| ■ 歓喜と悲鳴と沈黙と少しの愛情 「あ、ここは違う。考え方は大体合ってるけど、この設問で大事なのはこっちの数字」 「……なんで?」 「んー……ちょっと図を描いてやってみようか」 開きグセも書き込みも殆どない真っさらに近い教科書をめくる手を止めて、少年の字が並ぶノートへと向き直る。さて、本腰を入れますか。 少し前から夏樹はちょっと変わった。今も決して勉強が好きということはないけれど、よほど中間の結果がこたえたようで小テスト対策とかテスト勉強とかそういうことを言い始めた。最低限は勉強も頑張れというのが部の上級生やコーチの方針らしい。こういう指導自体は意外でも何でもないけれど「練習に出たいから赤点を取るわけにはいかない」「補講の時間が勿体無い」とか言う夏樹の姿は正直意外だったしちょっと感動した。そうかそうか、この子ってそんなに部活が好きなのか。GW頃からなんか顔つきが違うなとは思っていたけれど、いやはや。青春のきらめきって感じがいいね。おねーちゃんもサポート張り切っちゃうぞ。 というわけで、ここ何日かは時間を見つけては夏樹の勉強に口を出したり手を出したりしている。さすがに数年前にやった範囲というのはあやふやなところもあるけれど、教科書と前回の試験用紙を見れば、さほど難しいところまでは求められていないのだと予想がつく。 「うわーどうしよ。俺これ問題文が違ったら出来る自信ないんだけど」 「まあパターンだから大丈夫でしょ。それにその先生って途中式でポイントくれるタイプなんでしょ? 最悪、答えが違ってても望みはあるって」 「えー……いっぱい書くのってなんか格好悪いじゃん」 「何言ってんの。ぽんぽーんって解だけ書いて赤点の方が格好悪い」 「うーん、そんなもんかなあ」 こんな調子で数科目。やや付け焼刃ではあるものの、それなりに効果はあると信じたい。何より夏樹がやった気になっているのでいいだろう……と思うのは甘いだろうか。 やがてお疲れ様と労い合って一服しようと二人揃ってリビングに向かい──二人同時に足を止めた。ぐったりとした春樹さんの姿を見てしまえば、世間話も引っ込んでしまう。と言っても、倒れていたとかそういう深刻なアレではない。面倒臭そうにソファに身を投げ、つけっぱなしのテレビを眺める顔に全く覇気が感じられないということだ。この到底"観ている"とは表現できない様子は残念ながらままあることで、どう声をかけたものか困った末に結局今夜も無難な言葉を投げかける。 「面白いんですかそれ」 「わかんねえ」 「……お茶淹れるんで一緒に飲みましょ」 お仕事で何かあったんだろうな。見当がつくからこそ詳しく尋ねることを躊躇してしまう時もあるのだと、私は最近知った。 いつもなら春樹さんの声がかかるまで適当に自分の用事を済ますのだけれど……幸いなことに今は春樹さんにかけてはスペシャリストの夏樹がいる。どうしたらいいかなと傍らを見上げれば、心なしか夏樹の顔色まで悪くなっているような。ねえ、夏樹? 「あ、あのさあなまえ、悪いけど俺お茶はやっぱいいかな。うん、水のほうがすっきりするし。えーっと、まだしたいことあるしもう戻るわ。ありがとな」 言いながら手早くグラスを水道水で満たすとまっすぐ部屋に戻ってしまった。この状態で電気ケトルのスイッチを入れる私は傍目にはマイペースと映るだろう。けれど実際はただ、置き去りにされたという衝撃を噛み締めているだけである。 私が知っているのはあくまでも最近の、こうして三人で過ごすようになってからの春樹さんでしかないんだなってことを実感するのはこんな瞬間だ。おばさんたちが亡くなってからも主に夏樹を通しての交流はあった。でも、夏樹がうちにご飯を食べに来なくなってからの伊勢家がどんな風だったのかを私は知らない。ただ、夏樹がそれなりに荒れていたと聞けば、応対する春樹さんがどんな感じだったのかも推して知るべしと言いますか。