■ 0の微笑み ああ、そうか。また数日間、ゲンスルーさんと会えないのか。 姿が見えないなとは朝から気づいていた。 けれど、たまたま外にいるか、またどこかに籠っているのだろうくらいにしか思っていなかった。 だからお昼過ぎにニッケスさんとジスパーさんが話しているのを聞いて、ようやく私は、ゲンスルーさんが例の休日を始めたのだと知ったのだ。 毎回の事とはいえ正直ちょっと傷付いた。今回も誘ってもらえなかった、ということより、知らせてもらえなかったということの方がダメージになるとどう伝えればわかってもらえるのだろう。 別に聞いたからといって、一緒にいたいとかそっちへ行きたいとか私も連れてってとかそんなわがままは言わないのに。言いたいけど、言わないのに。 そんな自棄な気分も加わって、いつもよりちょっと奮発した夕飯を並べてみたものの気分はまだまだ晴れそうにない。放っておかれることとか、教えてもらえないこととか、相変わらず関係を秘密にしなきゃいけないこととか。日頃はそこまで気にしないことでも重なったら結構なダメージになるのだと知った私は酷く憂鬱だ。あーあ、恋ってもっと素敵なものだと思っていたのに。 咀嚼のために口を動かしながらも、合間には恋する乙女らしい深い深い溜め息が何度も漏れてしまう。 『他プレイヤーがあなたに対して《交信》を使用しました』 突如聞こえた通知音にはっと顔を上げる。 期待なんて思いも浮かばず、ただ身構えた私の警戒心を軽やかに弾き飛ばしたのは……まさかの、予想も、期待すらしていなかった、さっきからずっと考えていた……私の大好きな声だった。 「やあ。こんばんは、なまえ。今はひとりかな?」 《交信》が伝えるのは、焦がれてやまない……ゲンスルーさんの甘く柔らかい声だった。 勿論、ひとりです。だっていつもこの時間には本拠地から帰っているし、最近別に忙しくないから残る理由もないし、もちろんご飯もひとりです。だってゲンスルーさんが居ないんだから。私が他に、一体誰とご飯に行くというのでしょう。 「それはよかった。こうして連絡してみたものの、ちょっと不安だったんだ。あっさり『男の人と一緒に居るの』って返されたら、どうしようってね」 笑いを含んだ声に、ゲンスルーさんがどんな表情をしているのかまで想像してしまって急に恥ずかしくなる。カッと熱くなる頬を中心に、自分の顔に熱が集まっていくのを自覚する。ああ、《交信》が声だけでよかった。顔が見えなくてよかった。 「もう知っているかと思うんだけど、今日からまた数日、オレはあっちには行かないからさ」 ええ知っています。知っていました。さっきまで拗ねていました。でも単純な私は、こうして後から知らせてもらえるだけでも凄く嬉しいのです。 「だから……おいでよ」 ……!! なんですか、え、聞き間違いですか!? 充分ドキドキしていた心臓が、今ので尚更きゅっとなりましたよ! 潰れちゃいますよ! 「こらこら、落ち着いて。良い子だからちゃんとオレの声を聞いて」 前言撤回しよう。顔が見えない分、たちが悪い。収まる筈なんてないドキドキにクラクラしながらなんとかはいと返事だけは返す。 「なまえは今、《磁力》は持っていたかな?」 ええあります。ありますよ! なんて勢い良く答えるまでもなく、ゲンスルーさんは知っていたはずだ。 かつて、移動系のカードを所持していなかったことによって陥った窮地は私の記憶にしっかりと刻まれている。あの時救われて、こうして居場所をもらえてもなお、恐怖は去ってくれない。常に移動系カードを一揃いポケットに入れていないと不安で堪らないのだ。 そんな私の弱みをこれ以上つっつくことはせず、変わらない響きでよかったと笑う声に脳がぼうっと惚ける。離れた場所で話すゲンスルーさんが今どんな顔をしているのか想像してたまらない気持ちになる。 なのに、惚けるのはまだ早かった。脳がすっかり蕩けてしまうのはこの先だった。 「さあなまえ。それを使って、今からオレのところにおいで」 さっきと同じ言葉には、少しだけ強引な響きが加わっている。 いつもの陽だまりのような優しさだけじゃない、有無を言わせない強制力を含ませた声は、それだけ言うと私の返事も待たずにぷつりと沈黙した。 