ねるには至りきれない距離の中。それでも現段階で自覚する限り最も"自然"に力を抜いて、もたれ掛かったままツェッドくんの顔を見上げる。

「外で食べるのって、楽しいよね」

 私もレオくんたちのおかげで思い出したんだけどと笑えば、ツェッドくんは少しだけぽかんとして──やがてゆっくりと双眸を細めた。

「……そう、そうですね。……ありがとうなまえさん」
「えへへ、どういたしまして。そんでもって、私の方こそ──ありがとう」

 自由気ままに口を動かす私を厭わないでくれるところとか、どれがいいですか?といつも一番に選ばせてくれるところとか、遠慮の塊になりがちな最後の一つをまだ熱々のうちに「どうぞ」と進めてくれるところとか、こうして興行前に時間を作ってくれたりすることとか、今みたいに気付けば風上に居てくれるところとか、コンパスの差を失念するくらいに歩きやすい速度で並んでくれるところとか……つまりはいつだって私のことを大事にしてくれるところとか。そもそも一緒に居てくれること自体とか。"ありがとう"の中身はそれこそ限りなくあるけれど、今はただ一言に込めよう。

 そして、程よい充足感(これでもしネジくんの分まで食べていたら、きっと本当に満腹になっていただろう)と心地よいぬくもりと優しい日差しが眠気を運んでくる前に、動き出さなくてはと前を向く。この名残惜しい二の腕からも離れて、捕まえたばかりのこの手のひらも放さなくては。

 けれど、それは名残惜しいとはいえ、多少の寂しさはあるとはいえ、悲しいものでは決してない。
 だってそうした少しの我慢を引き換えにすれば、きっと数十分も経たない内にとても素敵な光景に出会えることがわかっているのだから。



  ***



 ツェッドくんの手でひとときの輝きを与えられた蝶たちがあたり一帯をひらひらと舞い踊れば、人々は人類も異界人もなくただキラキラと瞳を輝かせて、思い思いの歓声をあげた。勿論この日の観客には私の存在も含まれていて、その瞬間の私はライブラの同僚でもなく、恋人ですらなく、ただこの場この瞬間に居合わせた人類のひとりであり、ツェッドくんの作り出す空間に魅了された"いちファン"なのだ。


「そんな律儀に通っていただかなくても、いつでも披露しますよ」

 以前、そう言って私のためだけに蝶の束を解こうとしたツェッドくんを押し留めたのは、遠慮だけが理由じゃなかった。
 室内を舞う紙の蝶たちはやっぱりきっととても美しいのだろうけれど、それでも霧越しに差し込む太陽の光の下でひらひらと飛び回る姿には及ばないだろうと思ったから。そして、私は私のためだけに飛び回る健気な蝶よりも、人々に笑顔をもたらしハッピーを振りまく蝶が見たいと思ったし、もっと言えば──人々の歓声を作り出すツェッドくんこそを、見たいと思ったから。

 その光景に初めて出会ったのは、疲れた身体を引き摺りながらの仕事帰りだった。
 どこかのバカがまたやらかしたせいで泊まり込む羽目になって、もう潜入なんて!仮面社員なんて辞めてしまいたい!GL社なんて堕落王の気まぐれに巻き込まれて跡形もなく爆発しちゃえばいいのに!!なんて不謹慎な呟きを抱きながら強張った身体で広場を突っ切っていた私は、視界の隅でひらりと動いたものを確認しようと視線を上げ──そこでようやく目に入った蝶の大群と人だかりに、体内に巣食っていた深い靄が嘘みたいに綺麗さっぱり払われていくのを自覚したのだった。
 人類だとか異界人とか関係なく、ただこの瞬間に居合わせただけの個人として、その光景を前に心を踊らせる人々。同じものを見て同じように笑顔になった群衆の興奮が向かう先にあったのは、人種も世界も飛び越えた"観客たち"による熱い拍手喝采だった。
 確かに美しいけれど、冷めたことを言ってしまえばそれは元はただの紙の切れ端だ。なのに、誰もが楽しそうで、誰もが心を打たれているようで、私は目が離せなくなった。
 それは……今日が平和であるということを、このぐちゃぐちゃの世界もそう悪いものではないということを、ライブラ(私たち)が守る価値がある世界なのだということを、強く思い出させてくれる光景で──気が付けば私は、キラキラと輝く無数の瞳に紛れて涙を流していた。

 ……そんな予期せぬ再会を迎えた私たちがそれからどうなったかと言えば、なるようになったとしか言えない。
 殆どの観客が去った場所で、なおもぼろぼろと涙を零しながら立ち尽くす女にツェッドくんが気が付かない筈がなくて、そして気付いてしまえば無視出来るような人でないのも言うまでもないことだろう。
 けれど、そのくたびれたスーツの(しかも泣き過ぎで化粧も崩れた)惨めな女と、数回顔を合わせただけの"ライブラのなまえ"とをすんなり結び付けられる程、ツェッドくんにとっての私は親しい存在ではなかった。けれど、私はツェッドくんを"ライブラのツェッドくん"と認識した上で、受け止めきれない感動に身を震わせていたのだ。
 口を開けば文章でなく単語が漏れ、気を抜けばしゃくり泣きになる。そんな私が満足にこの事態を把握出来るわけも収拾出来るわけもなく、噛み合わないやりとりを不器用に繰り返したあの日の私たちは……こうやって手を取り肩を寄せ合うようになった今では、笑い話の一つである。



(2015.05.05)(タイトル:亡霊)
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