■ 我儘の形を借りて

 私がソファで春樹さんがラグの上というのはなんだか居心地が悪いけれど、この場合は仕方がない。まるで大きな犬を従えているみたいだなぁと浮かれる心とお尻をソファにしっかりと収めなおして、あぐらをかく春樹さんに向かって手を伸ばす。さて、やりますか。
「失礼しますね」
 ゆるく広げられた白い襟元をさらにもう一段二段とゆるめてからいよいよ肌に指を置く。
 ほんの少し前かがみになってみれば、撫で付けられた髪の毛がぐっと近くなった。すんっと鼻を動かせば、時間を置いた整髪料に汗に脂にとにかくそんな一日を終えた男の人のにおいが胸へと降りてくる。あ、うっすら伸びた髭たちの中に剃り残しを発見。
 こんなにじっと見つめても、春樹さんは気付かない。無防備だなあ。この距離を許されている人ってどれだけいるのかなあ。きゅうんと昂まる鼓動を気取られないように「頭の形が綺麗ですね」と言えば、なんだそれと笑われた。分厚い肩が小刻みに揺れる度に、薄い耳たぶとメガネのフレームも震える。この位置で上機嫌な春樹さんを眺めるなんて相当レアに違いない。そうだ、せっかくのリラックスタイムだしメガネも外してもらおう。
 無意識を装って触れた耳たぶは少しかさついていた。

 お疲れ気味の首筋を数往復したあと、肩をさすり、背中の骨を確かめるようにそうっと動かせば布の下からじんわりとした熱が上がってくる。基本はこれだけ。あとはこれの繰り返し。ゆっくりと、そっと、できるだけ優しく、滑らかに。そうやって動かしていくうちに、当初はこんなに軽い力で意味があるのかと困惑していた春樹さんも静かになっていた。
 素人が下手にいじくるなと散々教育を受けてきた私の"マッサージ"は多分かなり大人しい分類だろう。そっと指を這わすだけのこれでどれほど楽になるのかは実際のところ怪しいものだけれど、ともかく家族には好評だったし、同じように言っていた友達にしてもらった時は気持ちよかったから。だからせめて、ちょっとくらいは、あの時の私の感覚が伝わればいいなぁと、そんなことを考えながら白いシャツに指を滑らせていく。

 ふと、襟の内側が目に留まり、またも胸がきゅうんと小さく軋む。
 今日も一日、お疲れさま──近所の優しいおにいちゃんが恐い不良さんになったのは本当に衝撃だったし人生何があるかわからないと子供ながらに嘆いたけれど、それでも結局あの頃の自分はどこまでも子供だったから、この世に恐いものなんてないって顔で悪さをしていたあの人がこんな風にくたびれたサラリーマンになる日が来るなんて想像すらしていなかった。
 だから、数年ぶりにその近所のおにいさんと対峙した時の驚きといったらない。どれだけ使えばそうなるのかと思うほど履き潰された靴にくたびれたシャツとネクタイ、極め付けにあからさまな愛想笑いで武装した春樹さんを前に……私の胸はどうしようもなくきゅうんと軋んだ。私が想像していた以上に、二人にとって余裕なんてものはもうずっとなかったのだと理解してしまった。
 でも、今は私がいる。大丈夫。この汚れだって当日分だけで終わり。後日までは響かせない。だから、明日の朝になれば大丈夫。春樹さんが身に付けるのは襟も袖もしっかりと綺麗な白いシャツで、ビシッとアイロンの決まった格好いい背中でこの玄関を出て行くのだから。靴だって、さすがに新しくはできないけれど、ちょこちょこと磨けば少しはましに見えるだろう。

 どんな感じですかと確かめてみたいけれど、ど素人が偉そうに気持ちいいですか?と尋ねるのも違う気がするからやめておく。代わりに、言葉以外を求めてそうっと意識を集中する。ふむ、いつになく穏やかな呼吸と言えなくもない気がする。最初に触れた時の強張りももう感じられない。良いとも悪いともまだ言ってくれないけれど、少しは安らいでいてくれているなら……今夜はこれで充分だ。
 自分よりずっと逞しくて太い首を襟の場所まで丁寧になぞって、そこから先はシャツ越しの質感を楽しむように。こんな風にほかほかとあたたかい身体を触っていると私までなんだか気持ちよくなってしまうから不思議だなあ。お父さんよりずっと若くて、同級生たちよりも大人で、お兄ちゃんともちょっと違う男の人の背中。独りでに緩む口元を隠す必要もない体勢で、春樹さんの熱と匂いを堪能する。


