■ いつか萎れる花だとしても

 お泊り用だと化粧品の小さなボトルを取り出して洗面台へと消えたなまえを想い、笹塚は小さな溜息を吐く。
 何度ここに来ても、彼女は変わらない。

 さすがに食器やタオルは笹塚の用意したものを使うが、寝間着や着替え、化粧品などをなまえは泊まりに来るたびに持参し、そして持ち帰る。勿論、笹塚がそうしろと言ったことなどない。むしろ置いて帰ったらいいのにと勧めたくらいだ。けれども、なまえはありがとうと言葉を返しこそすれ実行に移すことは無かった。

「なぁ、なまえちゃん」
「んー……なあに?」
「着替えとかさ、置いていかないのって……ひょっとして俺の事、信用してないから?」

 いつ終わってもいいように、という保険か。それとも、遊びだと思われているからか。思いつく理由は、もうこれくらいだ。けれど、これで肯定されたらそれはそれで結構へこむ自信がある。

「へぇ!? いやいや、そんなとんでもない!」
 ベッドの中微睡みかけていたなまえは、何事かと跳ね起きて否定してくれた。
「そっか……よかった。でも、じゃあなんで?」
「いやいや、そんな大した理由じゃないんですよ。ね、この話は終わり──」
「やっぱり、俺の事を信用してないんだ」
「……」
 じっと見つめる笹塚についに降参だとなまえが目を閉じた。
「笹塚さん、その聞き方は狡いですって。ったく、変なこと気にしないで下さいよ」
 観念したらしいなまえは笑っちゃ嫌ですからねと前置きし、視線を外したまま口を開く。
「笹塚さんじゃなくって……私は、私を信用していないのですよ」
「なにそれ」
「だってほら、きっと、お泊りの用意を置いちゃったら、突然来ても大丈夫かもって気がしちゃいますもん。遅くなったら泊まればいいやって甘えちゃいますもん。それに、一度置きだしたらきっと、私はどんどんものを入れちゃいますもん」
 甘えて、甘えきって、笹塚さんの迷惑も顧みずに巣作りを開始しちゃう自分が想像出来ちゃうから嫌なんですと、顔を伏せたままなまえは話す。

「なんだ、そんなことか」

 あんまりと言えばあんまりな理由を一通り聞いて、さすがに笹塚の気も抜ける。
「そんなことって何ですか。一応これでも、節度とか限度とか考えてて……」
 羞恥で染まった頬のまま、拗ねたふりをする姿が大変に可愛くて笹塚の胸に暖かいものが広がった。生まれた欲求に逆らうことなく、可愛い彼女に腕を伸ばしてぎゅっと胸に閉じ込める。
「ちょっと、笹塚さん、どう考えても今のは、抱きしめるとこじゃ……」
「ねえなまえちゃん、気にせずにさ、どんどん甘えてよ。……そりゃあ俺は、知っての通りの身だし、煙草も止められないし、一緒に居て楽しませられるような性格じゃないし、仕事柄時間に融通は利かないし、休みだってそんなに取れないし、休めたって実際はいつ呼び出されるかもしれないし──ああ、言ってて不安になってくるな。でもさ、なまえちゃんの望みはなるべく叶えたいと思っているから。だから、気にせず巣作りしちゃってよ」

 腕の中の熱を愛おしみながら、ゆっくりと囁く。が、この後に及んでまだなまえの反応は芳しくない。

「……だから、そんな風になった自分は、嫌なんですって」
「いいじゃん。いっぱい泊りに来たら。そんでさ、その内ここに住んじゃえばいいじゃない」
「はい!? ちょ、自分が何言ってるかわかってるんですか!?」
「まあ、さすがに同棲となると、もうちょっと広いとこを探さなきゃだけど」

 ぴくりと動いた身体は、けれども言葉を発することは無かった。

「…………えーと、なまえちゃん?」

 続く沈黙に音を上げた呼びかけに、なまえは身体を剥がすことで応えた。腕の中から一瞬で逃げた温もりに笹塚は唖然とする。

「なまえちゃん?」
「……私は!」

 飛び出た声は、けれどもすぐに働いた自制心により堰き止められる。数秒目を伏せたなまえは深い呼吸とともに、感情を制御することに成功していた。
「ごめんなさい。ちょっと、びっくりしちゃった」
 呟きと共に笹塚に晒された顔は、いつものように微笑みを浮かべている。
「ありがとう。ここに来てもいいって言ってくれるの、すごく嬉しい」
 声にも、いつの間にか甘さが滲んでいる。そこに先ほど垣間見えた激情はもう見えない。

 笹塚にも己が何かまた失敗をしたことはわかった。
 だが、やはり──それが何なのかはわからない。

「ねえ、笹塚さん。いっぱい、一緒に居たいです」

 柔らかい身体が、笹塚の身体に凭れ掛かってくる。
 優しく抱き止めれば、すりすりと甘えてくる頬がくすぐったく感じられた。先ほどのことを、確かめなくてはいけない。そう思っても、笹塚さん、と甘えた声でキスをねだる恋人に応えてしまったが最後もうチャンスは現れない。後はもう、甘い甘い恋人との時間に流されるままだ。
 何か大切なものを取りこぼしてしまったような、言いようのない後味の悪さは、笹塚の胸からいつしか薄れていく。


-深夜-

 すうすうと寝息を立てる男の横で、なまえは小さく息を吐く。

 底なしに強欲で我儘な自身を認識している彼女は、深く反省していた。
 初めから、男の過去など承知の上で、男の悲願も承知の上で、それでもいいと落ちた恋だった。だから、彼に出来て、彼に出来ないこともわかっていた筈だった。

『ここに住んじゃえばいいじゃない』

 なのに一瞬、先の約束を仄めかされたのかと、期待してしまった自身を情けなく思う。その上、その場限りの夢だとしても、好意的に話された同棲という言葉に(もちろん、実現することなどない、ただの戯れだとも理解しているのに)反射的に反発してしまった自分がとても情けない。

 終着点として挙げるなら、(例え戯れだと分かっていても、来ない未来を描く虚しい睦言だったとしても)もっと他の言葉が欲しいと願った心が許せない。彼には、その関係は睦言としても、到底口に出せるようなものではないのだと、充分過ぎる程にわかっていた筈なのに……。

 失った"家族"の復讐に生きる男が求める未来に、新たな"家庭"などきっと、枷にしかならないのだから。



(2014.03.23)
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