■ 一瞬はそれほどに長くて

 今日のラッキーナンバーは9だった。つまり8+1、或いは10-1、ninth、novem、九、θ──でもまあ、そんなことは別にいい。

 ラッキーだけじゃなく、もっと隅々まで見ていればよかったな。きっと、アンラッキースポットは高い所か窓辺だったに違いない……なんて、ひゅるるるると落ちながら呑気なことを考えてみる。割れた窓の間を突き抜けながらながら見た限りでは下は駐車場らしかった、ということが幸いといえば幸いだろうか。


 こうしてビルの上層階からダイブしているのが、例えばスティーブンさんやクラウスさんならどうだったろうか。
 今の私のようにただおとなしく落ちるのではなく、血液を固めたり凍らしたりで足場や持ち手を作ったりしてどうにかしちゃうんだろうなぁ。ザップもまあ、その辺の機転と行動力はさすがだし、チェインに至ってはお得意の「アンタの体重何キロよ!」と言いたくなるような身軽さで怖いものなしに違いない。

 そういえば。
 具体的にどうなっているのかとか仕組みや理屈は関係ないし興味もないし、能力について教え合う趣味もないけれど、とにかくあの"体重を自在に霞ませる"ってのは羨ましい能力だよなぁといつも思っていた。羨ましいを通り越して……ズルいぞチェインと頭をぐりぐりしたくなる。まあ、実際にしてるけど。

 こないだ買い物に行った時なんて特にひどかった。ぎゅうぎゅう賑わう週末のデパートで、やっと来たエレベーターにちょこんと乗り込んだチェインに続いて、すいませんすいません乗せてくださいもうちょっと詰めてぇぇぇぇと半泣き気分で足をかけたら、途端にブブーと無情なエラー音が響いたのだ。
 ただでさえ、ぎゅうぎゅう箱に押し込められてげんなりしている乗客たちでいっぱいなのに。人類・異界存在の区別なく一斉に向けられたどんより重たい視線に、すいませんやっぱり降りますぅと愛想笑いで後退りした時の気まずさと言うのは……実のところそこまでのダメージにはならなかったのだけれど、私に付き合う形でエレベーターを見送ったチェインが実は軽量モードだったということには無駄に傷付いた。
 つまりエレベータには元々一人分の余裕もなかったわけだ。私一人がアウトだったわけではない。ついでに言えば、本来の流れならばチェインが乗り込もうとした時点でブザーが鳴った筈だから顔を見わせて「あら、残念」なんてふふふと笑って平和的かつ愛らしくスマートに、閉まるドアに会釈する展開にもなりえたわけで。結局エレベーターに乗れなかったという事実は変わらないけれど、気分的には随分と違うことだろう。

 ……いや、まあ、だからどうしたって話だけど。
 軽くなれるなら軽くなるに越したことはないし、別に不快に思ったわけでもないし、まして見当違いに腹をたてたわけでもない。ただまあ、なんとなく理不尽だなーっというか羨ましいなーこんちくしょうとか。そういうことを思ってしまわけだ。
 程々に体重がある方が拳に威力が出るから、なんてよくわからない慰め方をしてくれたクラウスさんには申し訳ないけど、それでもやっぱり誰かから重いと認識されるのは嫌だなぁと思ってしまうのは若い娘としては仕方がない習性じゃないか。まして、春真っ盛りなんだから。