尤も、外野にはわからないというのはどこの兄弟も結構そんなもので寂しく感じるだけ無駄なことかもしれないけど。実際うちも妹とそれ以外の女の子では扱いが全然違ったしなあ。 「はい、どうぞ」 「……ん。さんきゅ」 よし今夜はまだ結構いい感じだ。そっと胸をなでおろすには根拠があって、こういう時の春樹さんはとりあえず無言じゃなければ大丈夫。更に言うとご機嫌度により返事も数パターンに分けられる。でも、あんまり言うとゲームの攻略法みたいになるし割愛。 こっちに来いともそろそろ帰れとも言われないままなんとなくソファではなくラグに座ってなんとなくテレビに目をやるけれど、確かにそこまで惹かれない。後ろから刺さる無言のプレッシャーに比べたらスタジオの大笑いなんてどこまでも他人事に過ぎないのだから。あーあ、同じ他人事ならプロレス放送の方がずっとましだ。あれだったら少なくとも、全く構ってもらえない代わりにわあわあと騒ぐ珍しい姿が楽しめる。 「なあなまえちゃん、これ面白いか?」 「うーん、確かにちょっとわかんないですね」 先ほどとは逆のやり取りを終えてしまえば、また沈黙が続く。 「……学校は……どうだ、楽しいか?」 「楽しいですよ。毎日いろんな授業があるし、いいゼミに当たったから毎週すごくやりがいあるし。課題も多いけどとにかく楽しいです」 「……ふうん。そりゃよかった」 振ってきた癖に食いつきもせず掘ることもしない春樹さんにどこか既視感を覚えて、ああこれってまるでドラマによくある"何を話していいかわからない父親"みたいだと気付いて、でもすぐにもっと的確な関係を思い付く。うんと昔はなまえちゃんだった。その後はチビと呼ばれた。更にその後は呼ばれもしなくなった。それが今はどうだろう。数年ぶりに関係が復活して以来どこか遠慮がちで間合いを図るように口にされる"なまえちゃん"にずっと感じていたむず痒さの正体──これってまるで"年に数回も会わない親戚の叔父さん"じゃないか。 ぷはっ。慌てて口を閉じたものの、漏れてしまった笑いは後ろの春樹さんまでしっかり届いてしまった。訝しまれた挙句に変に追及されるくらいなら自分から白状してしまった方がいいと諦めて、思ったままを伝えれば春樹さんはなんとも言い難い微妙な顔で私を見下ろすのだった。 「そりゃ、 「え、そんなつもりじゃないですよ。やだなあ。自虐なんて似合わないこと止めてくださいよ」 「じゃあなんだよ」 むすっとした春樹さんは、けれども先ほどの無気力な春樹さんよりよっぽど接しやすい。 「興味無いのに無理して話題振ってくれなくていいですよってことです」 「……別に無理してはねえよ。だいたいおま…なまえちゃんが退屈そうにしてるからだな」 「ふふっありがとうございます。えーっとね、そうなんです。実は、構って欲しくて堪らなかったんです」 やっぱり春樹さんは優しいなあ。しみじみと言ったならば大きく目を見開かれた。鳩が豆鉄砲を食ったみたいとはこんな感じを言うのだろうか。 「なまえちゃんさぁ、そういうのどこで覚えてくるの」 呆れたって顔をしながら、それでも大きな手で頭を撫でてくれる春樹さんはやっぱり優しい。節くれ立った長い指がくしゃりくしゃりと髪を混ぜるのも、あたたかな手のひらが行き来するのも、気持ちよくって大好きだ。昔から兄や兄の友人たちに可愛がってもらっていたけれど、下がいる人はやっぱり慣れているというか上手いというか安心できるというか、触れ方からまず違う。その手の構われ方をする機会も随分と減った昨今、こんな風に上手く撫でてくれる人は貴重だ。 「お兄ちゃんだからかなぁ、春樹さんの手って気持ちいんですよね」 「撫でられて喜ぶとか犬か」 「それなら猫の方がいいなぁ。ミステリアスな感じがするし」 「それこそなまえちゃんとは真逆だろ」 「えー、そんなこと言っちゃいますー?」 ああ楽しい。 (2018.03.23)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |