■ Holiday

「恐ろしいかい?」
 椅子の背をぎぃと軋ませて男が嗤う。
「怖れないわけがないでしょう?」

 当然だと返しながらも、私の腕も腰も男からは離れない。ひとつの椅子にふたりの男女。こうしているとまるで恋人たちの逢瀬のようだと思う。けれど、これらはただの不可抗力の賜物だった。足場の見えないこの謎空間で唯一確かなものがこの堕落王フェムトならば、こうして縋り付くのは当たり前の行動だから。

「失敬だなぁ、僕ァはこんなにも紳士なのに」
「畏れるからこそ、覗き込みたくて仕方がないんですよ。怖いから、もっとちゃんと見たくなるし、見て欲しくなる」
 そういうものでしょう?
 無理やりにでも微笑んで見せれば、この虚勢だらけの言葉も少しはましに聞こえるだろうか。
 仮面の下の瞳は今、どんな色をしているのだろう。燃えている?冷めている?──どれだけ近くから覗き込めば、この分厚い仮面の下が窺えるのだろう。

「ははは。けどねぇ君、その理屈でいけば"君が怖くない僕"は君に興味が持てないってことになってしまうね」
「あら……それは困っちゃいますね。なら、貴方はなるべく私を怖がってくださいます?」
「この僕が? けどまあ君は面白いよ、確かに。叡智に遠く思考言動のどこを取ってもとことんまでに愚かなのに、選び取る腕だけは確かだ」
 まさかこのタイミングで褒められるとは思わなくて一瞬呼吸を忘れてしまう。
 途中でかなり失礼なことを言われた気もするけれど、そこはソレ。むしろこの堕落王に"聡明"とでも言われてしまったら……そちらの方がよほど恐ろしい。だからそう、愚かと嗤われるくらいが丁度良いし、慣れっこだったのだけれど──しかし今日のこれは一味違う。
 見つめ合ったままぱちぱちと瞬きを繰り返せば、情けないと肩をすくめられた。
「おいおい。かろうじてと言う程度にでも知性が残っているのならば、自らを貶めるようなその間抜けヅラをさっさとどうにかしたまえ」
「だって褒めたりするから」
「何を馬鹿なことを言うんだね? まるでこの僕が君を褒めなかったことがあるようじゃないか」
 うーむ、虚言癖もここまでくれば大したものだなあ。けれど只人には理解不能でも、このフェムト様がそう仰言るのならそうなのかもしれない。気づかなかっただけでいつも褒められていたに違いない。追求するだけ不毛なことはそれきり置いておいて、仮面で覆われた頬に縋り付くように顔を埋める。冷たいはずの金属は、けれどその下にあるフェムトの体温が馴染みほんのりと温かい。すんすんと鼻先を擦りつけると絹糸のような髪が甘く香る。
「こら。それでは映像が見られないだろう。せっかく628本を年代別に上映しようってのに」
「だからそういうお楽しみはおひとりの時になさって下さいって。ご存知の通り私はただの人間ですので、同時に1本1日に3作あたりが限界ですよ」
「ふむ……別に脳や目をいじってやってもいいのだが……それで"この"君が変質するのは惜しいからなァ」

 物騒なことを言う唇がどこまで本気かなんて考えるだけ無駄なこと。まるで今のこの私に価値を認めているようなことを口にしながら、数秒後には容赦なく切り捨てていても可笑しくはないという、そういう男が堕落王フェムトとでありそういう場所がこの街だから。けれども──

「できれば個人の一生として、自然な範囲でおこなわれる穏やかな変化の過程を見守っていただければと」
「それじゃつまらないじゃないか!」
「いいじゃないですか。これ以上人間離れしたくないんですって」

 ──けれども。不思議なもので、どんな異常事態でも毎日続けば日常になる。何度も綱渡りして何度も終わりを覚悟して何度も後悔しながらそれでも私はこうして堕落王相手に舐めた口をきき、舐めた振る舞いをする程度には図太くなった。
 そんな女をなんだかんだと呼びつけてはダラダラと、それはもうダラダラと、退屈を嫌う彼らしくもなくダラダラと、彼の厭う刺激のない日常以上に非生産的で無駄な時間を過ごそうとする堕落王のことは相変わらず謎だけれど、何度も言うように凡人の極みであるこの自分に天才の考えなど推し量れるわけもない。

