■ 頭隠して尻尾を揺らす

「おかえりなさーい」
 がちゃりと音を立てたドアノブに向かって待ってましたと浮かれた声をかければ、幾らか遅れて「ただいま」がひとつ。やがて現れたその人の第一声は、どこまでも私の予想した通りだった。
「あれ、夏樹は?」
「先輩のお家。晩御飯も食べてくるって」
 連絡来てねぇぞと顔をしかめかけた春樹さんは、けれども怒りに任せて携帯を投げることはせず気の毒そうにこちらを向いた。予想は外れたけれどこっちの方が嬉しいからいいや。自分の苛立ちより私への気遣いを優先してくれるなんて優しいなあ好きだなあと言ったら、感動のハードルが低いと呆れられるだろうか。
「悪いな。知ってたら今夜はいいって連絡出来たんだけど」
「そうなるだろうと思って、夏樹には『春樹さんには私から言っとくから』って返したんですよねー」
 これ見よがしに画面をかざせば今度こそ渋面が返される。
「なんで」
「せっかくの機会なので、春樹さんに日々の感謝を示そうかなーと思いまして」
 なおも疑問符を浮かべる春樹さんの背を追いながら、その手がジャケットとネクタイを吊るし終えるのを待ち改めて声を掛ける。両手を広げて、とっておきの笑顔も用意して。さあ、どうぞ。
「……なんだそれ」
「ハグ待ちですよ」
「なんで」
「ハグでストレス解消できるってアレです」
「……メシは……ああ、これを温めたらいいんだな」
 仁王立ちの私の横を素通りした春樹さんは、何も聞かなかったと云わんばかりに準備を始めた。けれど私はくじけない。
「ビールにしますか日本酒にしますか」
「ビールなんてあったか?」
「いやまあ発泡酒なんですけど、そこはムード重視でお願いします」
 少しの沈黙に込められていたのは呆れか落胆か。どちらにせよ、私はまだくじけない。
「……メシの時は飲んでねぇだろうが」
「特別に、現役女子大生がお酌して差し上げますよってことですよ」
「いらねーよ」
 バカじゃねーの。さっさと一人分を盛り付けてキッチンから遠ざかろうとする春樹さんは相変わらず取り付く島もない。それもこれも予想のうちではあるのだけれど、いざガン無視されるとやはりつまらない。少しくらい動揺したっていいじゃないですか。このままでは現役女子大生としての自信が擦り切れそうですよ。いっそさめざめと泣いてやりましょうか。
 けれど、すさんだ気持ちで冷蔵庫に凭れ掛かった私が鬱憤を爆発させるより春樹さんのフォローが飛んでくる方が早かった。
「おい」
「はい? あ、やっぱりお酒要ります?」
「違う……早く来ねーと…先に食っちまうぞ」
 たった一言で見事に復活し、大急ぎで用意を始める私のなんて単純なことだろう。すっかり定位置となった場所にするりと身を納め、さあこれで今すぐいただきますが言えますよと上目遣いを発動させても焦りすぎだと笑われるだけだったけど、まあ、いいや。本当はここでも考えていた。ねえねえ、今日のおかずいい感じじゃないですか、ちょっと味付けを変えてあるんですよって。そんな風に恩着せがましくアピールを重ねるつもりだったけど、先程の言葉だけで気が晴れてしまったから、もう、いいや。いただきます。
「……おい、これ」
「はい?」
「いや、なんでもねーわ」
 どうしよう、何も言っていないのに反応が貰えてしまった。
 期待していなかった分、嬉しくて仕方がない。私ね、そんな気がしてたんです。夏樹が俺これ好き!って言っていたのよりもちょっと辛めで水気が多めの、例えばこんな感じの味付けが春樹さんは好きなんじゃないかなって。どうでしょう、当たってました?
 正面切って美味しいと言われたわけではないけれど、その箸さばきを都合よく解釈することくらいは許してほしい。でもやっぱりちゃんと感想を聞きたいから、今度作った時はしつこいぐらいに尋ねてみよう。
「ねえねえ春樹さん、やっぱりお酌しましょうか」
「いらねーっての」


  ***


「で? 今度は誰に何を吹き込まれたんだ?」
 洗い終わった食器を綺麗に拭いて棚へと片付けている最中のため春樹さんの顔は見えなかったけれど、この声だけでご機嫌斜めだとわかってしまう。
「別に吹き込まれたって言うか。ただ、その、ちょっと……気になっただけですよ」
「なにが」
「……春樹さんに対してちゃんと……金額分できてるかなぁって」
 自慢じゃないが、夏樹に対しての仕事ぶりには自信がある。けれど春樹さんに限ってとなると、いささか心許ないのだ。夏樹を可愛がる私を好ましいとは思ってくれているようだけど、そんな間接的なものでいいのだろうか。そもそも家事はずっと夏樹の担当だったと聞くし、私以前と私以後で春樹さんの仕事量が減ったわけではない。むしろ家計としてはマイナスでしかないし、世話を焼かれているという押し付けがましさを感じているのでは。そもそもお母さんに押し切られるように了承しちゃっただけな気もするし、改めて考えると本当に春樹さんにとってのメリットが浮かばない。その上実際に、春樹さんからは今も何の要求もないのだから……大事なお嬢さんだからって言いたいことも言えないまま、私に気を遣いすぎていらっしゃいませんか。一旦浮かんだ悪い考えはどんどん嫌な方向に向かってしまう。