 ……いや、やっぱり前言撤回だ。充分と満足してしまうにはまだ足りない。物分かりのいいことを言った舌の根も乾かないうちに、ある欲求が私の身の内で荒れ狂っていた。すなわち、どうせなら表情も確かめたいという欲求が。なんなら、ちゃんと言葉でも確かめたいという欲求が。鳴かぬなら、鳴かせてみようホトトギス。
 さらりさらりと撫でる場所をほかほかの肩甲骨から鎖骨周りへと変えていきながら、そうっと身を乗り出して覗き込む。ああほら、やっぱりだ。ゆるく目を閉じた春樹さんの表情は幾分穏やかで、眉間の皺も消えている。
 ここでやめておけばいいのに、ついつい調子に乗ってやりすぎてしまうのが私という人間だった。せっかく普段と違う角度からの眺めなのだから、ここはもっと大胆に、意外と長い睫毛が落とす影や眼鏡の痕まで観察させてもらうと身を乗り出したところでぱちりと瞼が開かれる。おまけに、なにしてんだと睨む春樹さんの眉間にはすっかりいつもの皺が刻まれていて、全てが台無しになったことを思い知る。

「ひゃっ、なんでわかったんですか」
「……お前なぁ。クソ、やっぱり無自覚かよ」
「なにがですか」
「……あー……まあいいから。とりあえず離れて。ほら、もう終わりでいいから」

 振り向きざま溜息を吐かれ、立ち上がりざまに肩を押された。こうなれば、バランスを崩した私はぱふんとソファに倒れこむしかない。これ以上なくわかりやすく突き放されたわけだけど、嫌がられたにしては春樹さんの声色は妙だった。状況を理解できないままぱちぱちと瞬いている間にも、春樹さんの後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。てのひらと胸のあたりに感じていた温もりの余韻が消えていくのがなんだか寂しい。ここぞとばかりに引っ付いたのが見事に裏目に出てしまった。こんな調子では、ハグまでの道のりはまだまだ遠い。
「どこ行くんですか」
「どこも行かねぇよ」
「でも」
「うるせぇ。なんか飲みてーだけだって」
「あ、私も欲しいです!」
 冷蔵庫の開閉音にも負けないように声をあげれば、やがて返事の代わりにグラスがふたつ音を立てた。


  ***


「ねえねえ、マッサージどうでしたか」
「覚悟してたよりは、悪かなかったな」
「それって下手だって思ってたってことですよね」
 心外だと訴えれば長い指にくしゃりと髪を乱される。
「最終的に褒めてんだからいいじゃねーか」
 あれで褒めているつもりだったとは驚きだ。どうせならもっと分かりやすい言葉と態度で表してくれればいいのに。
「で? お前の気は済んだか?」
「春樹さんが両手を上げて感動してくれるくらいに喜んでたら済んでたんでしょうけど、現状では『目指せリベンジ〜今に見てろよ〜』って具合ですね」
「……すると思うのか?」
 そんなベタな喜び方なんて普通しねーぞと笑う春樹さんは、けれども「次はない」とも「やめろ」とも言わない。……こういうところだ。こういう、春樹さんが偶に見せる分かりにくいようで分かりやすい隙を"可愛い"と思うのだけれど、年上の男性にそれを言うのは憚れるのでぐっと我慢する。

 この人を甘やかしてみたい、この人に甘えられてみたい。

 渦巻く想いを上手く言い表す術を知らない私はやっぱりまだまだ子供だけれど、向こう見ずを武器に出来る程に幼くもなかった。頭を撫でることも褒めちぎることも、夏樹にならあんなに自然にできるのになあ。
 このまま視線を絡ませていると思考の底まで全部見透かされてしまいそうだと非現実的なことを思いながら、できるだけ自然に聞こえるように言葉を紡ぐ。
「今度は頭皮マッサージってのを試しませんか。お風呂上がりとか、きっと気持ちいいですよ」
「……悪いが、幾らサービスしようともバイト代に色は付かねぇぞ」
「だから、そういうのが目的じゃないって言ってるんですけど。それに現役美人女子大生による渾身のマッサージだなんて、お金を取り始めたら天井知らずですよ」
「お前ってなんでそんな自信満々なの?」
「それにほら。抜け毛予防にもいいらしいですし」
「……いっぺん教育的指導ってやつをやっとくか?」
 凄んでみせられても、瞳の奥が笑っているからちっとも怖くない。別にハゲてるって言いたいわけじゃなくてとフォローを入れかけて、はっと閃き──「もしかしてちょっと気にしてたりしましたか」「んなわけあるか」「いや、でもこういうのは年齢関係ないって聞くし……」そうだ、せめて今の生え際の位置を覚えておこう。けれどよくよく見る前に春樹さんがそっぽを向いてしまう。あ、舌打ちした。
「これだから女ってのは口ばっかり達者で面倒くせぇ。ちったァ黙れ」
 残念でした。隣り合った距離も変わらずのままそんなことを言われてもやっぱりちっとも怖くないんですよ。

 さてさて。黙れと言われて黙らなければ、春樹さんはなんて返してくるだろう。黙れと言われて黙り続けたら、春樹さんはどんな風に終わらせてくれるだろう。

 けれども、好奇心旺盛な私がどちらにするかを決める前に玄関がちゃりと音を立てた。やがて聞こえるだろう元気な「ただいま」に応える為にすぅと息を吸い込む私の横では、春樹さんが本日最後の溜息をひとつ。
 仕方ないなぁ。今日の勝負はお預けですね。



(2018.04.22)(タイトル:インスタントカフェ)(胸があたった)
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