| ■ 10月某日 すっかり行き付けとなったバッティングセンターでひと運動して、さあ帰りましょうかというところで「乗って行きなよ」とお誘いをいただいた。ありがたく甘えてみたわたしを乗せて、安藤さんの運転する車がすーっと夜の街を走っていく。 けれど言うまでもなく、誘ってくれたのは安藤さんではなくて今わたしの隣に座っている優山くんだ。開けたばかりのチョコレートを次々と片付けているこの優山くんこそが車の主であり、それはつまり優山くんが運転手付きの車をお持ちのお坊っちゃま様だという事実の再確認に繋がる……のだけれど、まあ、そんなことは今はどうだっていい。 「はぁー快適、安藤さんって本当に運転お上手ですよねー」 「おや嬉しいですねー。これでも仕事ですからってのもありますが、運転にはちょいとばかり自信がありましてね。もっとも、得意なのは車だけじゃありませんが」 「……というと他にも?」 「はっはぁ朝まで遊んでくれたら教えてさしあげますよ」 「あー……それはつまりアッチの方の運転が、という意味の」 「そうそう、ソッチの方の運転が、ということで」 一秒二秒と沈黙が続き、耐えきれなくなってふたり同時に噴き出せば、優山くんが盛大に溜息を吐いてこの愚かなやり取りを押し流しにかかった。 「ちょっと安藤さん、いつもならそんなこと言わないじゃないですか。なまえさんも付き合わなくていいですから」 「ありゃーなまえさんのせいで怒られちゃいましたよ」 「怒られちゃいましたねー」 再度ふたり同時に噴き出す。今度こそ優山くんが哀れみの表情を浮かべた。ただし、視線の行き先はなぜか彼の運転手ではなくわたしである。 「オレが言うのも何ですけど……安藤さんとはなしが合うって色々まずいですよ……」 「そういや優山さん、本当になまえさんは平気なんですね」 不名誉な扱いをされているにもかかわらず、安藤さんはこれっぽっちも気にする様子もなく話を変えてきた。強い。ちなみに、引き合いに出されている身としては本題の見えない遣り取りに困惑するしかない。 そんなわたしに微笑みかけながら「だってなまえさんはさ」と唇を動かす優山くんはそれはそれは優雅なもので、一緒に歩くたびに視線が集まるのも納得だなぁ……と色々思い返してしまう。そして同時に、ああその話かと合点がいった。これもまた、一緒に歩くようになり知った彼の性質についてである。 「だってなまえさんはさ、なまえさんだし。怖くないし、大体何考えてるかってのも分かりやすいし」 「うっわー盛大に軽んじられてる気がするぞ」 「いやだなぁ、馬鹿にしてじゃないですよ」 「うっわーどの口が言うかね。あーあ、そんなに安心されるとさすがに心外だなぁ、おねーさんだって所詮はただの俗物だよー」 その気になれば入れ食い間違いなしのこの少年は、どうも"女"に対して酷く身構えるところがある。老いも若きも関係なく対女に発動されるバリアは、けれど潔癖故かと言えばそういうわけでもないらしく……頭の中身は健全な男子大学生のソレだというのだから興味深い。まあ、安藤さん曰く"意識しすぎの純情ボーイ"ということらしいけど。 しかしそんな優山くんは何故かわたし相手にはそういった素振りを見せてくれない。今だってそうだ。「決めどころではしっかり爪を出して肉食獣化しちゃうんだから」と脅かしてみても、視線を逸らせないばかりか笑みを深くするのだから。 不思議なものだと思う。お馬鹿さんではない優山くんのことだから、分かっている筈なのに。 わたしは着飾る事も媚びる事も知っているし、打算だってある。つまらないことで悩むし、うじうじいじけもするし、そんな自分を哀れみながら可愛がる狡さも持っている。わたしだって、彼が苦手としているだろう"女らしさ"をきっと全部持っている。そんなこと優山くんだって知っている筈なのに。 