■ 逆さま包囲網

 ……いや本当に。そろそろ意識を手放しちゃいたいんですがねぇぇぇ!!

 気が遠くなる程のスローモーションを経ていよいよ近付いてきたアスファルトとの激突の瞬間を覚悟した時、不意にびゅうんと知らない風に煽られた。
 意識の隅にも引っかからない程の当たり前さでごうごう鳴り響いていた音が乱れたことによって、落下時の衝撃に聴覚が囚われていたことをようやく自覚する。けれど馬鹿になっていた耳を取り戻す間も無く、真っ逆さまに落ちていた筈の身体はこれまたおかしな方向から吹いた風によってくるりと向きを変えられた。地面に向かって垂直に落ちていたなんの変哲も無い落下姿勢は見事に回転し、一体どういうわけかまるで車の後部座席でくつろいだような姿勢になっている。
 それだけでも驚きなのに、なんとその奇特な風はそこで吹き止むことなく私の身体を包み込むように右から左から回り込み、みるみる落下速度を緩めてくれる。それは今まで脳が勝手に感じていた錯覚よりは幾分か速いものだったけれども、平常を取り戻した時間感覚によれば随分と優しい速度だった。
 
 ずうっと下に見えていた植木のてっぺんが目線の位置を通過する。
 ほほう見事な枝振りだなぁなんて観察する余裕もなく、はてそれでこの体制をどうしようと、次なる危機に脳が叫び出した。
 だってこの姿勢だと、まず腰からいくのは避けられない。いくらゆっくりだとはいえ、腰から着地ならそれはそれである程度は痛いだろう。わかりやすく血が出ない分、身体が治っていく実感も乏しいから嫌なんだよなぁ。内側の痛みってなんかやけにむずむずするし──という心配は、結論を言えば全くもってただの杞憂だった。



「まったく、貴女って人は! 無茶が過ぎます!」



 聞き慣れた声が、嘘みたいに近くから聞こえた。
 頭の後ろにいる筈の"誰か"を振り返ろうと身を捩る前に、無防備になっていた両脇にその"誰か"の腕が差し込まれる。
 ふわんふわんと緩やかに降下中の私の身体はその腕に望まれるままに引き寄せられ、持ち上げられた猫のようにだらんと身を任せた一瞬でくるりと向きを変えられた。
 え、え、私どうなったの? なんて戸惑いはくるりと反転した視界のおかげで霧消する。
 首回りを覆うボンベに沿って腕を回し、逞しい胸板に全身を預ける形になった私の足は、まだ地面には着いていない。そして、いつでも着地OKなように地面に向けた靴底の出番は訪れなかった。何故なら、両脇から腰と背中にそれぞれ流れるように移動していた腕によってしっかりと抱き直されたからで──この姿勢はつまり俗に言うお姫様抱っこというやつに違いなく、間近に迫ったツェッドくんの顔と密着した身体の熱さ、そして服越しに感じる筋肉の存在と胸板の下で激しく打つ心音に一瞬にして私の頬は熱くなってしまう。

 ──え、あの、え、え、ええ!?

 九死に一生どころか、地獄から天国。
 無様にうろたえるしか出来ない私はお姫様ではなく薄汚れた戦闘員で、けれどそんな私を抱きかかえるツェッドくんは確かに王子様だった。
 
 そんな吊り橋効果だけではないドキドキに息苦しさすら覚えつつも、状況を理解する余裕があったのはさすがだろう。先程の風は、ツェッドくんが起こしてくれたものだったのだ。どうやってここまで来たのとか、ひょっとしてずっと力を使っていてくれたのとか、あのゆっくりとした落下はひょっとして錯覚だけじゃなかったの?とか聞きたいことは沢山浮かぶけれど、何よりもまずは感謝の言葉をと胸いっぱいに息を吸い込む。


「あり──」
「──貴女は、自分が何をしたかわかっているのですか!」


 怒られた。

 珍しくというか初めてに違いない程に荒げられた声にびくりと身を震わせれば、逃がさないとばかりに覗き込んできた眼差しは露骨に怒りに揺れていて……私は更に身を硬く小さくする。それでもそこで俯くことなく、う……と一旦は詰まってしまった喉を気丈に震わせて見つめ返すことが出来たのは、つまりは自信と誇りがあったからだ。
 そうだ、私は怒られるような謂れはない。だって、だって、どう考えたって、あの場で私ができる最善の行動を取ったと思っているから。

「……確かに、レオくんは無事でした。けれど貴女が落ちてどうするんですか!」
「いや、でもね、私だったらホラ。これくらいじゃ死なない自信あるしっていうか怪我だってしないし」
「いいですか、物事は正しく口にすべきです。別に怪我を"しない"わけじゃないでしょう。治るというだけで、傷付いたという事実は無くなりません」

