| ■ き(気付かないふりで) 飲み干したジョッキを頬に当てて「きもちいいー」と一言。 うっとりと笑ったなまえさんの顔は薄暗い店内でもわかる程に緩んでいて、やわらかそうなその頬はうっすら赤に染まっている。 年頃の女性と、食事に出かけ、立ち寄った二軒目で、わかりやすい微酔いのサイン。 キーだけ挙げれば今どき三文小説でも見かけないような定番過ぎるシチュエーションだと言えるだろう。 けれど、そこで彼女が相変わらずの勢いで次の一杯を注文するから事実は小説より奇となるのだ。ついでに言えば、「彼女に限ってはこの微酔いモードになってからが本番だ」と知っているのが僕だけではない証拠に、オーダーを受けて用意されたにしてはいささか早過ぎるタイミングでお馴染みの一杯がお馴染みの店員の手によりテーブルに届けられるくらいだから……戯曲の世界から飛び出して来たような光景を前に僕は一段と楽しくなって、緩む顔のままグラスに口をつけた。 「あ、それ待って」 片付けようとする店員に声をかけ、一体どうするのかと思えば。 グラスから尖った一欠片をつまみ上げたなまえさんは、氷の冷たさと鋭さを楽しむようにそっと唇を寄せていた。赤く艶やかな口唇が、水気によってさらにぬらりと輝いて見える。彼女の指と唇の熱により、みるみる融点を迎えた表面が形をなくし静かに流れ落ちていくだろう様を肉眼で捉えきる前に、ひょいと開いた口元が氷を吸い込んだ。しばらく舌で弄ばれたであろう冷たい塊は、数秒後には見事なまでに粉砕されこくりと動く喉の奥を落ちていく。 決して褒められた動作ではないが、わざわざ咎める程の不作法というわけでもない。むしろ咎められるべきは、そんななまえさんを見てなんだか無性に恥ずかしくなってしまった自分自身の方で……アルコールのためだけではない熱を自覚した僕は、生じてしまったよからぬ衝動がこれ以上の輪郭を持つ前に、そして彼女がそんな僕自身に気が付かないように、慌てて口を動かした。 「何か、つまめるものも頼みますか?」 「……ああ、別に口寂しいってわけじゃないから大丈夫。ありがとう」 さすがにあれだけ食べた後だしね。やけに晴れ晴れしい表情が指しているのは一軒目のことに違いない。けれど浮かんだ記憶に沿って「けれどそれでも有ったら食べてしまうのが貴女でしょう」と無遠慮な言葉を口にしかけて、さすがに失礼だろうと飲み込んだ。 「氷はほら、美味しいっていうより"気持ちいい"から」 「はぁ」 「冷たくってつるつるしてて、触れる端からすーっと溶けて水になるところもいいし、甘かったり辛かったり変な主張がないのもいいよね」 うっとりと呟きながらグラスに手を伸ばす姿はどう見たところで食いしん坊のそれなのだが、それも言わないことにする。 「溶けるところがいいって貴女。楽しむどころか盛大に噛み砕いて台無しにしていませんでしたか」 「あの硬くひんやりした歯応えも魅力なんだよー」 ──実に、たわいもないやりとりだ。 けれど彼女がこのふわふわとした終着点の定まらないやりとりを楽しんでいるのは明白だったし、それは僕自身にしても同じだったから、何も問題はない。 密度を必要とする話題なら、食事の時にたっぷり楽しんだ。尤も、絵画・舞台・書物・音楽・そして経済に"世界"のこと、どれもまだまだ語り合いたいし、きっとどれだけ語り明かしたところで話題が尽きることはないのだろうけど、こんな風に名残惜しさに引っ張られて帰宅を伸ばした夜にまで持ち込むことはないだろう。 何より、こうして幾多の時間を共にしながらも、本当に二人が共有する情報や話題というものはおいそれと言葉にすることが出来ない類のものだったから──口にしかけた言葉を飲み込むしかなく、もどかしく思うことも無いわけではない。 「"ナマエ"と食事? まあ、いいんじゃないか。なぁに、幾ら彼女相手だからって恐れることはない。さすがに問答無用で取って喰われることはないだろうから安心したまえ。