■ 下

 暖かな光の下で、さらさらと水の音がする。
 心地よくて、懐かしい。昨年の秋休みで訪れた温泉地での、あの宿での時間が蘇る。数日間ずっと二人っきりで、朝も夜もずっと一緒にいられたあの夢のような日々が──

 疼きかけた感傷は、けれども続いて聞こえたドアの音に押し流された。
 幸いにも寝起きはいい方だから覚醒してしまえばなんてことはない。あれは夢でしかないことも、この場所がいつもの満善さんの家であることも、ついでにどうして此処に居るのかも一瞬で理解できてしまえるくらいには記憶もはっきりしている。
 あーあ、迷惑かけちゃったなぁ。
 気まずさに磨り潰されそうな心を踏ん張って、えいやと身体を起こす。うん。寝違えてないし、メイクも落としているし、タクシー代も持っているはずだ。
「まあ、ちょっと胃がしんどいことを除けば特に問題は無い筈で……?」
 誰に聞かせるでもない自嘲を零しながら見上げた時計に呼吸が止まる。え、なんですかこの時間は。
 反射的に会社と遅刻という単語が浮かぶ。悲鳴をあげるギリギリでそうだしばらく休みなんだったと思い出せた自分を褒めてあげよう。ああ、でも待って。ほっとするのはまだ早くないか。わたしは休みでも、皆には仕事や学校があるんだから。
 あれ、そういえば、その三人の姿も見えない。
 どうしたのだろうと首を傾げるまでも無く、濡れた髪の満善さんがやってきた。なるほど、夢の正体はシャワーの音だったのか。
 さてどうしたものか。すっかり酔いも覚めてしまったし昨夜の勢いにはもう戻れない。今更どんな顔ができるだろうと試行錯誤したところで、ぎこちない笑顔以上のものは出ないだろう。
 悲しいかな醜態を晒すこと自体は初めてではなかったりする。そう、初めてではなかったりする。仮にも独身女性が異性相手にこんな気安くていいのか。駄目だろう。いや、でも、まあ、この三人は特別なんだよなぁ。今だって、現在進行形で醜態を晒しているというのに注がれるのは軽蔑の眼差しとは程遠いぬくもりで、その心地よさを良しとしてしまう自分の駄目さには呆れるしかない。だが、しかし、最優先事項はそこじゃない。諦めにも似た安堵のことは後でちゃんと反省するとして、今この場で彼に対してやれることをやろうと背筋を正して前を向く。ぱちぱちと瞬きを繰り返す満善さんを見つめながら、両手を地につけ背を倒す。
 おはようございます。そして、ごめんなさい。

「んあ? ああ、おはよ。すみませんね。まだしばらくは寝てるだろうって思ったんだけど、やっぱり煩かったなぁ」
「いやいやわたしこそ、こんな時間まで寝ててごめん。もしかしなくても優山くんたちはもう出ちゃった?」
「あいつ、今日は朝一だそうでね」

 なんてこった。土下座してる場合じゃなかった。
 すぐに出るねと慌てて立ち上がった途端にふらりと足がもつれた。ソファにへたりこんだままぐるりと回った視界に訳が分からずキョトンとする間抜け面を覗き込んだ満善さんは、驚いた様子もなくふふっと笑う。

「なまえさんろくに休んでなかったんだって? もうちょっと寝ていきなよ。鍵置いとくからさ。あ、腹減ったならその辺の物適当に食べてくれていいし」
「いやさすがにそこまで甘えるわけには」
「いいよいいよ。どうせそのつもりだったから」
「うー……ありがとう。じゃあ、この分も今度埋め合わせする」