 並みの女性、どころかそこらの男や車だって軽々持ち上げてしまうようなクラウスさん相手なら多少の増減は問題ないだろうけど、っていうかそもそもクラウスさんは誠実が服を着ているような根っからの紳士だから、抱き上げた女性に対して重いなんて感想は言わないのは当然どころか、考えもしないことかもしれない。
 そういう点では、スティーブンさんは抱き寄せながらも甘いマスクの裏で結構辛辣に採点してそうだ。でもまあ意図もないのに女性に恥をかかせるようなことはしないだろうし、むしろそこらの女性では釣り合わないような男の色気たっぷりなあの人になら何を思われても言われても、諦めしか湧かないだろうからダメージは小さいだろう。
 言うまでもなく経験豊富で比較対象にも事欠かないどころか、貞操観念がすっぽり抜け落ちたヒモでありながら"そういう対象"以外にはてんで雑なザップならどうだろう。いや、同衾の相手には言わなくても同僚の私にはポンポン失礼発言を放ってくるあいつだ。あんな男が恋人だったら……なんて想像するまでもなく、現状でそもそも腹が立つ。判断基準がぼんきゅっぼーんなオネーチャンな分、磨かれまくったセンスでシビアに判断してくる辺りは本気で殺意が……いや、これ以上はやめておこう。でも、何か言われても殴ればいいから結局のところは気が楽だ。
 意外に警戒すべきなのがパトリックで、彼の場合はなんたって側にニーカちゃんが居るというのが最悪だ。よく食べるのに小柄で軽い(つまり外見の印象そのままの)彼女に慣れたあの男の基準は、見方を変えれば世の女性陣に喧嘩を売っていると言っても過言ではないだろう。そもそも、女性に対しての褒め言葉で何故武器名が出てくるのかが理解不能だ。ショットガンの型やナイフの名を交えて鼻息荒く惚気る姿は真剣に心配になるけれど、まあニーカちゃんがいいなら……外野があれこれ言うことではない。

 とまあ、なんだかんだ言ったところで所詮は戯言である。
 だって、なにせこの職場はさすが人類防衛の最前線と呼べる場所なだけあって、蓋を開けてみれば女一人の体重なんて指先一つで軽々と持ち上げ、ささやかな不安なんて一息で吹き飛ばしてくれるような男たちが揃っている"逞しい男の見本市"状態だから。だから今までもずっと、なんだかんだ言いながらも私は安心しきっていたのだ。あぐらをかいていたと言ってもいいだろう。だって大概の人類より彼らは逞しいし、大概の男より彼らはいい男だし、大概の異性同性から規格外扱いされる私でさえ彼らの側では"それなり"止まりだ。けど……そこに新風を吹き込んだのが、忘れちゃいけないレオナルド・ウォッチである。

 "そういう意味”で経験豊富な感じがしないところは好印象で、けれど全く女性慣れしていないというわけでもなく洒落もわかるし気配りも巧みで、つまりは絡んでいて大変に楽しい相手だった。周囲を固める面々がアレな分、より一層彼の少年らしさは引き立っていたし、ああ弟ってこんな感じなのかなぁと一度気付いてしまえば後は可愛くて仕方がなかった。けれど、そんな彼のむしろ新鮮なほどの"普通の少年らしさ"は予想外に鋭い剣となって私を襲った。
 忘れもしない、恒例となった大仕事の後の食事会でのこと。……そんでぇ、そのダイナーの子とはあれからどんな感じなのよぉ。なんてすっかり酒臭い息を吐きながら、甘酸っぱい匂いを求めてK・Kと二人で強引に絡んだあの時、完璧に不意を突かれた少年が返した素の反応、つまり「……う、お、重い」と漏らされた呟きに一瞬で酔いが吹っ飛んだ。
 そっかそりゃそうよね、いくら私の方が軽いだろうって言ってもそりゃそれなりに重さは感じるわよね。そっかそっか重かったか。うわーそっか重いのか。つまりレオくんが重いって感じる程度にはみんなにとっても重いんだよね。あーそっか、実際持ち上げられようがなんだろうが、重く感じるってことは避けられない事実だよね。あーもう嫌なことに気が付いちゃったー……よし、自棄酒しよう。
 今更ながらの事実をかつてなく重く受け止めた瞬間に、涙で潤んだ視界を掠めたのは向こうでクラウスさんのスキンシップという名の面談を受けているもう一人の新人だった。

