■ 3

 一体なぜ、こんな事態になっているのか。


 今更考えてもどうにもならないことを嘆きながら、メレオロンはまっすぐ壁を見つめていた。

 特筆に値することもない落ちつく色合いの壁だ。いい加減見慣れた部屋の壁と同じ柄だから圧迫感もなければ違和感もない。実に過ごしやすい空間を演出してくれる、いい色合いだと思う。けれど、今夜に限ってはそんな壁に囲まれていてもまったく落ち着かない。その理由は余るほどに多くあるが、一番の要因は他でもない隣で寝息を立てているなまえの存在だった。

 結局、メレオロンはなまえとベッドに入るはめになったのだが、どうしてこうなったのかは今の彼にもよくわかっていなかった。なまえを起こすことには成功したつもりだったし、水を飲んだなまえはあれからしばらくうだうだと渋ってはいたものの最終的には酔いこそ残しつつも大方回復していたはずだ。なのに結局ベッドまではメレオロンが運ぶことになったし、挙げ句の果てにこうして抱き枕にされる事態に陥っているのは、何故か。
 いっこうにメレオロンを帰す気がないらしいなまえに、そんなに"ぬいぐるみ"扱いがしたいのかと少し自棄になったことは覚えている。そんなに生意気を言うのなら、目覚めたら隣にカメレオンがいる……なんていう衝撃的な朝を迎えて心底驚き嘆けばいいさと捨て鉢になったことも覚えている。
 それになんだかんだ起こったとしても最終的には、なまえに気がつかれる前に透明になって、こっそり部屋から出ればいいさと思ったことも覚えている。

 だが……やはりそんな自棄など、起こすべきではなかったのだ。
 冷静になった今では、むしろあれほど自信たっぷりに選択を間違え続けた己が信じられない。ああそうか、自分も彼女ほどではないにせよ、やはり酔っていたのだ。
 そんなわけで、隣ですうすうと気持ち良さそうに眠るなまえを前にメレオロンは途方に暮れていた。

 当初の思惑通りに抜け出せないことには理由があった。
 メレオロンには太い尻尾がある。仰向けになるには、当然その尻尾を腰より下にしなければならない。だが、どう動くのかわからない人間の足下に尻尾をしまう気には到底なれなかったので、当初は特に何も考えずに左を向いて寝ころんでみた。
 すると、目を閉じて静かにしていればそれなりに魅力的と言えなくもないなまえの顔が随分と近くにきた。これはまずいと直感し、右向きに寝転び直したところ確かになまえの顔は見えなくなったが……なんと、尻尾を掴まれてしまったのだ。
 ぐるりとカーブする太い尻尾を、抱き込むように胸に押し当てるかたちで捕まえてしまったなまえは、それだけでは飽き足らず布団から出た部分に頭を乗せ始めた。狼や獅子のように毛のある尻尾なら、そうしてしまいたくなるのも理解できる。けれどもこうして爬虫類の尻尾に頬ずりされるなど、いくら彼女の奇行には慣れている身でも予想外すぎた。


 メレオロンがこの初めての経験になんとか慣れようと精神を統一しはじめた頃、不意にそれまでの頬とは異なるものが尻尾に触れた。
 柔らかいものが押し当てられたと感じると同時に、そこから湿り気を帯びた熱を感じてしまい、すぐにその柔らかなものがなまえの唇だと気付いてしまう。思わず、どきりと心臓が跳ね上がるついでに尻尾までびくんと反応してしまい、大きな揺れが彼女の身体を震わせた。
 やばいな。頼むから、今は起きてくれるなよ……。
 メレオロンのその必死の願いも虚しく、数秒と経たずに背後でなまえの声がする。

「……ん……っと……え、しっぽ?」

 ぽわんと夢見心地の声に続き、なんと尻尾を抱きしめる力がぎゅっと増した。てっきり気持ち悪いと放り出される覚悟を決めていたメレオロンはまたも訪れた予想外の事態に目を白黒させる。

「えへへ、飴玉とかげさんやっとみつけた」

 なにやら尻尾を前に深呼吸を始めたなまえに再度びくりとするが、今日の夢は高性能だなぁとのんびりした声が聞こえて少しほっとする。夢だと思われているのならまだセーフだ。それに、そもそもかなり酒が入っていたのだから。どうしたって頭はろくに働かないだろう。
 メレオロンの安堵に気がつく様子もなく、なまえは嬉しそうに身体を尻尾にすり寄せ……あろうことかパーカーにまで手を伸ばして来た。

「ねえねえ、こっちむいてー」

 聞こえない振りを決め込む事にしたものの、背中の服を引っ張るなまえが諦める気配は一向に訪れない。

「むう、いいもん。そっちいくもん」

 なにやら不穏な言葉にメレオロンが身構えた瞬間、もぞりとなまえが身を起こした。
 尻尾をまたぐように身体を動かすなまえが、そのまま布団の中を移動してメレオロンにのし掛かろうとしていることがわかってしまい戦慄する。
 今は寝ぼけているからいいものの、動けば動く程、なまえの意識は覚醒に向かうだろう。しかも、尻尾を掴まれていては透明になっても逃げられない。

 一番まずいのはこのまま彼女の意をくまずにいて、本格的に目覚められる事だ。
 結局、メレオロンは渋々ながらなまえの側へ寝返りを打つことにした。素直に手を離していたなまえが、未だ夢うつつだとわかる顔をぱあっと輝かせて擦り寄ってくる。

「あのね、わたし、がんばったんだよ。やっと、ね。だから、ほめて。ぎゅーってほめて」

 玄関に居た時より数段悪化している。これではまるで幼子のようだ。
 面倒臭いことは面倒臭い。相変わらず逃げ出してしまいたい。しかし不思議なもので、パーカーの胸にしがみついてぐりぐりとねだられている間に、確かに発端は渋々とはいえ……そう悪い気分でもなくなってくる。求められるままに背に手を回して抱きしめるようにすれば、なまえは満足したように笑い、メレオロンの胸にいっそう深く顔を埋めた。しかし、幸せそうに深呼吸を繰り返すなまえの要求はそこで止まりはしなかった。

「ねえ。おはなし、しよ。わたしのなまえを、よんでみて」

 正直困ってしまうばかりだ。迂闊な事を言って本格的な覚醒を誘うことはなんとしても避けたい。可能な限り黙っていたいところだが、先ほどの様子を思えば業を煮やした彼女が実力行使に移るだろうことも想像に難くない。穏便に済ませればすぐにでも瞼が落ちそうななまえの横で必死に頭を働かせるメレオロンだったが、やがて意を決して口を開いた。

「……なまえ」

 その選択は、大正解だったようで。蕩けるように表情を緩めたなまえは、はあい!と心底幸福そうに小さな声を上げ、再びメレオロンの胸にごりごりと額を押し当てはじめる。やっとよんでもらえた、うれしい。吐息がスウェットに染み込んでいく。

 一方のメレオロンとしては、正直もう、堪ったものではない。
 ……この状況は、メレオロンの複雑な理性を脅かすに充分なものになっていた。



(2014.10.19)
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