ああ、どうしよう。 心臓が、爆発しそうだ。 *** 飛んで行った先で待っていてくれたのは、間違いなく大好きなゲンスルーさんだった。 行き交う人の姿もない道の上で、よく来たねと手を広げるゲンスルーさんに飛びついて、たっぷりぎゅーっとしてもらう。会えなかったのは今日で、昨日は本拠地で会ったのだけれど、でもそんな事は関係ない。しばらく会えないと思っていた分、幸せ過ぎて感極まって堪らない。 そんな私の背を優しく数回撫でた後、ゲンスルーさんは道の向こうを指差した。 「ほらほら、良い子だからそろそろ離れて。そこの角の宿……わかる? あそこの四階の南端の部屋に居るから、今から数分経ったら入っておいで」 「……一緒に行っちゃだめですか?」 「ごめんね。さすがに、体調不良で引き蘢るっていうのに、キミと堂々とホテルに入るのはまずいよ。もし見付かったら、今までの休日も全部キミを連れ込んでいたんだって疑われるだろう?」 そんな申し訳ない事はできないよと囁かれて、おまけに頬をちょんとつつくのだから。それ以上私はなにを言えるだろう。結局、先にゲンスルーさんが戻るのを見送ってから約束通りの時間を待って私は歩き出した。本当は走りたかったけれど、早足で我慢した。 *** 「やあ、待っていたよ」 言われたドアの前で足を止めれば、ノックをする間もなく扉が開きぐいと腕が引かれる。 おっと、なんて呟く間もなく大きな身体に包み込まれる。ああ、恥ずかしいけれど、最高に幸せだ。込み上げてくる幸福感に身を委ねながら広々とした室内へ移動すれば、テーブルの上には私の好きな甘い果実酒が置かれていた。 確かめるまでもない。私のために、ゲンスルーさんが用意してくれたのだ。私を、喜ばせるために! 「ゲンスルーさん!」 あまりの嬉しさに抱きついたならば、頭と肩に大きな手が触れる。こうして撫でてもらうことの心地よさは、ゲンスルーさんが教えてくれた。あたたかい空気に包まれてうっとりと顔を上げれば、にこにこと笑っているゲンスルーさんと目が合う。居心地の良い優しい空間に心がほぐれていく。 ふと、先ほどから感じていたことを確かめたくなった。 「あの、どうしたんですか? ここに呼んでくれたり、なんか凄くご機嫌ですよね?」 ゲンスルーさんはいつも凄く優しいし、……時折、少しだけ意地悪なこともするけど、でも基本的にいつも優しいし、機嫌の悪いところなんて滅多に見ないけれど、それにしたって今夜は格段に機嫌がいい。 「……わかるかい?」 座りなよと進められ、手近な椅子へと腰掛ける。 ゲンスルーさんは、実はねと言葉を続けながら果実酒のボトルを手に取り、流れるような動作でコルクを開けた。 「そろそろ、キミの事をちゃんと紹介しようと思ってさ」 ……え。えっと、今、なんて……? とくとくと注がれる液体を眺めていた私は、その言葉に弾かれたように顔を上げてゲンスルーさんを見つめる。 「実はちょっと前から考えていたんだ。さすがに、あのジスパーにまで気づかれちゃおしまいだしね。なまえはよくやってくれているし、もうここら辺でいいかな、って思ってさ」 どうしよう。ドキドキする。クラクラする。あまりの事に思考が追いつかなくて、でも嬉しくて。いつの間にか乾いていた口を潤すために、グラスを手に取り甘い液体を一口含む。 「あの、じゃあ、私の事……」 「うん。ちゃんと仲間に紹介しようと思うんだけど……いいかな?」 にっこりと笑いかけられて、顔がますます熱くなった。ずっとずっと、堂々と横に並べたらと思っていた私に、嫌なんて答えが存在するわけがない。とっさに出ない言葉のかわりに、この思いがどうか少しでも確かに伝わればいいと夢中になってこくこくと首を振る。 「よかった。断られたらどうしようって思ってた」 だから、そんなこと、あり得ません! 私がそう言う前に、椅子の後ろへと移動したゲンスルーさんが腕を回してきた。普段より緩やかに動く指が、そっと私の首を撫で、肩を撫で、腰へと下がって行く。……そろそろベッドへと誘われる時の動きだ。 「あの、まだお酒、残ってるんですけど……」 勿論、するのが嫌なわけじゃないけど、むしろ嬉しいのだけれど、やっぱりはじめは恥ずかしいのだ。