■ 次に君と生まれ変わるなら君を愛する僕ではなく貴方を傷付けない俺になりたい

 ……ああ、失敗した。

 コマ送りのようにゆっくりと動く景色に心を揺らすこともなく、ただただ「失敗した」という感想を抱いていた。目の前に茶色い地面が近づくなあと思ってから少しの時間をおいて、脳が揺れるとしか表現できない激しい衝撃がやってきて私の思考のすべてを吹っ飛ばしたのだ。
 けれど地獄はそれからだった。さらにそこから随分遅れて、身体中を鈍い痛みが駆け巡り始める。

「……なまえ ! ……なまえ 、しっかり!」

 じんじんがんがん、身体中の血管が悲鳴をあげているのがわかった。というか、むしろそれしかわからない。全身が心臓になったようにも、全身が脳味噌になったようにも思えるほど、それ以外の場所については考える余裕がない。
 どこが、とかじゃない。とにかく痛い。痛くて怖くて、ただそれだけで、だからこそ堪らない。
 漏れ出るままに声をあげようにも、そもそも声が出ているのかすら自分ではもうわからない。思うように息が出来ないのはどうしてだろう。何が起こったのかもわからず、ここがどこかすら忘れて、ただただ痛みと「どうして」という想いばかりが私を占めていた。

 けれど。
 いつの間にか滲んでいた視界に写っていた赤いものが、血にまみれた自分の手だと気がついた瞬間にわかってしまった。

「ああ、こりゃ、ダメだわ」

 声に出したつもりの言葉は、どこまで喉を通れただろうか。
 相変わらず痛くて怖くて、でも思考だけは急速に冷めていく。ぐじゃぐじゃになった視界の向こうに見えていた白がローブだったのだと気付く余裕も生まれてくる。どの僧侶さんかは知らないけど……ごめんね。もう、いいよ。いつもの怪我と違うってことくらい、さすがにわかるから。きっとこれは、治癒の祈りじゃ間に合わない。
 あーあ……こんなところで死ぬつもりは、なかったんだけどな。ああ、それにしても、本当に痛い。冷静になってもやっぱり、痛いものは痛い。……嫌だなあ、このまま、ずっと痛いままで、でも頭だけ冷静なまま、死んじゃうんだろうか。

 きっとひどい顔と身体をしているだろう自分の外側と、こうしてそんなことを考える余裕のある自分の内側。
 どういうことかはわからないけど、きっとこれは耐え切れない痛みと死の恐怖を克服するための、最後の最期の火事場の馬鹿力なのだろう。つまるところ悪足掻き的な、ただの現実逃避に違いない。


「……なまえ ……」

 夢と現が混じったような不安定な感覚の中で、その声だけがやけにはっきりと耳に届いた。
 瞬間、ふわりと身体と心をなにか柔らかくて暖かなもので包まれたような感覚が私の意識を駆け巡る。もちろん、実際にはそんな筈はないのに。けれど、あれほど絶え間なく絡みついていた痛みも、恐怖も、混乱も、悲しみも、全てがふっとなくなって、心が軽くなった気が確かにするのだ。
 声に導かれるように、相変わらず滲んだ世界に意識を戻せば……歪んで見える視界の中で、二つの赤い色がきらりと輝いていた。

「なまえ、俺の声を聞いて……。大丈夫だから。もう、痛くないだろう。ほら、落ち着いて。大丈夫。怖いことは、もう何もない」

 心臓の鼓動より、血管の悲鳴より、絶え絶えの呼吸音より、澄んだその声がまっすぐに私の脳を揺さぶる。聞きなれた静かでやさしい声が誰のものかだなんて、わざわざ確認するまでもない。

「……アイ……ザッ……ク…………」
「ああ、そうだ。なまえ ……ほら、俺の声に集中してくれ。大丈夫。……大丈夫だから……お前は、今から少し眠りたくなる」
「……ね…む…?……」
「ああ。ああ、眠るだけだ。ほら、いい子だ……もう、何も怖くないから。静かに息を吐いて、ゆっくりと休めばいい」

 ああそうか、これがアイザックの精神魔法なのか。
 もはや痛みも苦しみも感じない代わりに、肉体の感覚だけでなく死の恐怖までさっぱりと失せてしまった頭で考える。いや、この状態だと考えているのは頭じゃなくて心か。まあ、もうどっちでもいいけれど。
 アイザックの仕事風景を見るのは初めてじゃないけれど、まさか私がお世話になるなんて……ね。ああ、失敗したなあ。アイザックに、こんな役目を押し付けるつもりはなかったのに。

