■ お披露目ですよ

 脱いだ靴を揃える数秒すらも惜しい、という足音がどちらのものかなんて確かめるまでもない。
 ドアノブが悲鳴をあげるほどの手酷い扱いも恒例の帰宅第一声がないのも珍しいことだけれど、まあ、思春期ならそんな日もあるだろう。或いは見たい番組があるとかかなあとすんなり受け流して、いつものように台所から声を掛ける。

「おかえりー」
「なぁなまえ、これ見て……あ、ただいま! でさ、これ、これ!」

 リビングまで一直線かと思っていたのに、扉を開けた夏樹はくるりと身体の向きを変えた。そんなに急いでどうしたのと問いかけるより早く、その答えが目に入る。
 勢い余ってつんのめった夏樹が、体勢を整えながら期待たっぷりの眼差しを向けてくる。さあ褒めて、さあ感想を聞かせて。雄弁な瞳は仔犬のようで、端的に言ってものすごく可愛い。だから、つられて笑顔になった私がその後どうするかなんてことは、言うまでもないことだろう。コンロの火はまた後で点ければいい。
「ついに出来たんだね、すごーい!さすがなっちゃん良く似合ってる!」
「だろ!」
 キッチンという区切られた場所で、ただでさえ上にも横にも迫力たっぷりな夏樹が更に目一杯に腕を広げるのは見ている方としても窮屈だったから、ほらほらすげーだろとはしゃぐ仔犬くんの背中を押してリビングまで移動する。
「次の試合はみんなでこれ着て行くんだぜ。むちゃくちゃカッケーよな!」
 制服の上に真新しいウインドブレーカーを羽織った夏樹がえへんと胸を張る。すげーだろと顔をくしゃくしゃにして笑っていたかと思えば、これを来て先輩たちと並ぶんだぜと照れくさそうに頬を掻く。どこからどう見ても素直で可愛い青春のきらめきそのものだ。ああもう可愛いなあと叫びたいのを我慢して「格好いいよ」とスマホを構えたものの、我ながらこの理性がいつまでも保つとは思えない。だってほら、今だって。普段ならなんだかんだと理由を付けて嫌がるところを、機嫌よくポーズまで決めてくれるのだから。

「じゃあなっちゃん、せっかくだから今度は上下それ着て見せて」
「え? ああ、学ランなの忘れてたや」

 カバンを抱え、にへへと後退りで自室に引っ込む夏樹は相当浮かれている。そして、そんな少年を見送る自分もやっぱりかなり浮かれている。ウインドブレーカーを作るとは聞いていたし、高校時代にもお揃いのチームジャージで練習する運動部の男子はいた。だから大体どんなものかわかっていたつもりだったのだけれど、いやはや。着用しているのが身内というだけでこうも世界が違って見えるなんて。しかも、早く見せたいと急いで帰ってきてくれたのだから。ああ、にやけっぱなしの頬が熱い。世のお母さんお父さんもこんな感じなのだろうか。だったらきっと春樹さんも、幾らかは、きっと……。


 それはそうと、帰宅時の慌ただしさからして玄関の惨状は想像に難くない。
 案の定、棚から滑り落ちそうになっていた鍵を定位置に戻したり、でたらめに転がっていた靴を揃えたり。そこまでは順調だったものの、以後が続かず溜息がこぼれてしまう。と言っても、原因は片付けではなく左手のスマホだ。お馴染みのメッセージアプリを開いて、見慣れた名前を選んで、撮りたてほやほやの写真群から一番これだ!という一枚をチェックして、さあここからどうしたものか。何かいい感じの一言を添えたいけれど、"届きましたよ"?"似合いますよね"?"おかえりをお待ちしてます"? どれも微妙にしっくりこない。打っては消して打っては消してを繰り返しているうちに、時間切れになってしまった。
 せっかく着替えてくれた夏樹を待たすようでは本末転倒だ。手早く写真を送って終わりにしたのは妥協だったはずなのに、歩いていくうちに段々とあれで正解だったという気になってくる。
 いつ既読が付くだろう。どんな返事がくるだろう。とっておきの一枚を送ったのだから、他の誰かが相手なら気が気じゃなかったかもしれない。でも、あの春樹さんが相手なのだ。真面目かつ大至急な内容ならまだしも、今回のようなお遊びに反応があったためしがない。