 どの道この調子ではてきぱき支度を進める満善さんには付いていけそうにない。どうせ昨夜だって散々甘えてしまった身なのだ。正直なところ家まで辿り着ける自信もなかったし、此処はお言葉に甘えさせてもらおうと降伏すれば「それでいいさ」と満足気な声が許しをくれる。
「でもさ。満善くんもあんまり寝てないでしょ」
「オレはほら、まだ若いからこれくらい何とでも」
 年上のわたしへの当てつけか。冗談めかして睨みつけてやろうかと思ったけれど、見下ろしてくる彼があんまりにも柔らかく微笑むから何も言えなくなってしまった。満善さんの目は不思議だ。切れ長で目力たっぷりで威圧感すら感じるのだけれど、こうやって細められると驚くほど優しい色を見せるから──反則だなぁといつも思う。
 尤も、もっぱらサングラスの奥に隠されているから、そんな"いつも"は滅多にない"いつも"なのだけれど。

「じゃあ、出るから」
「いってらっしゃい。気をつけてね」

 後で鍵、持ってくから。
 トントンと聞こえる靴音に負けないように声をかけたつもりが、それきり返事も足音もドアの音も聞こえない。
 不思議に思って耳をすませば、なんだか少し上擦った声で「あのさぁ」と呼ばれた。

「返しに来なくていいからさ」
「へ?」
「だからさ、後で"おかえり"って言ってくれないかな」

 それってずっと寝てていいってことかな。でもさすがに、そこまでずっと寝っぱなしは逆に頭が痛くなってしまいそう。

「どうせ今日も集まるんだから、部屋暖めといてよ」
「え、今夜も?」
「……ああ。眠そうだとは思ってたけど、あの時点でもう寝てたわけだ」

 言われてみれば、そんなことを聞いた気もする。
 確か、あの部屋にひとりで置いとくのは心配だとか、しばらく様子をみようだとか、まるで捨て犬を世話しようとする少年のようだなぁと思った気もする。そしてその時分は確かにもの凄く眠たかった気もする。

「まあそういうことだから、覚えてないなら安藤にでも聞いてくれ。じゃ、いってきます」
「い、いってらっしゃい!」

 バタンと音を立てて、今度こそ満善さんは出て行った。
 へろへろとソファにもたれかかりながら、昨夜からの遣り取りをできる限り反芻する。
 随分甘えてしまったと自覚していたつもりだったけれど、本当はそれ以上に、もっとずっと、かなり甘えてしまっていたわけだ。
「うわ、凄い。失恋でこんなに気遣ってもらえるとか、なんか学生時代に戻った気分」
 取り繕うように茶化してしまうのは、そうでもしないと身が持たないから。ほぼ二ヶ月ぶりに会った友人たちの、なんと優しく温かいことか。雁字搦めに締め付けて、いっそこのまま麻痺させてしまおうと思っていた心がたちまち柔らかくほぐされてしまった。むしろ、気恥ずかしくて堪らない。

「今夜もか。せっかくだし何か用意しとこうかな。さすがに連日ピザってのはよろしくない気がするし」

 満善さんはああ言ってくれたけれど、とりあえず一旦帰って着替えたり色々しなければ。
 どうせなら帰りがけに寄って何が食べたいか聞いてみようか。ここ暫くがむしゃらに過ごしていた分、まともな買い物も二ヶ月ぶりだ。今なら何が美味しいだろう。あれ、そもそも今日はいったい何月何日だっけ。
 あれこれ考え始めるともう止まらない。どんどん楽しみになって、足元がふわふわと落ち着かなくなる。不思議だなぁ、ひとりきりでないというだけでこんなにも今日という日が楽しみになる。


 あれもしたい、これもしたい──こんな気持ちは本当に久しぶりだ。付き合い始めの高揚感にも似た、ゆっくりと距離を詰めていく時の達成感にも似た、得がたい心地よさを抱きしめるように毛布を握りしめる。室内とはいえそろそ寒さを覚え始める時期な筈で。ソファにもかかわらず快適に夜を過ごせたのは、きっとこの毛布のお陰だろう。安藤さんかな、優山くんかな、それとも部屋の主である満善さんだろうか。ふわりと被れば自分の家とは違う香りに包まれる。少しばかりドキドキして胸がいっぱいになる。
 こんなに浮かれるのはいつ以来だろう。あれも、これも。考えるべきことは沢山あるし、やりたいこともまだまだある。ああ、でも今は、この香りと一緒にもう少しだけ眠ろうか。



(2017.07.18)
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