 だから今は、首に回した腕にぎゅうっと力を込めてみる。
 ただただ目の前にある全てを手放さないようにするだけで精一杯の私は、ちょっぴり切なくなった胸の内を零す方法を他に知らないから。
 けれどまことに、なんとも残念なことに、堕落王から返されたのは底抜けに明るく腹立たしい哄笑だった。
「雛鳥かね君は。ぬるいなぁ。そんなんじゃあ首の骨一本折れっこないぞ」
「ちょ、私がそんな物騒なことを企んだことがあったかなぁ!? 」
 感傷も体裁もかなぐり捨てて身を起こせば、ますますの大声が頭を揺らす。くはははふはははひぃーはっはっと全身を使って笑い転げている姿は正直、先ほどとは別の意味でかなり怖い。
「愚かだなァ、実に愚かだ」
「そ、それはなにより……?」
「ふはは。わかっているのかね、君は。曲がりなりにも魔術師の末裔で、ライブラの一員で……この私の命や魔力を狙う理由なら幾らでもあるっていうのに、君は。ははは、いやぁ、本当に、この街にあるまじき平和ボケだ!」
 ひぃひぃと足までばたつかせるせいで危うく落っこちそうになる。咄嗟にしがみついたものの、この縋り付く体勢こそが独りよがりの現状を突きつけてくるようで面白くない。
 いつだって、私ばっかりだ。最初っから最後までこの人はいつも自由で、勝手に笑って、勝手に飽きて。振り回されてばかりの私の気持ちもわかってほしいけれど、どうしたって無理なことだともとっくに知っている。でもせめて今くらい、どうしようもなく熱い頬の理由を尋ねてくれたらいいのに。訊いてくれさえしたら……びっくりしたんですとか怒ってるんですとか言えるのに。

「──ッ、そう思うんだったら、こんなに気安く呼び出さないでくださいよ! ああもう、今日は映画見るんですよね! とりあえず600幾らの中から面白そうなの3本選んでってことでいいですかね!?」

 さっさと決めてくれないと帰りますよとやけくそ気味に吼えたところで、ひーひっひっひという引き笑いしか返ってこない。ていうか、さすがに笑いすぎじゃないですか?
 仮面の下に涙が滲んでいると言われても信じてしまえるような笑いっぷりはしばらく続いて、放置されるのにも飽きた私が無力感に苛まれ始めた頃にようやく止まった。

 600以上から選ばれた栄光の1作は始まるなり「同時に1場面しか観られないなんて非効率なこと極まりないな」とモニターごと掻き消されたけれど、不満を唱える前に「そんなことより昼食にしよう」と言われてしまえばそこまでだった。
 自腹では到底味わえないような料理に舌鼓を打って、食後のお茶を楽しんで、堕落王お手製のケーキが焼かれる横で他愛のない話をして、ダラダラとしか表現しようのない一日の締めには似つかわしくない豪華な夕食を味わって……ああ何ということだろう、今日も今日とてダラダラしかしていないのにお腹だけでなく気持ちの方まですっかり満たされてしまって、ますますどんな顔をしていいかわからなくなる。

「さあなまえ、名残惜しいがお別れの時間だ」

 手袋に覆われた白い指が一振りされるとあっという間に世界は日常を取り戻す。尤も、見慣れたアパートと"あの"堕落王をセットで眺められるこの状況はなかなか非日常だけれど。
 大通りの喧騒から離れたこの場所で見上げる顔は、相変わらず分厚い仮面に覆われていて何を考えているのかわからない。
「……え…術式ありました……? なんでこんな気軽にこんな高度の魔術を……うう……カルチャーがショックすぎる……」
「一緒に歩くのは嫌だと言ったのは君だろう。全く、ワガママな小鳥だねぇ」
 いやいや、そりゃそうでしょうよ。週末の賑わいの中を"あの"堕落王とツーショットだなんて悪目立ちしたいですと公言するようなものじゃないの。

「それじゃ、おやすみ。せっかくの夜だ。せいぜい良い夢を見たまえよ」

 どこからともなく取り出したステッキを片手にひらひらと手を振るフェムトに向かっていつものように感謝を告げ、別れ──けれども今夜の私は一味違う。
 踏み出した足の先をくるりとまわして、冷たい空気で肺を満たして、震える二の腕をぎゅっと握って、出来る限りに平静を装って、ここ一番の勇気を胸に声を出す。

「よ、よかったら、お茶でも飲んでいきます?」
「ハハッ やめておこう。言っただろう、僕はなかなかに紳士なのさ!」

 そして、そして、今夜も。
 旋風に伏せた目を再び開いた時にはもう──堕落王フェムトの影はない。

 ほらやっぱり。いつだって、私ばっかりだ。



(2017.12.25)(ひっそりと2017年クリスマス枠)
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