 けれど勝手ながら、反応がないことと感動がないこととは別だと私は信じている。
 繰り返すけれど、相手はあの春樹さんだ。
 ウインドブレーカー発注についてのお知らせを申し訳なさそうに差し出した夏樹の顔も、顔をしかめながらも意外なほどあっさりと受け取った春樹さんの姿も、私は見ていた。そして、夏樹が部屋に戻ってからの春樹さんのことも。
 あの時の、ぴんと指でプリントを弾き「仕方ねえなぁ」と呟いた声の穏やかさといったら。
 眉間の皺をすっかり緩めて、そんなわけだから今月はちょっと財布を締めてくれなと言う時の嬉しそうな顔といったら。
 どうせなら夏樹にもそういう顔を見せてあげればいいのに、と思わないこともないけれど、弟の前では格好つけたいという兄心も理解できてしまうから難しいところだ。


 今度こそお揃いの黒い上下に身を包んだ、着こなすと言うにはまだ初々しさが目立つ夏樹の姿はなんとも眩しくて、胸いっぱいに広がった想いが吐息となり溢れていく。あんなに小さかったなっちゃんがこんなに大きくなったんだねぇという感慨は年寄り扱いされるだけだろうから口には出さない。
「すげーよな、後ろの英語もカッケーだろ! ちゃんとラグビーって書いてあるんだぜ!」
 拍手を贈れば、くるりと回り身体を捻ってほらほら見て見てと応えてくれる。おかしいな、肉眼のはずなのにカメラのキラキラフィルター越しみたいに輝いて見えるよ。
「あーもう可愛いなあ! ねえ夏樹、次は一緒に撮ろう。そんで春樹さんに送ろうっていうか送るからよろしく」
「えー…わけわかんねぇとか、くだらねーもん送ってくんなって怒られねぇ?」
「まさか。せいぜい、夏樹の晴れ姿を見るのも撮るのもなんで自分が先じゃないんだってむくれられるくらいだって」
「いやそれこそ無いから。つーかさあ、それを言うならそもそも嫉妬の相手がちげぇってかだいたいむくれるなんて可愛いもんじゃねぇし……」
 向けられる眼差しには困惑を通り越して哀れみの気配すら漂っている気がするけれど、肝心の中身がまるでわからない。せめて歯切れの悪い夏樹が紡ぐ次の言葉を聞き逃さないようにと見つめていると、あーあと溜息ひとつで仕切り直された。
「じゃあ、後で兄貴とも撮ってくれよ。自分からは絶対に言い出さねぇだろうけどなまえが誘えば渋々って顔して頷くだろうから」
「さすが夏樹! 気遣いのできるいい弟!」
 頬が熱いのは、先ほどの独り相撲を恥ずかしく思ったからだった。部外者がなにを偉そうに気にしていたんだろう。夏樹はこんなにも春樹さんのことを見ているし、理解しているっていうのに。この兄弟は確かに想い合っているというのに。
 なんて、綺麗なんだろう。なんて、いい子なんだろう。
 胸の奥がぎゅーっと絞られた感じがして、続いて愛おしさが湧き上がってくる。思いっきり撫でくりまわしたいという衝動は、けれどこの身長差では叶わない。でも、伸ばしかけた腕を止めて、代わりに裾を掴んでちょいちょいと引けばすんなりと腰を落としてくれるから大丈夫。ほら、やっぱり夏樹はよく気がつく優しい子だ。
 可愛がりたい時に可愛がらせてくれる弟分って最高だねと茶化して構い倒す姿が若干やばいおねーさん化している自覚はあるけれど、それもこれも夏樹が可愛いのがいけないんだと開き直ってしまえば、もう恐れるものはない。
 やっと届いたふわふわの髪をぐしゃりぐしゃりと掻き混ぜて、腕を絡ませて肩もぴったりくっつける。さあ撮ろう、今すぐ撮ろう。
「なあ、やっぱこれってオレが怒られるパターンじゃね?」
「大丈夫だって。除け者にされたって拗ねる暇もないくらいにたっぷり二人で撮ってあげるから。だからさ、今のうちにおねーさんとツーショですよツーショ!」
「だからそっちじゃねえよ。なまえって時々すっげーバカだよな」
「バカとは何だねバカとは」

 アプリを開くと相変わらず何の吹き出しも増えていなかったけれど、小さな二文字が付いていた。その続きに、今まさに撮りたてほやほやの一枚を追加して──はい、終わり。
 さてさて、今度は既読と帰宅のどっちが早いかな。



(2018.12.01)(熱い勘違い)
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