■ 4

 珍しく脇目も振らずに走ったためか、焦って空回りを繰り返す心のせいか。
 一体どちらが原因かもわからない動機を抱えながら、ぜぇはぁと膝に手を置いて前かがみになったメレオロンはそのまま息を整えようと躍起になる。
 目的の部屋は、もう目の前だ。扉の横にあるボタンを軽く押せば、それだけで音に呼ばれた彼女がどたばたと現れるだろう。あとはただ、手を伸ばすだけでいい。
 そう思うのに、それだけの動きをなかなか実行に移すことが出来ず……荒い息だけが宙に溶けていく。



 反射的に店を飛び出したものの、何故自分がこんなにも必死になっているのかということがメレオロンにとってはどうしようもなく謎だった。
 通行人にも信号にも見咎められないようにと、姿を消してまで走っていた時は本当にただ夢中だった。そして飛び込んだエレベーターの中で、ボタンを押す指がやけに痛いことに気がついて……そこでようやく己の必死さを自覚したのだ。
 今にも壊れるのではという力で押し込んでいたボタンから慌てて手を離し、今日に限ってやけにゆっくりと上昇する箱の中でどうにもならない足をひたすら踏みしめた。けれども、扉が開くのも待ちきれない思いで向かった部屋の前に、求めた姿がないことにより……その心に小さくヒビが入る。
「早く会いたいから」
 彼女が口にしたという言葉をうけてなまえが自分の部屋の前で待っている姿を期待していたことに気がついてしまえば顔から火が出る思いだったが、なんとかその羞恥を振り払うように踵を返す。いつ来るかわからないエレベーターには最初から目もくれず、一目散に階段を駆け上がる。
 それは単純に急ぐという目的以上に、自身に余計なことを考える暇を与えないように、という防衛の意味が強かったのかもしれない。



  ***



「はいはーい……って、え、え!? えええぇぇぇ!?」

 深呼吸を繰り返し、なんとかいつもどおりに戻すことに成功した呼吸を盾にやっとの思いでベルを鳴らせば、意外な速さで反応があった。がちゃりと開いた隙間から暗い顔を覗かせたなまえは、訪問者の姿を確認して一瞬大きく目を見開くと次の瞬間これまた大きな声を上げる。
「うわ、うわ、メレオロンじゃないのー! え、本物だよね! 今度こそ、本物だよね!? 幻じゃないよね!? うわーん会いたかったぁぁぁ」
 あっという間に全開になった玄関から飛び出してきた彼女は、一直線に腕を伸ばすとそのままメレオロンの身体にしがみついた。そのあまりの勢いにメレオロンはうっかり受け身を取り損ねて一歩下がる羽目になったし、ついでにうっかり彼女の腰に手を回してしまう。
 そんな風に微かに体勢が崩れたこともなまえは気づかないようだった。前のめりな彼女の重心はメレオロンへのしかかったっきり移る様子はない。

 展開についていけないメレオロンを益々置き去りにするように、なまえの手は好き勝手に動きまわり、いつの間にかぺたぺたと彼の身体を這っていた。
「あー……素敵すぎる。……やっぱり、本物だ……本物のメレオロンだ……」
「ちょっ、おい、落ち着け……つーか、ちょっと待てって!」



  ***



 人目を気にしたメレオロンの必死の誘導が実り、なんとか抱擁の場所を玄関に移すことには成功した。
 けれど、場所を室内に移したことにより、却ってなまえの暴走が激しくなった気がしたのも事実だから……バランスというものは難しい。
 そんなこんなでメレオロンという存在を確かめるように忙しなく動いていた手のひらだったが、暫くするとさすがに満足してきたらしい。次第に動きを緩め……最後にぎゅっとパーカーの胸を掴まれたかと思うと、今度は顔が埋められた。
押し当てられる頭に、彼女らしくない沈黙。そして呼吸に合わせて上下する肩。それらの要素にメレオロンの心臓はどくりと跳ね上がる。
「おい、お前まさか……って、おいこら変態。何してるんだ!?」
 まさか泣いているのか?と口にしかけたものの、結局そんな数秒前の自分に激しく後悔の念を送りながらなまえの頭をぴしゃりと叩く羽目になる。顔を埋めて深呼吸を繰り返していただけの彼女は、その対応に不満げな眼差しを返した。
「ケチ。ちょっとくらい、いいじゃないのー。っていうか、なんか違う気がするんだけど、銘柄変えた? ……いや、そうじゃないな。この感じ……あ、さては、あれでしょ。量増えてたでしょー」
 これくらい濃いのも嫌いじゃないけど、いくら最先端の優良品でも、吸い過ぎがよくないってのは変わらないんだからね。いつもより濃く染み付いていたらしい臭いを指摘する口に嫌味の意図は感じられない。むしろ、嬉しそうですらある。

