■ おいしい時間

 うん、上出来。
 鍋の中でとろんとろんに蕩けた豚肉は実に美味しそうに光り輝いている。これならきっと喜んでもらえるに違いない。
 完成したての角煮を幾らかタッパーに移して、残りは鍋ごと袋に入れてしまう。既に用意していた小鍋と合わせると結構な重さになってしまうけど、まあ一階程度なら運べないことはない。ラーメン屋の出前のように岡持ちがあれば便利なのだろうかと非現実的なことを考えながら玄関を出て、ゆっくりと廊下を進む。向かう先はいつもと同じ、丁度うちの真下にあたる"ご近所さん"のお宅である。

「え、なにこれ! すっげーうまそう!!」
「でしょう。しかもこれ、なんとかかった金額はこれだけ!」
「さっすがなまえ! うわー見てるだけで腹減ってくる!」

 先に帰ってきたのは案の定"ご近所さん"の弟の方だった。
 ガチャガチャと鍵穴を鳴らして「だからさぁ、鍵かけろって言ってるだろ!」と脱力気味に帰宅を告げる彼の名は伊勢夏樹という。私の不用心さを咎めながらもすぐに料理に夢中になる様子は育ち盛りの少年らしくて実にいい。クソ生意気に「なまえ」と呼び捨てられることすら可愛く受け止められるのは、それだけ私が大人になったということだろう。
「先食べるならお味噌汁も仕上げちゃうけど、どうする?」
「あー……にーちゃんは何か言ってた?」
 もう一人の"ご近所さん"である兄の方からは何の連絡もない。単に今日が今日であるということを忘れているだけかも知れないが、大体の場合は便りがないのは良い便りだ。つまり、そこまで遅くはならないだろうということである。
「じゃあ待ってる。あ、でも、なまえは先食べてていいよ」
「住人が待ってるって言うのに家政婦が先に食べてどうすんの。それに明日は昼前からだし、別にいいよ」
 付き合うよと言えば夏樹の顔がぱあっと綻んだ。控えめに言って随分と可愛い。私が現役だった頃にこんな顔で笑うクラスメイトがいたら十中八九大人気だったけれど、残念ながら夏樹は既にヤンキーとして名を馳せてしまっているらしい。確かにちょっと前までは分かりやすく非行に走っていたから、周囲の認識がそうなるのも仕方ないけれど。しかしあれがまたこんな風になるのだから、部活というものは偉大だなぁとしみじみ思う。
「何ひとりで頷いてんの?」
「いやぁ、部活が楽しそうで何よりってねー」
「わぁ! いきなり撫でんなって!」
 逃れようと首を振る夏樹をやり過ごしながら腰を下ろせば、びくりと肩を跳ねさせこちらを向いた。どうしたのと問う瞳にはにやりと口角を上げて答えてあげる。
「せっかくだしね。おねーさんが勉強を見てあげよう」


「にーちゃんおかえり!」
 ガチャリと扉が音を立てた途端、待ちきれないとばかりに声を張り上げた夏樹はもう私の方など見ていない。三目並べの決着が付くことはもうないだろう。落書きで埋まったルーズリーフを片付け、すっかり冷えている料理を温め直すため台所へと戻る。
「おかえりなさい、春樹さん」
「……ああ……そういえば、今日だったか」
 なんということだろう。敢えて連絡しなかったのではなく、まさか本当に忘れていただけだなんて。甲斐がないにも程があるが、それでも一応は雇用主様なので不満不平を言うのは止めておく。
「お腹、あんまりすいてません?」
「……食う」
 夏樹の可愛気とはまた違った可愛気で不意打ちしてくる兄にうっかりときめきかけてしまうけれど、大事に至る前に、今必要なのはこの胸のときめきではなくお疲れ顔の社会人へのいたわりであると思い直す。
 首元を緩め背広をかける春樹さんの横で夏樹と一緒に配膳をすませ、いただきますと両手を合わす空間は思えば奇妙なものである。年単位で交流のなかった兄弟と昔のようにまた一緒にご飯を食べる日が来るなんて、少し前まで思いもしなかった。しかも、今度はうちではなく彼らの家でだ。

 夏樹は旨いとは言ってくれるもののやっぱり育ち盛りなだけあって味も盛り付けもお構いなしで量を欲しがるし、春樹さんはなんだかんだですぐ怒るし、そもそも話題らしい話題もないから会話も弾まないってのに、なぜか私はこの兄弟とご飯を食べる日を結構悪くはない日だと認識している。いや、正直に言えば、悪くないどころか楽しみですらある。ここに来た次の日の晩御飯を寂しく感じるくらいには、気に入っている。

 ……もうちょっと回数を増やしましょうかと言ったら、春樹さんは嫌がるだろうか?



(2017.04.11)(主人公の詳細は追々)(伊勢兄弟の現在の住居は両親の持ち物を相続という捏造設定)
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