 ……日々、名も知らぬ兵士を送る度に、アイザックの瞳が揺れていたことを私だって知っていたのに。時に蔑みや怒りと共に呼ばれる"死神"という二つ名は、けれども別の意味でとても彼にぴったりな名だと、実はこっそりと思っていた。
 友人でも、いや、それどころか知り合いですらないのに、彼はとても真摯に死に行く者に向き合いその死に寄り添うのだ。死に行くしか道が残されていない者を守り、慈しみ、送り出してくれる。痛みも憂いも取り払って、穏やかに逝くことを叶えてくれる。そして死者を見送る度に、人知れず自分も傷ついていて……けれど、その傷すらも……一人で抱えてしまう人。
 こんなに優しくてこんなに悲しい人を、私はほかに知らなかった。

 だから、アイザックの前でだけは、死にたくなかったのに。いや、本当は、そもそも死ぬ気なんてなかった。私だけは何があっても生きて帰って、あなたの横で呑気に笑っていようと決めていたのに。

 ああ、ごめん。
 結局、私があなたを苦しめることになってしまった。
 あなたに一番伝えたかった言葉は、最後まで言えなかったけれど……それでも。
 私はあなたの中で、少しは"特別"になれていただろうか。
 いや、今だけ、"特別"だったと自惚れることを許してもらえるだろうか。

 あなたの周りの穏やかで暖かなものの一つに、あなたに"友人"と呼んでもらえる存在に、含めてもらえていたのだとしたら……だとしたら、ごめん。"友人"としての私の最期は、優しいあなたをまた苦しめてしまうよね。ああ、ごめんなさい。
 こんなことになるのなら、あなたの前になど現れず、ただそっと遠くから焦がれていればよかったな。
 看取る相手が"名前も知らない弓使いの娘"だったとしても、あなたは苦しんでしまっただろうけど、それでも幾分かはましだったに違いないから。

 ああ、本当に。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……それでも私は、こうしてあなたに看取られることを、どこか嬉しくも思ってしまっているのです。

 だって、最期の瞬間を、あなたの腕の中で迎えられる。
 痛くて悲しくて怖くて辛かった思いもすっかり消してもらって、安らかに逝くことができる。私の目ではもう見えないけれど、でもきっと、あなたはいつものように優しい瞳で私を見ていてくれるのでしょう?
 優しい優しい、悲しいくらいに優しすぎる死神の瞳で、私を見つめてくれるのでしょう?
 まるで恋人に対するような真摯さで、死に向かう私に寄り添ってくれるのでしょう?

「アイザック、好きよ」

 ごめんなさい。そして、ありがとう。
 きっともう唇は動かないだろうと思いながら、それでも言わずにはいられなかった。


  ***


 アイザックは、まだ暖かいなまえの頬へとそっと指を滑らせる。
 グローブは膝を着く前に外していた。けれども、こうして戦場には不釣り合いな白い指で肌を撫でても、眠ってしまったなまえに起きる様子はみられない。

 そう。安らかな表情で横たわる彼女が再び目を開ける日は、もう来ない。

 彼女の提案にわざと困ったふりをしてみせて、その反応を眺めることをささやかな楽しみとしていた日々も。彼女の他愛のないおしゃべりを聞き流すふりをしながら、実はころころと変わる表情に目を奪われていた日々も。

 一度顔を伏せてしまえば、目深に被られた帽子のため誰もアイザックの表情を伺うことはできない。唯一の例外に成り得るのはその下で横になるなまえくらいなものなのだが、残念ながら彼女がそれを目にする瞬間は金輪際、訪れない。

 やがて立ち上がったアイザックは、誰がどう見てもいつものアイザックだった。
 犠牲は少なかったとはいえ、彼女一人で済んだわけでもないのだ。現に今も、別の部隊からもアイザックを呼ぶ声が聞こえてくる。

 散りゆく命にせめて安らかな最期を。そしてその後は、死者を運び、棺を用意し、手向けの花を用意するため指示を飛ばさなくてはならない。

 けれどもう一度だけ、足を止めて振り返った。苦痛からも恐怖からも解き放たれた彼女が、混濁する意識の中で呟いていた言葉。それはもちろんどれも絶え絶えで、とても聞き取れるようなものではなかったのだけれど……それでも。

「……知っていたさ」

 誰にも顧みられない場所で、静かにふたりの時間が離れていく。



(2014.11.09)(タイトル:ロストブルー )
(Q.タイトルの一人称は一体どちらのものでしょうか)
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