「……つーか、前々から気になってたんだが……吸わねェ癖に、なんでそんなに嗅ぎに来るんだ? 俺が言うのもアレだがよ、この手の臭いが好きってのはやばいぞ?」
 理解不能だと首を傾げると、信じられないものを見たというようになまえの目が大きく開かれる。
「なにそれ。やだ、その言い方ってちょっと失礼。それって、まるで『煙草の臭いがしたら誰でもいい』って言ってるみたいよー」
「あー……そうだな、悪りぃ」
 誤魔化す様子も茶化す素振りも一切なく、こうも真っ直ぐに答えを突き付けられては敵わない。むしろ、ここまで言われた上でさらに意図がわからない振りをする方がかなり難易度が高いだろう。
「おい、だからって、また嗅ごうとするなって」
 けれど。
 再び寄せられた頭を調子にのるなとぐいと押しやったところで、至近距離で見たその顔にようやく違和感を見つけることになる。高いテンションと締まりのない口調にばかり意識がいっていたが、そういえば先ほど「精気のねぇひでぇ顔」と聞いたのだとも思い出す。改めて見れば、それも納得だ。なまえの瞼の下では化粧でも隠しきれていないクマが姿を見せているし、肌も少々荒れている。
 そんなメレオロンの不躾な視線を受けて、彼女も何を思われているのかを察したらしい。やだ、見ないで、と慌てて身を引いたなまえは、メレオロンの視界から逃げるように手をかざすと必死で顔を隠し始めた。
「あーもう! だから、今からたっぷり入浴剤入りのお風呂に浸かって、パックして、そんで栄養ドリンク飲んで会いに行くつもりだったの!」
 ちらちらと指の隙間に見える顔は、随分と赤い。珍しく焦りを露わにするなまえの姿にメレオロンの口元は自然と緩みだす。視界を覆っている筈なのに、笑われたことだけはわかるのだろう。取り繕おうとする心のままに彼女は更に饒舌になる。

「だって、ずーっと缶詰よ。ちょっと数日ってつもりだったのに、なんか今回に限っていつまで経っても帰してもらえないし……。四六時中、好きでもない人たちと一緒でコレクションまで蹂躙されるのよ! そりゃ、ストレスだって溜まるでしょ? あーやだ、だから、そんなちゃんと見ないでって。化粧ノリも腫れてる目もわかってるから、だからお願いだから何も言わないで。ああ、私を見ないでー!」

「……いや、その、あれだ。……そんなに気にするほど、酷くはねェぜ?」
「そんな気を使いまくったフォローなんて要らないよー! 大体、なんでこんなタイミングでメレオロンが…………って、あれ?」
 崩れ落ちたままイヤイヤと頭を振っていたなまえは、続ける筈だった言葉を放り投げて動きを止めた。そして、しばらく沈黙した後ゆっくりとメレオロンの方を見上げ、指の間からそっと瞳を覗かせる。
「……なんで、メレオロンが居るの?」
 痛いところを突かれて、今度はメレオロンが答えに窮する番となる。
 なまえが不思議がるのも、無理はない。
 今まで自発的に彼女を訪ねることなどなかったし、それどころか、自分から声をかけることすら滅多になかったのだ。

