■ あめ

 伊勢家から苗字家までのたった一階分の距離を送ると行って聞かない春樹さんが、今夜に限っては単なる親切心ではなく何やら狙いがあってのことだと気付いたのは手遅れになってからだった。つまり、まるで気付けなかったわけである。

「悪い、ちょっと時間いいか。ああ、部屋には上がらないから。ここで話すだけでいいから」
「ええええなんですか改まって。あれですか今日の味付けを失敗した件ですか」
 それともお皿を割りそうになった件ですか。ていうかそもそもぴーぴー煩いとかそういうそことですか。
「違え……いや、違わねえか」
 眉間に皺を寄せる春樹さんに自分の顔が青くなるのが分かる。そんな私を見て春樹さんの眉間の皺はますます深くなり……ってなんだこの悪循環は。
「そうビビんなよ。ウゼエから」
「……そんな顔でうぜえとか言うから恐いんですよ」
 ぼそりと呟いたら睨まれた。ほーら、そういうところですって。萎縮するなとか無茶言わないでください。恨みがましく視線を向ければ春樹さんはお前なあと口を開き、けれども結局皆まで言わず溜息で終わらせて頭を掻く。そして少しの沈黙を経て出てきた言葉は。
「お前さあ、なんかあるならちゃんと言えよ」
 なんだかとても優しい声色に、嬉しいとかよりまず驚きがやってくる。
「まぁそりゃ俺らの相手をさせてる時点でそもそもって話でもあるんだが。それでも気になることは言えばいいし、他所で困ってることとか悩みとかあるなら、ほら、場合によったら力貸せるかもしれねーし」
 らしくないと絶句しかけて、いやいや待てよここで黙るのは悪手だと必死で笑顔を作る。
「いや、そんな特に悩みなんてないですって」
「ふざけんなよ」
 せっかくの愛想笑いに舌打ちを返す人ってどうかと思う。というか、ちょっと待って。どこをどう見たって相談しろとか言う人の態度じゃないでしょう。恐いですって。咄嗟に自分を取り繕うべきか春樹さんにつっこむべきかと不毛な二択が浮かんだけれど、幸いな事に選ぶ前に答えが現れた。
「夏樹のやつがな、お前の様子が変だって気にしていてな」
「あー…なるほどそれで」
「今日だけじゃねえ。最近妙にミスが多いだろ。やけにぼーっとしてたり何かにつけて溜息吐いたり、いちいち気になってうぜえンだとよ」
「うそ、なっちゃんにうぜえとか言われてるの……泣く……」
「あいつが言うわけねぇだろ。うぜーってのは俺の感想だ」
 あんたかよ。
 心底嫌そうに言われるけれど、あんまりすぎる対応に物申したいのはこちらの方だ。だが、しかし。春樹さん自身にその気がないのならそれはそれ。内心好都合だと安堵して「どうりで親身さが付け焼き刃なわけですね」と軽口を返す。が、乗ってはもらえなかった。
 先ほどまでとは異なり、今度こそまっすぐ見下ろしてくる春樹さんは一言も発しない代わりに段違いの圧力を隠しもしない。
 繰り返すが、これが悩みを抱える相手に(しかも年下の女の子に)向ける態度だろうか。というか、その気になればもっとスマートに優しく気遣ってみせられる人ですよね、あなた。それなりにまともな社会人のお兄さんって顔で愛想を振りまける人でしたよね? 春樹さんに比べれば遥かに人生経験豊富ではない私ですら、さあ白状しろと玄関先で責め立てるのはアプローチとして失敗していると断言できるぞ。
「大人って、お酒でも飲みながらそれとなく話しやすい空気を作るものじゃないんですか」
 なんて。冗談めかしてはみたものの、お前相手にそんな手間暇をかけられるかとか真面目な顔で返されたらどうしよう……あ、めちゃくちゃ言いそう。案の定、春樹さんは心底嫌そうに口を開いた。
「なに、お前そんな適当な扱いをされたいわけ?」
「適当?」
 さっぱりわけがわからない。間抜けなおうむ返しに春樹さんの不機嫌が増していくのだけはわかるけれど。
「口滑らしやすいようにお膳立てして、丸め込む気満々で相手して欲しいならいくらでもしてやる」
 えーっと、正直それがいいです次回はそっちを希望します、とは思っても言えない空気だ。
「せめて中間でお願いしたかった……!」
「で、どうすんの。吐かされるか話すか。まあ、別に、本当に言いたくないならそれでもいいけどな」
「いいんだ」
「その代わり夏樹の前ではふつうにしてくれ。あいつはいちいち気にしちまうから」
 こればかりは返す言葉もありません。まさか夏樹がここまで察しがいいとは思っていなかったし、自分がこれほどだだ漏れだとも分かっていなかった。

 いつの間にかやわらいでいた視線から逃げるように下を向いた私を、春樹さんは急かさない。
 狡い、となじりたくなる。今まであんなに色々雑だったくせに、急にこんなふうに譲られるとどうしていいかわからなくなる。絶対に言えないって思っていたのに、つい、判断を間違えそうになる。間違えたくなってしまう。だって元々どうすればいいかわからなくて途方に暮れていた案件だ。自分ではとっくに持て余していて、でも誰かに押し付けてしまえる事ではなくて、ひとりで抱えるにはしんどすぎて。だからきっと、いつかどうしようもない方法で爆発してしまうんだろうなという予感を消せないでいる、そんな案件だ。
 たとえここで春樹さんに見逃してもらえても、近いうちに破綻するだろう。だったら。どうせ間違えるのなら、傷が浅い方がきっと……いい。

「えーっと。絶対に誰にも言わないでってお願いしてもいいですか」
「夏樹に関係がないのなら」
「そこは大丈夫です」
 とはいえ玄関でするような話ではないし、上がってと誘うにも時間が時間だ。やっぱりいいやと言いかけたところを勘のいい春樹さんに遮られる。
「明日の昼でいいか」
「う、うん。でもせっかくお休みなのに」
「じゃあまた来るから。別にウチでもいいけど、こっちの方が話しやすいだろ」

 私が頷くのを確かめて春樹さんはドアノブを握った。
 遅くに悪かったなとかちゃんと鍵を閉めろよとかいつもと変わらない口調の最後に「逃げるなよ」と念を押した姿が視界から消えてから、言われた通りに鍵とチェーンをかけてそのままずるずると座り込む。
 明日のことを考えるだけで動悸が激しくなるけれど、やっぱり何もありませんが通用しない相手であることは嫌というほど知っている。それに、さっき一旦その気になってしまったことも事実だ。流されるように、否、流されたふりで掴もうとしてしまった手はもう引っ込められない。



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