 例えば。兄弟子であるザップが特筆に値するところは、どうしようもなくクズだしお金にも女性にもだらしないし何かにつけ横柄だしいつだって好き放題してるくせに、そんなクズさを変に取り繕うことはせず(バレバレのセコい計算はするものの)たちの悪い腹芸とも無縁で、知ってしまえば付き合っていて結構楽だし面白いし飽きないし、つまり様々な局面での支払いが私持ちになることと痴情のもつれに巻き込まれる確率が無駄に高いことにさえ目を瞑れば、下手な遠慮もいらず大変居心地がいいという紙一重さだ。

 この、居心地がいいという結論は共通しているのに、ツェッドくんの場合はそこに至るまでのアプローチがまるで違う。
 兄弟子の対極を進む彼は、特定の相手(ぼかすまでもなくザップなんだけど)以外にはいつだって丁寧だし物腰柔らかだし、加えて、悪魔か獣か化け物のようだと評される私の戦闘姿を幾度となく見た筈の今でも、なんだかんだレディ扱いを崩さないという貴重な精神の持ち主だ。

 この事務所に集う面々でそんな出来た男性は、他にはクラウスさんとレオくんぐらいしか居ない。まあ、レオくんには多少ビビられている気もするけれど。ちなみに、ギルベルトさんは再生体質の先輩として教えを乞うた時に「では、どういった時にどういった順で肉体が再生しそれぞれどれ程度の時間がかかるのかを確かめて、限界を自覚しましょう」と何食わぬ顔で結構怖いことをされたので全力で除外する。良家が誇る最高級の執事による"生物学上の女"と"淑女"に対する扱いの差を実地で知ることが出来たのは果たして貴重な体験と喜んでいいのやら……いや、まあ、本当のところはそれもこれも身の丈を超えた能力に苦悩する私を思ってのことだったとわかってはいるけれど。

 話が盛大に逸れた。

 つまり何が言いたいかというと「重いです」とか「肥えましたね」とか「ちょっと退いて下さい鬱陶しいです」とかは絶対に言わないツェッドくんが、筋骨隆々で私一人程度軽々と受け止めてくれそうなツェッドくんが、実際何度も危ない目に遭い中のレオくんを軽々掴んで助け出してきたツェッドくんが、けれども言わないだけで「人類女性にしては重いな」とか「この贅肉を削げばもっと軽量化できるだろうに」とか「もう少し細い方が好みだ」とか思っていたらどうしよう……っていうか思っているんじゃないのぉぉぉ!? という可能性に不意に思い至ったということだ。
 誤解しないでいただきたいのは、彼に裏表があると言いたいわけでは決してないってこと。
 状況把握能力に長けていて自分を客観的に見ることに慣れている彼は、状況を理解し過ぎるが故に生き辛そうに見える時が度々あった。
 生じた衝動をぶつける前に、それをぶつけてどうなるのかと先を見据えて冷静に判断して、結局飲み込んでしまうような、そんな優秀であるが為の不器用さと言えば伝わるだろうか。彼という存在の危うさを考えれば、諦め上手になってしまうのも無理はないことだろうけど……。

 (幾ら私の視界が色眼鏡越しだとしても、あの姿がこの街の誰とも違うものだと気が付かない筈はなかったし、彼を遠巻きに眺める異界存在たちが交わす言葉が耳に入らないわけもなかった。そして知れば知る程に、こんな息苦しい世界に身を置きながらも厭世観に囚われない彼の強さを美しいと感じずにはいられない)

 けれど、言いたいことを飲み込んで、しなくてもいい我慢に慣れて、いろいろなことを最初から諦めていて──それは私との関係も例外ではなかったのだと、ここに来てようやく気が付いたのだ。
 ツェッドくんと手に手を取り合って、誰とも違う関係を築けたら……なんて、思い上がりも甚だしい程に傲慢な独りよがりだ。
 思い返すまでもなく、初対面からして私は随分と彼を困らせてきた。強引に誘った飲み会でだって、いつも前のめりな私に困った顔で笑ってくれて。ツェッドくんの蝶を前に勝手に号泣した時も、おろおろしながらも必死で宥めようとしてくれたし、こうして想いが通じた今に至っても……彼は決して私に向かって声を荒げはしなかった。私がどれだけ拗ねても泣いてもわがままを言っても困らせても理不尽に怒っても、ツェッドくんはいつだって私を怒鳴りもしなかったし、見捨てようともしなかった。