それにただでさえ今は思考がいっぱいいっぱいなのに。そう言ってグラスに視線を向けるのだけれど、すぐにそのグラスは私の頭上へと移動してしまった。耳の後ろでごくりとゲンスルーさんの喉が音を立てる。 「これでなくなった。……残りはまた、後で飲めばいいさ。なんなら、口移しで飲ませてあげようか?」 「……意地悪です」 「キミは本当に、すぐに赤くなるね。そういうところも……可愛いよ」 そう言ってふわりと抱き上げてベッドへ運ぼうとするのだから、堪らない。自分がこんなふうに、お姫様みたいに扱われるなんて、少し前までは想像も出来なかったことだ。 スプリングの利いたベッドの上で、見つめ合ってキスをする。ゆっくり服を脱がせてもらって、私も恥ずかしいけれどちょっと手を伸ばしてゲンスルーさんを脱がせてみたりして。優しく動く手に合わせて熱くなる息と、耳の内側いっぱいに高鳴る鼓動。 翻弄されるのはいつも私で、そんな私を楽しそうに見つめながらも決して焦る事のないゲンスルーさんのことは少し悔しいけれど……でもそんなゲンスルーさんはとっても素敵だ。もちろん、合間にはやっぱりキスが沢山降ってくる。 ゆっくりと、ゆっくりと、私とゲンスルーさんは溶け合い始める。普段は決してあげないような声が、自分の唇から漏れていく。始めの頃はただ恥ずかしくて堪らなかったこの甘い声もいやらしい自分も、今では私の導火線のひとつになってしまった。恥ずかしいけれど、そう感じると同時に……とても興奮してしまう。 なのに、いざ至福の時間というその入り口で、扉を叩く無粋な音が私たちを引き裂いた。 「……おっと、ようやく来たようだ。ちょっとごめんね」 私からすれば突然のノックにも、ゲンスルーさんは待ちわびたとばかりに立ち上がる。ルームサービスでも頼んだのだろうかと見上げる私の額に、宥めるようなキスをひとつ落として行ってしまったゲンスルーさんに迷いはない。 そのあんまりな後ろ姿に、つい溜め息が出てしまう。あーあ、いい所だったのに。ドアからここにいる姿は見えないとは思うのだけれど、やっぱりいい気分はしないのでベッドに潜る。一応こんな場面だし。NPC相手とは言え、他の人に見られるのはやっぱり恥ずかしいし。 それにしても、ゲンスルーさんったら一体何を頼んだんだろう。お酒はまだあるし、これから食事をというつもりだとしたら、さっきのタイミングでお誘いモードになるのはおかしい。 なんて思っていたら、がちゃりと扉が開く音がした。 「遅かったじゃねーか」 「わりぃな。ちょっとのんびりし過ぎちまった」 「で、肝心の可愛い子ちゃんはどこにいるのかなっ……と? ああ、ベッドか。つーか、なんだよゲン、もう始めちまってるのかよ」 ……え? なに、今の、声……? 明らかに宿の誰かとは異なる声に頭が真っ白になる。予想を裏切る粗野な雰囲気にびくりと身を震わせる私を他所に、ドアが閉まる音が無情に響く。 「だーいじょうぶだって。まだ脱がせただけだ」 それでも、混乱する私をなんとか奮い立たせたのは聞き慣れているはずのゲンスルーさんの声だった。もっとも実際のところすでにそれは、甘さなんてかけらもない、まるで知らない響きに変わっていたのだけれど。 ひとりの女に、野蛮な男たち……いくら私だって、さすがにこういう展開の知識くらいはある。けど、でも、それはおかしい。そんなことがあるわけがない。だってそこに居るのはゲンスルーさんなのに。 「ゲ、ゲンスルーさん……? あの、その人たちは……」 きっと何かの間違いだ。そう思うのに、私の声はおかしいほどに震えていた。 震えているのは声だけじゃない。身体の震えも止められない。 それでも、間違いだと思いたくて縋るように視線を送る。 なのに。そんな私の顔が見えるところまでやってきたゲンスルーさんは、にっこりと笑った。私の好きな、優しい顔で。その顔はやっぱり、さっきまでと同じゲンスルーさんのはず……なのに。 「さっき言っただろう? 『オレの仲間』に紹介してやるって──」 そこに居たのは、私の知らない男だった。 THE END (2014.09.09) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |