■ なんてことのない昨日と息継ぎの為の今日

「先ほどは──ええ、かしこまりました。ではその様に──ええ、はい、勿論です。はい、はい──」

 通話終了と同時に貼り付けていた笑顔を消した春樹さんが、ふうーっと深い息を吐いた。
「お疲れさまです。まあ、お茶でもどうぞ」
「……ああ。悪かったな」
 で、なんの話だっけ。仕切り直してくれようとするのは有難いが、今となっては首を振るしか出来ない。どうしたと訝しまれたところで、それこそどうもこうもない。だってただの雑談だったし。わざわざ再開する程の中身もなければ、オチだって用意していなかった。つまり食後のまったりムードの中でなければ成り立たないような話だったのだから、まあ、最初っからその程度のことだというだけで。うん。別段、何を気にするというものでもない。
 けれど、幾らどうでもいいんです大丈夫です気にしないで下さいと笑いかけたところで春樹さんの眉間の皺は深まるばかりだから困ってしまう。こういう時の春樹さんは解りやすい。ご機嫌のゲージが急降下していくのを目の当たりにしながら、背中に生まれた汗が一筋すうっと流れ落ちていくのを不快に思う。
 別に春樹さんの機嫌が悪くなったところで暴力を振るわれるとか暴言を吐かれるとかそういう事態にはならないのだけれど、年上の男性に無言のまま不機嫌オーラを振りまかれるのは正直なところ結構面倒なのだ。だから私はこの時ただ最悪の展開を避けたいという思い以外はほとんど何も考えないまま、愚かしいまでに反射的に、呆れるくらいに雑な問いかけを繰り出していた。

「えーっと、春樹さんこそなんかこう、なんかないんですか。愚痴とか、そういうの」
「はぁ?」
「何でも聞きますよ。他言無用もちゃんとできますよ」
 これでも飲み会では聞き役として評判いいんですから。トンと胸を叩いてみせるものの、向けられた視線は大変冷ややかなものだったからこれまた困ってしまう。焦りに比例して唇の滑りも増していく。
「ほら、春樹さんっていつもそういうこと言わないじゃないですか。ご飯の時も夏樹と私ばっかりだし。何でも聞いてくれるから甘えがちになっちゃうっていうか。そういえば春樹さんのお話ってあんまり聞いたことないなぁって」
 ここで私は口を噤んだ。春樹さんの目元に少しばかりの緩みを見つけられたからだ。薄まった皺、弧を描く口角、そこはかとなく優しげな瞳。唇へと運ばれるマグカップを見守りながら、見慣れた春樹さんがもうそこまで戻ってきていることに安堵する。あとは春樹さんが何か言ってくれたら。そうしたらきっとまた、いつも通りになる。