 それなのに久しぶりに彼女が帰宅したこの夜に限って、こうもタイミング良く、というのはどう誤魔化そうとしても誤魔化しきれない程に不自然の塊だ。きょとんと見つめるなまえにどう返したものか迷った挙句、メレオロンは諦めることにした。
 だが、まさか……寂しかったなんて、不安だったなんて。そんなことは、一言だって漏らすわけにはいかない。
 その上、食事も放って走って帰ってきた……なんてことは更に言えないので、あの常連客とたまたま道で会ったことにしよう。
 そうして、極力普通に何気ないようにと言葉を選びながら、いつもの調子を試みる。


 なまえの声と姿を確かめながら、メレオロンは気付いていた。
 ここ数日、しつこい程にまとわりついていた暗い感情が、いつの間にか嘘のように消えている。
 決して、愛想を尽かされたわけでも、見限られたわけでもないことは、今更確かめるまでもなく明らかなことだった。けれどそのこと以上に、ただ普段通りの彼女を前にしているというだけで、こんなにも心が晴れるのだ……ということを自覚してしまい衝撃を受ける。
 こんな胸の内を知られたら、きっと恥ずかしくて情けなくて、今すぐ彼女の知らない「神の不在証明」で逃げてしまいたくなるだろう。
 しかし幸いなことは、なまえがこの心に気が付く可能性は微塵もないということだ。それくらい、今の彼女は自分のことに忙しい。女心なんてものはよく分からないが、いつもとは違った意味で挙動不審な彼女の姿にそんなに顔を見られたくないのだろうかと気の毒になってくる。
 ただし、それでも。
 ここで「じゃあまたな」と帰って、また彼女からの誘いを待つようでは、今までと何も変わらない。ここ数日のことと、今こうして彼女を前に感じている高揚を思えば、メレオロンとしてもこの思いつきを口にしないわけにはいかなかった。



「つまり……まあ……久しぶりに、飯でもどうかと思ってな?」
「え……え、えええ!! ちょ、え、うわ、今、私を……私を誘ってくれた!? うわどうしよう、メレオロンからの初めてのお誘い……!! え、そうだよね、これはアレだよね、思い違いじゃなくて、本当にお誘いだよね?」
 顔を覆っていたことも忘れたように、勢いよく食らいついてくるなまえ。細められた彼女の瞳の奥に認められるのは、精神的余裕のない者に特有の危険なギラつきである。反射的に前言撤回して逃げたくなるものの、今更遅い。
「やった嬉しい。どうしよう、どこ行こう、何食べよう、あ、ちなみにメレオロンは昨夜は何食べた? ……っと、でもごめん、さすがにちょっとだけ用意していいかな。さすがにこの調子でデートは沽券にかかわりましてですね」
 地の果てから這い上がってきたような陰気な声でベルに返事をした数分前が嘘のような、このハイテンション。むしろ徹夜明けか、はたまた過度の飲酒での暴走時を彷彿とさせるような、このハイテンション。
 言われなくたって、今の彼女が無理をしていることくらい容易に想像がついてしまう。もっとも、彼女のことだ。今この瞬間も、疲れた身体が高揚に引きずられているのだという自覚自体、ないかもしれない。
 それとも……そんな意識すら疎かになってしまうほど、彼女にとってはこの訪問が嬉しかったのだと、思ってもいいのだろうか。
 そんなことを考えてしまった瞬間、なまえの高揚が伝染したかのようにメレオロンの鼓動は早まった。

 目の前にいるのは相変わらずの彼女で、それはつまり当人が言うところの、普段なら絶対に見せないであろう絶不調な状態の彼女なのに。なのに、なのに。そんな姿のなまえが、今日に限ってやたらキラキラと輝いて見えるのは何故だ。ただの錯覚にしては、タチが悪すぎる。
 そして、なによりも……顔色の悪い肌を、それでもこうして健気に染めながら笑いかけてくる姿が……いけない。


 ゆっくりと立ち上がって奥へと進み始めた弱々しい身体が、今にも倒れ込んでしまいそうだと感じた瞬間。
 何を考える間もなくただ反射的に、メレオロンの腕は彼女に向かって伸びていた。



(2014.12.16)(タイトル:銀河の河床とプリオシンの牛骨)
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