■ ゆめゆめお忘れなきよう

 苗字家と伊勢家が親交を深めるに至った一番の理由はやはり真上と真下という居住区域の位置関係にあるのだが、次点は私の兄が結構な馬鹿男子だった説を推したい。毎日毎日あり余る元気さを好き勝手に発散する息子と、そんな兄に付き合って暴れまわる娘に振り回されていた母は隣は勿論のこと階下へ何度も謝りに行った。そしてそこで、年長の息子を持つ伊勢夫妻に大変良くしてもらったらしい。
 だからあの一件以降、つまり伊勢家を襲った悲劇の後は、家でひとりになる夏樹をうちへと招くことも度々だった。ただまあ、そうして食卓を囲むことも……夏樹が中学に上がって少し経つ頃にはなくなっていたのだけれど。

 さて。実のところ、そんな苗字家もいつまでも家族一緒とはいかなかった。
 とはいえ離散の経緯は随分と平和なものである。もともと留守がちだった父はある時正式に単身赴任を言い渡され、そのうち兄は下宿先を見つけて遠方へと進学した。ひとり減り、ふたり減り、そして極めつけとして、最後に残った娘の大学合格を手土産に母は父のところへ行くと決めてしまったのだ。
 かくして、私は年始早々からこの"四人家族で暮らすには少々手狭だがひとりで住むには大きすぎる"家でのひとり暮らしを満喫することになった。賃貸に出す案もあったのだけれど、手続きの手間や引っ越しのあれこれ、更に下宿にかかる費用やその他もろもろを計算・比較した結果こういう形に落ち着いた。確かに「せっかくだから私もひとり暮らしがしたい」と言った覚えはあるけれど、我が親ながらこの思い切りの良さには呆れてしまう。


  ***


 いつもと同じ夕飯時。カレンダーに付いた赤丸を見ないようにしながら、ほんの少しの緊張を胸に私はそうっと切り出した。
「次だけど、木曜は用事が入ったから金曜に来るね」
「おう、わかった!」
 間髪入れずにこれっぽっちも裏のない返事をくれる夏樹はいいとして、問題は眉間にしわを寄せた春樹さんの方である。けれども春樹さんが私の事情を尋ねる前に、まさかの方向から至って普段通りの明るさで超級の爆弾が投下されたのだから堪ったものではない。どこまでも素直な夏樹はどこまでも無邪気だった。
「それって合コンってやつ?」
「いやいやいや、違うよ? ただの学部の飲み会ってやつだよ? ただ初めての面子が多くて何時に終わるのかわからないだけで……」
 嘘ではない。嘘ではないが、気まずい。何が気まずいかって、日々ストレスフルな付き合いの延長で酒を飲んでいるだろう春樹さんの前で、能天気な学生の飲み会事情を開示することが大変に気まずい。人の気も知らないでとか、ガキっぽいとか、そういうことを思われる自信がある。言い切れる。
 けれどもびくびくと震える私の予想に反して春樹さんはあっさりとしたものだった。
「……ふぅん。じゃあまあ楽しんでこいよ」
「へ、それだけ?」
「ああ?」
「いえ、別に何もないならそれでいいんですけど」
 その話はそれっきり。後はいつものよう夏樹の部活のことや明日からの作り置きメニューについてなど他愛のない話題に移っていった。
 だから私はすっかり油断していて、たった一階上がるだけの帰り道を送ると申し出られた時もいつものようにありがとうと受け入れたのだ。

 ソファに座る夏樹とバイバイまたねと手を振り合って、玄関へ向かえば一足早く用意を済ませた春樹さんが待っていてくれた。洗ったばかりの鍋たちを入れた袋を片手に持ちながら、ほらよと空いた方の手を差し出してくれる優しさがこそばゆい。なんだかんだ言いながら絶妙なポイントでこの人は優しいのだ。こういうところはやっぱり"お兄ちゃん"だなと思う。靴を履いて立ち上がった途端にあっさりと離れてしまった手を追うように、そっと一歩踏み出せば生暖かい夜風に身体を撫でられた。不快感に思わず目を閉じたところで、予想外の方向から追い討ちのようにじめりとした声が注ぎ込まれる。
「で? 結構、飲み会とか顔出してるわけ?」
 聞きなれない口調に慌てて目を開ければ、にやりと笑った春樹さんの顔がすぐ近くにあった。馬鹿にされているのだろうか。普段よりきつめに上がった口角に、反射的に意地の悪さを感じてしまい心がざわつく。子供らしく、面白くない胸中をそのまま晒すのは癪だったからあえてぴんと背を伸ばして喧嘩を買うつもりで声を張る。
「ええ。これでも"大学生"ですから」
「……ハッ、ガキもいろいろ大変だねぇー」
 社畜には負けますよ、という言葉は手遅れになってしまうぎりぎりのところで飲み込めた。
 代わりに「持ってくれてありがとうございます」と春樹さんの手から鍋の袋を無理やり受け取って、駆けた先のドアノブを握る。早くひとりにならないと。だってなんだか変な感じで、このままでは言いたくないことまで言ってしまいそうだから。
 けれど、おやすみなさいと閉じかけた扉に捩じ込まれた靴が私の逃亡を許してくれない。くたびれた革靴をじわりじわりと捩じ込みながら、威圧感たっぷりに覗き込んでくる春樹さんが本気で怖い。身の危険を感じるレベルで怖い。慌ててドアを閉める力を緩めたところに素早く身体を滑り込ませて、全身でこじ開けてしまう手際の良さはとても素人とは思えない。
「なまえ」
「は、はい!」
「何かあったら……いや、"何かありそうだ"と思ったらすぐ俺か夏樹に連絡するんだぞ。帰りが遅くなる時も遠慮なく呼びつけろ。駅までなら迎えに行ってやる」
「……え? でも」
「返事」
「……はい」
 何を言われたか今ひとつ理解が追いつかないけれど、それでも何とか頷いてみせると春樹さんの顔が穏やかなものに変わった。オンとオフの切り替えが極端過ぎる。呆然としながらも、飴と鞭という言葉だけは脳裏に浮かぶ。
「それじゃおやすみ、ちゃんとチェーンもかけて寝ろよ」
 音が響かないようにそっと扉を閉じた春樹さんと、それまでの威圧感たっぷりの春樹さんの落差に腰が抜けそうになる。随分慣れたと思っていたけれど、やっぱり本気で来られるとまだまだ怖いものだと改めて気がついてしまった。
 同時に、結局のところあの人が優しいのは母さんたちに頼まれたからだと思い知らされた。この"家政婦ごっこ"に乗ってくれたことも結局は「娘を気にかけてやってね」と頼まれたからなのだろう。


 その夜、少しだけ泣いた。



(2017.04.13)(タイトル:fynch)
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