 おろおろして、困った顔をして、申し訳なさそうに瞳を曇らせて、わだかまりを解こうと必死になってくれて。そしてそんなツェッドくんの優し過ぎる姿に「ごめんなさい」と崩れ落ちた私の肩を、宥めるように包むように守るように抱きしめてくれるのだ。怒ってもいいのに。なじってもいいのに。僕は悪くないですと声高に主張してくれて構わないのに。ああ、そうだ。あれが遠慮でなくて何だろう。諦めでなくて何だと言うのだ。


 ……と、いうわけで。そんなシリアス一直線の思考の発着点及び終着点が体重の話というのは我ながらアレだと思うけれど、でも人の性格を変えようとするよりはずっと無理なく確実に踏みしめられる一歩だと思ったから。
 そもそも私自身、K・Kの身長が羨ましいとか、ザップに平手打ちしていた人の足がキレイだったなぁとか、ふとした瞬間にそんなことを思うくらいには理想のプロポーションと現実の肉体に乖離があるわけで。実際にツェッドくんがどういうツボを持っているのかを知ったところで、仮にそれが私と懸け離れたところにあったとして、果たして彼の理想を目指すべくプロポーション作りに励むのかと問われたらそれは別問題だと言ってしまうけれど、でも。
 この際、胸や身長や底なし胃袋や、歌のうまさとか、出来上がっちゃった性格とか、そんな今日明日で(あるいは永遠に)どうにもならないことは置いといて──せめて少なくとも、主に贅肉に左右される体重方面くらいはツェッドくんに失望されたくないなぁ。と思ったのは逃げではなく乙女心と思ってほしい。誰が乙女だとか、野暮なことはこの際置いといて。



 なんて既に辿り尽くしていた筈の思考を懲りずにこうしてなぞり直していた間も、相変わらず肉体は宙を舞っていた……嘘だ。舞うどころか減速する気配もなく、ただ真っ逆さまに落ちているだけだ。これがチェインだったら……と身軽な彼女を思い浮かべてしまえば、きっとまた記憶の海へ逆戻りだろう。
 やけにゆっくりと流れていく風景とやけに皆の顔ばかり浮かぶ脳裏。ああこれが噂のアレか。体感時間がスローになるとか走馬灯とかそういうやつか。
 けれど幾らゆっくりに感じたところで、結果も過程も変わらない。間もなく私は地面にぶち当たって、けれど病院で治療を受けることも墓穴に入ることもなく、明日を迎えるのだ。ああでも、あの高さから硬い地面に激突するんだから相当なダメージはくらう筈だし、それを修復するとなると立ち上がれない位にはしんどくなるかもしれない。
 尤も、"最悪の事態"でも"それだけ"で済むのだから、落ちたのが私で良かったと心底思う。後先考えていない捨て身の軌道の先にいるのがあの子でなく他の誰かだったなら、つまり高層ビルから落ちてもなんだかんだで上手く立ち回れるだろう彼らなら、私はあんなに必死に手を伸ばさなかったし、掴んだ両手に全体重を乗せて場所を入れ替えることもしなかっただろう。

 どうだ、見上げた判断力と行動力じゃないか。あのタイミングで咄嗟に行動に移せて、しかも無事本懐を遂げた私のことを、我ながら素晴らしい有能さだと褒め称えようじゃないか。


 ……でもさすがに、激突の瞬間まで意識があるというのは遠慮したいなぁ。
 いい加減、そろそろ思考を手放したいんだけどなぁ。



(続く)(2015.06.08)(タイトル:fynch)(同僚の能力に対して雑な認識をしている主人公)
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