 うう。確かに、そうかもしれないけど。でも、だって、それでも私は私にできる最善を……そうだ、大体、こんなのは今更じゃないか。得意分野を生かして何が悪いの。
 言い返したいのに、今度は別の意味で乱れ始めた呼吸が邪魔をする。吸いたいのに、吐いてしまう。吐きたいのに、吸ってしまう。思うように言葉を紡がせてはくれない気管が苦しくて憎たらしくてと苦戦する内に、いつのまにかままならない喉を通り越して目頭に熱が集まっていた。さすがに、こんな風に惨めな心境でも自分がどういう状況かくらいは理解する余裕がある。あれだけ開きたかった口だけれど、こうなっては無様な嗚咽の一筋も漏らすものかと強く強く食いしばるしかない。

 何も言わず、何も言わせず。
 ロマンチックのひと欠片もない、ただただ精神を消耗するだけの悲し過ぎる睨み合いに降伏したのは、案の定私だった。
 ぷいと顔を背けて、なるべくツェッドくんの視線から影になるように傾けて小さく唇を開く。大丈夫。一言だけなら震えずに言える。

「……降ろして」
「嫌です」

 言葉に重ねるように、身体を包む腕にぎゅっと力が込められた。ただでさえツェッドくんにくっついている姿勢なのに、こうなるとますます密着してしまう。

「貴女は責任を持って僕が連れて帰ると、皆に言ってありますから」
「怒ってるくせに」
「怒りますよ。まともな着地も出来ないのに、なんでこんな……貴女はいつも、向こう見ずなことばかりする」

 でもそれは勝算あってことなんだから。ただの向こう見ずと一緒にしないでほしいんだけど。非難の代わりに無言を返せば、ハァと小さな溜息が耳をくすぐった。

「すみません、きつい言い方をしたことは謝ります。でも、怒りを感じたことに関しては謝りません」

「最初から"傷付いてもいい"なんて諦めないで下さい。僕が──僕たちが、落ちていく貴女を黙って見送るだけだなんて、無駄に傷付く貴女を守ろうともしないなんて、諦めないで下さい。見損なわないで下さい」

 なんでだろう。理不尽に怒られているのは私だってのに、まるでツェッドくんの方が泣いちゃいそうだ。そう言われたところで、やっぱり間違っているのは君の方だと思うけどね。諦めるとか、見損なうとか、そういうことじゃなくて。"命あっての物種"っていうことを皆よくよく知っているだけだから。だって落ちて潰れて再生したところで私は何も病まないし、嘆かないし、闘志だって数ミリだって死にはしない。だったら、何を嘆く必要があるの?ってことだ。だから今日だって、せいぜい「とんだドMだよなぁ」って笑われるか「そろそろ受け身くらい覚えたら?」とかそんな反応が返された筈で。
 ああ、例外を挙げるとすれば、クラウスさんくらいだろうか。こんなことがある度に険しい顔で見つめてくるクラウスさんのことは、なんていうか……気が付かないフリでやり過ごしている。困ったことに、私は平気なのだと何度アピールしてもあの人の目が変わらないから。いや、目だけじゃない。自分の痛みには寡黙を貫く癖に、他人の痛みにはどこまでも心を砕くあの不器用なまでに誇り高く潔い生き方は、出会った頃からちっとも変わらない──あ。不意に閃くものがあった。
 そうか。こうして私の肩を痛いくらいにきつく掴むツェッドくんから滲みだす感情は、自身の傷を省みないクラウスさんを歯痒く思う気持ちと似たところから来るものなのかも知れない。だとしたら現実はどうあれ……こうして必死で駆けつけて来てくれたツェッドくんに対して、言わなきゃいけないことがある。

「……ごめんなさい」

 震える唇をなんとか落ち着けてようやく絞り出した一言は、けれども正解には今一歩及ばずだったらしい。少しだけ浮上したものの、それでもまだまだ不満げなトーンが返ってくる。

「それだけですか?」
「えーと……心配かけてごめんなさい。受け止めてくれて"ありがとう"……?」
「はい。良くできました」

 お疲れ様です、と向けられたそれがあんまりにも優しい声だったから。あれ程に振り返るもんかと顔を背けていたのも忘れたように、ツェッドくんの胸に顔を埋めてしまった。



  ***



「ああもう、全く。なまえさんに無茶をしないで下さいと言ったところで無駄なことは今更ですけど、だったらせめて次からはもっと僕を頼りにしてください。"死なないから平気"だなんて悲しいことを言って笑わずに、やっと来たねと笑えばいいんです。もっと早く来るべきだと、拗ねるくらいでもいいです」