「そういう時はな。『おはなし聞かせて下さい』って言やいーんだよ。相手をいい気持ちにさせてぺらぺら喋らせるなら基本だろうが」
「な、なるほど! じゃあ早速。『春樹さんのおはなしを聞かせて下さい』」
「言わねぇ」
 こんな出鼻の挫き方があるだろうか。ささやかな非難を込めて睨んだところで、意地悪な口元からふっと笑いが漏れるだけだった。
「ロクでもねぇ話をわざわざ聞いてどうする。つまんねーことばっか気にしてないで、お前はただ自分のことに一生懸命になっとけっての」
「ロクでもないかどうかなんて、そんなの聞いてみないと分からないじゃないですか」
 反射的に言い返したけれど、実のところ言い終える前にもう後悔が押し寄せていた。春樹さんの言葉に返すにはあまりにも質が違いすぎる。だって、ここには気遣いも何もない。子ども扱いしないで欲しいとどんな口が言えるのだろう。こんな言葉しか出てこない私だから、春樹さんも子ども扱いするしかないのだと思い知ってしまう。
「……ごめんなさい」
 けれども。
 みるみる消沈する思考パターンすらも春樹さんにとってはお見通しのことらしい。
 不快感を滲ませるならまだしも、よりいっそう優しくなった眼差しがしんどくて顔を伏せたというのに、追い討ちのように大きな手が頭に乗せられた。頭の形を確かめるような穏やかなリズムで動く手のひらは昔と変わらない。
 これ以上の子ども扱いは御免ですと言いたかったが、それを訴えるのも幼さの表れのようだと思ってしまえば、もう、どうしようもなくなってしまう。
「別に、悪かねぇよ」
 怒っているのとも、呆れているのとも違う。いつもより少し低い声が降り注いだ。
「変な気は回さなくていいから」
「で、も」
「"でも"じゃない。だいたいなぁ、社会も知らねぇガキに向かって愚痴や弱音を吐くなんて、そんな真似出来るかってんだ」
「……その理屈だと、卒業までまともに相手して貰えないってことになりませんか」
 ツンとした痛みを鼻の奥に感じながらも、堪らず口を挟む。すると今度はぐしゃりと髪をかき混ぜられた。
「そういうところがガキだっての」
 ガキガキ連呼されていい気分になることなどまず無いのだけれど、当然ながら春樹さんは承知でやっているに違いない。ここで怒っては本末転倒だし、悲しんでも甲斐がない。何より無邪気を装い振り払うにはこの腕も声も優しすぎた。
 面倒な子どもをあやすのなら、もっと。適当な女性を黙らすなら、もっと。
 手練手管に長けた春樹さんならもっとずっと効率が良くて楽で後腐れのない、いい方法を幾つも知っているだろうに。
 
 慣れない体温を心地いいと感じていることが伝わっていなければいいのに、一体どこまでお見通しなのだろう。真面目に考えると泣きたくなる事態から目を逸らすには現実逃避しかない。そもそも、そもそもだ。事の発端は春樹さんの短気さと面倒臭さにある。そこのところをこの人はどう思っているのだろうか。……まあ、何の自覚も無いんだろうけど。
 かくして。堪らず零した溜息にすら「どうした?」と真剣な眼差しを向けられてますます困ってしまう。余談だが、相変わらず距離感を見失いがちな春樹さんの指は今では私の髪を梳き、毛先を弄ぶにまで至っている。丁度さっきの電話のようにわざとらしい愛想やとって付けたような笑顔でも添えてくれれば"そういうもの"として割り切れるのに。こんな時までしっかり"いつも通り"の調子で優しくしてくれるから、これまた"いつも通り"に甘えてしまいたくなってたちが悪い。
 ……あれ?
 そういえばすっかり当たり前のように感じていたけれど、私と春樹さんは最初っから"こう"ではなかった筈だ。こんな風に優しくしてもらえる距離にあると、甘やかしてもらえる距離にあると、私はいつから認識していた?
 今更と言えばこれ以上なく今更な疑問にはっとなる。ちょっと前までうちに来ていた夏樹ならまだしも、春樹さんとはもうずっと──それこそ、この冬まで殆どと言っていい位に交流らしい交流はなかったのだ。それが今ではこうして、こうなってて。それはつまり──

「ひょっとして。私ばっかり喋ってるのそんなに嫌じゃなかったんですか?」
「バカ。こっちはなぁ、家でくらい仕事から離れたいんだっての」


 ──それはつまり。
 夏樹とのことを差し引いた上でも、私は私のまま春樹さんに結構気に入られているってことではないだろうか。それも割と最初から。



「少しくらい愚痴ろうが弱音吐こうが、春樹さんが格好いいことには変わりないと思うんですけど」

 せめてもの意趣返しはまるで不発に終わったけれど、生意気言うじゃねぇかと笑う春樹さんが楽しそうだったから。だからとりあえず、今日のところはガキでも何でも"善し"としよう。



(2017.07.09)(タイトル:インスタントカフェ)
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