「だからなんか、こう、ちょっとでも得した気分になって貰えたらなーってのと、我慢しなくていいんですよーってのです」
「それで接待ってか? 随分と単純に思われたモンだなぁ?」

 それは、伏せた睫毛を引っ張って無理矢理こじ開けようとするような酷い声色だった。無防備な私の手を掴み、引き摺り倒して首根っこを抑えて、舐めた真似をするなと恫喝するような、そんな声だった。振り向いた先の春樹さんにはこれまで散々見てきた呆れなんて感情は微塵も見つけられなかった。びりびりと肌を刺されるような低い声に込められていた苛立ちは、気のせいなどではなかった。
 何の前触れも心構えもなくこの状況に置かれたら、きっと足が竦んでいただろう。ずるずるとしゃがみこんでいたかもしれない。けれど今日の私は一味違うのだ。わざわざ、夏樹がいないと承知の上で用意を重ねた私にはそれなりの目的があるのだから。おかげで今だって、小娘の言葉にこれだけの反応を返してくれるだなんて春樹さんはどこまで私を喜ばせてくれるのだろうと喜ぶ余裕があった。にやにやと緩みそうになる口元を必死で押さえながら、短気過ぎませんかと突っ込みたい気持ちも我慢する。

「え、春樹さんって私を見てぎゅっとしたいとか、されたいって思ってません? 」

 あれーおかしいなぁ。私、夏樹が可愛くてぎゅーってしたくなる瞬間が結構あるんですけど、そういうのってないんですか。何の責任もなくでろでろに甘やかしてやりたくなったりしませんか。最近出入りするようになった女子大生が可愛くて仕方ないけど、親から預かっているという大義名分の手前どこまで素直に可愛がっていいのか計り兼ねているんじゃないかと心配したのに。
 瞳いっぱいの剣呑な輝きに気づかない振りで続ければ、春樹さんは最初の感想を誤解に基づく早合点だったと改めたようだった。熱を引き摺らないところも瞬間湯沸かし器っぽいなぁなどと失礼なことを考えながら、何食わぬ顔で春樹さんの様子を窺う。ぱちぱちと瞼を瞬かせてから静かに天を仰いだり、かと思えば深々と溜息を吐いたり。実に素直な反応を返してくれるのも予想通り──などと言ったら私がとんでもない腹黒のようだけれど、実際の所は色仕掛けって誤解させるかなという自覚があっただけで他は全部本心だ。つまり、春樹さんはもっと、私に甘えるべきだと思うのです。

「あー……そうだな、お前はそういう奴だったな」
「えーなんですかその私が悪いみたいな言い方。だって兄さんにもその友達にも歴代彼女さんたちにも可愛いとか癒されるーって言われてた大人気のなまえちゃんですよ。しかもほら、今なら女子大生の肩書き付きですよ? レア度倍増でお得ですよ? なんなら高校の制服も取ってきますよ?」
「今のうちに一度その自信を砕かれといた方がいいと思うぞ。マジで」

 そんなことを言われても困ってしまう。蝶よ花よと持ち上げられてきた末っ子の筋金入りの面倒くささを舐めないでいただきたい。たんなるガキでは年長者の遊びには混ぜてもらえない。こちらを向いてほしいならどうするべきか、構って貰いたいならどうするべきか、幼い頃からあれやこれやと試行錯誤の日々を重ねてきたのだから。そしてその甲斐あってのこの可愛さですよ。有意義に使わないともったいないじゃないですか。
「一応聞いとくけどさあ、あいつに変なことをしてねーだろうな」
「当たり前ですよ。可愛い弟分の性的嗜好が歪まないようにちゃんと適切な距離を保っていますとも」
 私のように可愛くて魅力溢れる近所のおねーさんに夢中になってしまってはせっかくの高校生活が色褪せてしまうこと想像に難くない。構われるのが大好きな私でも、さすがに大事な青春時代を棒に振るような気の毒なことはさせたくないのです。そう胸を張ればはぁーっと重い吐息がまたひとつ。
「あー……そうだな、お前はそういう奴だったな」
「それ、さっきも聞きましたよ」
「何度だって言ってやる」
 ソファに戻った春樹さんは、そのままずるりと倒れ込んだ。面倒くせぇとか俺が甘かったとか何かぶつぶつと聞こえるけれど、私にとって重要なことはそういう言葉たちではない。言ってしまえば、ここまでの遣り取りすらも準備運動である。本当に大切なことは、ここからだ。
「ねえ春樹さん、私って元取れてますか?」
「……まだ言おうってのか」
「そうだ、ハグが要らないならせめてマッサージくらいはさせて下さいよ。肩とか首とか、お疲れでしょう?」
「それくらいなら、まあ……おい、本当にそれで気が済むんだな」
「よしきた。期待しててくださいね」

 教授の言葉が脳裏に蘇る。一旦断らせておいて、その後で本命のお願い事を突きつけるという交渉術。更に加えて、承諾しないと面倒なことになるから仕方がないと言い訳を用意すること。ただでさえ私に甘い春樹さんにもっともっと私の方を向いてもらうためにはきっとこれが有効だと、講義の途中にピンときたのだ。



(2018.04.15)(続く)(タイトル:インスタントカフェ)
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