 いや、ちょっと待とうかツェッドくん。君は私を一体なんだと思っているのだね。
 呆れ口調で突っ込もうかと思ったのだけれど、あんまりにもご機嫌な顔をして私のわがままを許そうとするツェッドくんの笑顔に何を言っても無駄だと悟る。まあいいか、ツェッドくんがそう言ってくれるなら、私もその気で返すだけだ。

 「じゃあ、ツェッドくんが無茶する時は私が全力でサポートするね。そりゃ、お姫様だっこは出来ないだろうけど、でも背負うくらいならなんとか──」

 最後まで言い切ることなくぱくぱくと口を動かす私の顔を、どうしました?と覗き込んでくるツェッドくん。安定したリズムに揺られる状況が居心地よくて今の今まで失念していたけど、そういえばずっとこの体勢ってのはどういうことだ。っていうかこのまま黙っていたら、本当に事務所まで運んでくれちゃうつもりだったんだろうか。いやいや、まさかそんなこと!

「うわあぁぁぁごめん、重かったよね!? 降りる、今すぐ降りるからっていうかごめん降ろしてぇぇぇ」
「お断りします」

 なんでだよぉ。そりゃお姫様だっこは乙女の憧れって言うかもしれないけれど、でも私はもうそんな乙女でもないし、大体ツェッドくんは今日も今日とて王子様だけど私は今日も今日とて度重なる肉弾戦であちこち意味深な汚れにまみれた残念仕様だし、それに何よりさっきからずっとこの姿勢じゃないですか。いい加減、腕だって肩だって疲れているでしょうが。成人女性ってそんなに軽くないんだぞ。自分で言ってて泣きたくなるけど、別に軽くないんだぞ。私がチェインみたいに軽くなれるんだったら羽のような軽さっていうか驚きの無重量になってにこにこ笑顔で身を任せられるんだろうけど、けど私はあくまでただの標準的な人類女性なもんでそんな芸当できないんだからねぇ!!

「ああほら、危ないですから暴れないで下さい。そんな体調でそんなこと言っても駄目ですよ。僕が責任を持って送り届けると約束しましたから、今日は車も来ませんし」
「"送り届ける"……? ちょ、ちょっと待って。あのね、変なこと聞くけど……今から戻るのは事務所よね?」
「いえ、なまえさんの家です。大丈夫ですよ、ピザでよければ幸いなことにレオくんのバイト先という当てがありますから。ちゃんと配達区域内ですよ」

 違うそういうことじゃない。
 確かに、相当食べないと保たないくらいには疲れているけども、でも今大事なのはそこじゃない。

「それに、僕からすれば貴女だって充分"羽のよう"なので安心して下さい。おっと、そんなに膨れないで下さい……そうだ、何でしたら今からもう一度やってみましょうか? 斗流血法──」
「──いやいや大丈夫です。うん、ごめん大丈夫。もういい大丈夫ありがとう」

 文字通り"羽のように"軽々浮かしましょうかという申し出をぶんぶん揺らした首で断れば、わかっていただけて嬉しいですと食えない笑顔が返された。
 あれおかしいな。ツェッドくんってこんな感じだったっけ……ていうかなんでそんなに上機嫌なんですか。


「腕の中に、お姫様が降りてきてくれたんですよ。これが嬉しくないわけないじゃないですか」


 ……えーと。
 ああ、そういえばこないだそんな映画を一緒に見たっけ。


「じゃあ、これから行くのは天空の城ってわけね?」
「ええそうですね。僕が連れて行って差し上げますよ、お姫様」
「邪魔者が出ないといいのだけれど」
「大丈夫。先に倒しておきましたから」

 うわ、なんだこれ。よりにもよって、機械工の少年と亡国の王女様の冒険映画だなんて。
 まさかのチョイスとテンポよく続く会話に堪えきれずに身を捩れば、ツェッドくんも噴き出した。こんな格好で(しかもあんな戦闘の後で)お互い何を言ってんだろうね。


 そういえば、今日はなんだか霧が濃い。
 額がくっつきそうな距離で笑い合う私たちを見つめる瞳はそう多くないし、ぼんやりと見えるアパートは本当に雲に隠れているようだ。


「とりあえず、部屋に着いたらあの呪文でも唱えてみる?」
「……さすがに、それはやめておきましょう。この街は、天空以上にままなりませんから」



(2015.06.09)(タイトル:亡霊)
(某ジブ◯のあのシーンみたいにそっと腕の中に降ろそうと思ったのに、我慢できなくなって手を伸ばしてしまうツェッドくん)
(更新日"9"は"θ(シータ)"でアニメのツェッドくん登場回の話数でもあるとかそういう自己満足の詰め合わせですバルス!)
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