「でもオレには"しない"でしょ」 「そりゃそうだよ。おねーさん、これでも決め所は間違えないってのがウリだから」 「バッティングは下手なのに」 「あれは振るのが気持ちいいからいいの」 「ホームランはもっと気持ちいいですよ、きっと」 「やってればそのうち当たるようになるって言ってもらえたもん」 そういう自分こそバッティングセンターまで行ってバッティングせず帰るくせに。 最後まで口にする前に、チョコレートが押し込まれた。とっさに引いた舌先に、溶け出した甘い香りと風味が絡みつく。そう、すごく、甘い。そんでもってさすがに美味しい。というか、この一粒の完成度高すぎじゃないですか。どこのブランドですかこれ。え、そっちはプラリネって……うわあ、こんな匠の技の結晶をきみはそんなほいほい食べ続けていたとか、いったいどんな贅沢……いや、でも、これを普通に「美味しいよね」で片付けてしまえる精神構造ってどうなってるの。わたしが一粒の衝撃に身を震わせているうちに二つも三つも食べてますけど、感動の方は間に合っているのかい大丈夫かい。処理能力が高いのか思考速度が速いのか……なんてことはまあいいけど、それにしたってなんて口どけのよさだろう。確かに続けて何個も食べたいけれど、一粒をずっと味わいたい気もする。教えてもらったお店の名前を忘れないようにしないと。だってこれ、本当に美味しい。あの人への手土産にしたらきっと喜んで貰えるだろう。 なとどあれこれ思いながら餌付けされていると、優山くんがはいあーんと次の一粒をつまんで寄越した。もちろん拒む理由はない。 「なまえさんはさぁ、本当にのびのび食べますよね」 「それがおねーさんに向かって言う事かね」 「やだなぁ、褒めてるのに」 そう言ってわたしの顔を覗き込んでくる優山くんは、咀嚼の瞬間だけは表情が消えるタイプである。具体的には、前後にどんなに嬉しそうに表情を緩めていたとしても食べるその瞬間だけは真顔になる。仕事柄お偉いおじさんが黙々と食べる姿なら見慣れているけれど、大学生という若い子が相手では印象も違ってくる。初めの頃は少しだけびっくりしたし、気に入らなかったかしらと不安を覚えた。けれど何度かご一緒して彼にとっては"そういうもの"なのだと気付いてしまえば、それきり気にならなくなった。当人である優山くんが美味しいと言うならそれが答えでいいのだ。 ああ、そうか。結局は全部"そういうこと"なのかもしれない。 ひとたび受け入れてしまえば"問題"ってものは意外と"難問"ではなかったりするのだから。 ──例えば"わたしたち"のように。飛び出す前は怖くても、いざ手を伸ばして掴んでしまえばさして難問ではなかったりするのだから。どうしようと不安ながらも受け取った指輪も、嵌めてしまえば意外なほどに馴染むかもしれないのだから。 優山くんにとってわたしという"女"も"そういうもの"の一つかもしれないなぁと、そんなことを思いながら薬指の指輪をそっと撫でる。もしも優山くんが"よく知らない相手"から向けられる好意に警戒しているとすれば、彼が惹かれた相手からの視線ならばまた違った風に捉えるのかもしれない。それに、わたしがこの子を見る目がどういうものかわかっているから怖くないと言うこの子なら、多分、ちゃんと、その時が来れば相手と向き合えるだろう。 だから──いつか、きみにも見つかるといいね。口に出すには随分と偉そうなことを胸の内に沈めながら、新しく放り込まれた一粒を舌先で撫でる。たとえ政略や許嫁という家で結ばれた縁でも、幸せそうにしている人ならたくさん見てきた。今こうしてそんな風に笑うきみなら、きっといつかの先にいる誰かにも笑いかけることができるだろう。 (2016.11.08) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |