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 これはもう正直"ぬいぐるみ"などではなく、明らかに"そういう"意味で誘われているのでは……という期待がメレオロンの心を揺らした。けれどもすかさず、いやいや、こんな異形を相手に人間の女がそんな気になるわけがないだろう……と理性が叫ぶ。

 けれども、背中を撫でてやれば猫のように身を寄せてくるのだ。名を呼んでやればうっとりと微笑むのだ。
 おまけに、つい"出来心"で背中の手を意図的にすーっとゆっくりと動かした際に漏らされたあの甘い声と続きをねだるような反応。しかも、そこでしっかり「……めれおろん」とこちらの名を呼んだのだ。誰が相手か分かっていてのあの反応。

 ……今なら、この状況なら、オレもう……こいつに手を出しちまってもいいんじゃねェか?

 それは抗い難い誘惑だった。
 けれども、メレオロンにも本当の所はわかっていた。
 これがただの気の迷いであることも、誘惑に身を任すことは決して出来ないということも。

 ハンター協会の監視下にあるこの状況で、あえて問題を起こすような行動は慎むべきだという考えもあった。いくら好意的とはいえ、酒に酔った女を、それも中途半端に知り合いの女を、相手にすることへの抵抗もあった。けれども一番大きな理由は。自分を信頼して彼女を送り届ける役を割り振った彼らに対する責任だった。


  ***


 目を閉じて煩悩と格闘していたメレオロンは、やがてゆっくりと目を開いた。
 なまえは相変わらず気持ち良さそうに、幸せそうに顔を埋めてはいるが、さすがにうつらうつらとし始めている。この調子ならば、じきに眠ってくれるだろう。ほんの少しの名残惜しさを隠しながら、優しく宥めるようになまえの背を撫でてやる。

「……んっ…ねむっ……ねぇ、こんどはおきても……いて……くれ、る?」
「……ああ。居るぜ?」
 もう目を開けるだけの余裕もないなまえにもちゃんと聞こえるよう、耳元に声を返してやる。
「ん……じゃあ。ちょっと……だけ……。おやすみ、の……」
 ……おいおい「おやすみのちゅー」って、マジかよ?
 ぴきりと固まったメレオロンだったが、逡巡の末なまえの前髪をそっと掻き上げた。そして、現れた小さな額に軽く唇を寄せる。
「ほらよ。おやすみ」
 なんでもない顔をして、すこしだけ優しいふりをして、平静を装ってかけた声になまえは満足そうに目を閉じて──ゆっくりと眠りに落ちて行った。


 なまえの寝息が深くなったことを確認し、メレオロンはたっぷりの息を吸い込んで《神の不在証明》を発動した。眠っているなまえが、能力を使っている状態のメレオロンに反応することはありえない。それでも細心の注意を重ねて用心深くベッドから抜け出たメレオロンは、少し乱れた毛布を直してやりついでのように髪を撫でてやる。もちろん、そんなことをしてもなまえには伝わるはずもないのだが。

 そしてもう一度、額に唇を近づけかけ……
 そんな自身に気がついて、慌てて部屋から飛び出した。



「……っ!? おいおい!! 冗談じゃねェぞ。今、オレは何をしようとしてたんだ!?」

 殺風景なリビングの大きなソファに身を預けたメレオロンは、荒い息のまま「なんてこった」と天を仰いだ。
 "蟻"の本能はなまえをメスだと訴えるし、オスとしての精神は据え膳食わねば……と囁く。
 けれど、仲間を裏切るわけにはいかない。一度すべてを失ったメレオロンが持っているものは、今はこの自己と彼らとの繋がりだけだ。せっかく再び自我を獲得して、しかも"魔獣"としてここに存在することを許されたのに、仲間に恥じるような真似をしてはこの先合わせる顔がない。
 なまえにしたって、たまたま今夜居たのがオレだったからオレに対してああなっただけで。別に、オレの事が特別"そう"なわけではないだろう。
 だいたい、あそこまで酔っぱらっていたのだ。あの状態の彼女の言動に、微塵の価値もあるはずがない。真偽を考えるだけ無駄だ。そして、オレがこうして頭を悩ませているこの間もすらも向こうの部屋のなまえはすうすうと寝息を立てて暢気な夢を楽しんでいるのだろう。

 だというのに、ああ。
 こうしてオレ一人が翻弄されるってのは、割に合わないにも程があるだろう?

 頭に手を当て苦悶していたメレオロンは、やがて深く深く息を吐いた。


  ***


 カーテンから差し込む光を眩しく思っていると、奥の部屋から激しい物音が聞こえた。
 何か大きなものがベッドから落ちたような音の後、バタバタと慌てたような足音が近づいてくる。やがてリビングにやって来たなまえの驚いた顔を見て、メレオロンはにやりと笑った。

「あ……のっ!……なんで……なんでメレオロンがここに居るの!?」
「おいおい。散々飲んで寝ちまったお前さんを、誰が介抱してやったかわかって言ってんのかよ?」

 別に、帰ってもよかったのだ。
 ただなまえにこのまますっきりとした朝を迎えさせるのが癪だという悪戯心が疼いたのだ。
 断じて、酔っぱらいとの約束を気にしたわけじゃない。

 妙に晴れやかな気分で、メレオロンはゆっくりと煙草に火をつけた。



(2014.10.21)
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