……ああ、そうだ。余裕があればなまえの言動に気を付けてみればいい。と言っても、ナイフとフォークに関して彼女から学べるところはないから、せめてもの大ヒントだ。いいかいツェッド、"会話を楽しめ"」 いつだったかの上司の言葉が脳裏に蘇る。そして今なら、彼の言葉の意味がわかる。 勤め先に対しての愚痴は零しても、彼女が"本当に"所属する組織については一言も口にしない。ライブラという名称自体は勿論、構成員の情報や直近の事件など、知らない者にはわからないような言葉の一片ですらも零さない。どれだけ酔っているようでも、どれだけ会話が盛り上がっても、絶妙なバランス感覚でもって彼女は一線を踏み越えることなく笑うのだ。 自分が何者で、自分が立っている場所がどこで、背負っているものが何なのかを理解しているが故の行動と、それらを理解した上で当たり前のように行い続ける誇り高さ。その自覚自体は彼女に限ったものではないけれど、それでもこうして共に過ごす時間の中で目の当たりにすれば尊敬せずにはいられない。 「そう言えば、さっきの氷ってツェッドくんの爪みたいだったかも。うわ、あんなに直ぐ噛まずに置いとけばよかったなぁー」 その話まだ続いていたんですか、なんて言う間も無く。振られた内容に付いて行けず、慌てて咳き込む羽目になった。 「ななな、何言ってるんですか突然!」 「だってほら、キュって先が尖って、つやつやしてて硬そうな辺りそれっぽくない? ああでも、ツェッドくんの爪はもっと甘そうだからキャンディって感じかな。でもキャンディって言い切るにはもうちょっと……あ、"こはく"! そうだよ"こはく"って知ってる? ……オーケイ。ジャパニーズスイーツに"こはく"っていうキャンディがあってね、主張しすぎない透明感と甘さが格別でとにかく綺麗で、キャンディって一括りにするのが勿体無いようなお菓子なんだけど、ああいうスイーツは職人が作るらしくてこの辺のジャパニーズキッチンでもそうそう置いてないんだよね。……よし決めた、今度手に入ったら真っ先にツェッドくんのところに持って行くね!」 ……赤くなった自分が馬鹿みたいだと呟くしかない程の、他意の無さだった。 それでも彼女の口から飛び出した聞いたことのないキャンディは気になったし、キラキラと瞳を輝かす彼女は微笑ましい。何より、そんな風に"僕に似ている"なんて言って嬉しそうにされたら、色々な意味で意識しないでいられるわけがない。 「ありがとうございます。楽しみにしています」 彼女ほど豊かな表情も語彙も持たない僕は、"社交辞令"と捉えかねられない言葉をいかに"それらしく"伝えられるだろうかと気にしながら口にする。 いや、白状しよう。此の期に及んで、僕は恐れていたのだ。なまえさんにとってはただの思い付きだろうその言葉を、"約束"として心に刻み過度な期待をしてしまうだろう自分を。そして、それによってきっと深くはない傷を負ってしまうだろう未来の自分を。だからこそ"たあいのない"ふりをして、社交辞令として受け取られたとしても言い訳が立つように意図しながら、狡く慎重に言葉を紡ぐのだけれど……そんな身勝手に作り上げた防壁など彼女に通じる筈もないことを、僕はもっと早く思い出すべきだった。 「ツェッドくんの爪の方が、美味しそうだけどね?」 僕の葛藤などささやかなものだと笑って吹き飛ばすような爆弾発言に、慌てて真意を図ろうとするものの……悪戯めいた視線はそれっきりなんの真実も告げてはくれない。上手いこと言ったでしょうと自画自賛する彼女が煽るグラスの中では、先ほどとは違う丸く大きな氷がカチンと音を立てる。なんとなく、なまえさんからはもうこの話題には触れてくれない気がした。 つまり──彼女の真意を確かめたいと望むなら、そこから先は僕次第ということで。 (2015.07.18) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |