■ 建設的な愛情の育て方 1

 ふう、と普段よりも幾らか重く長い息を吐いたメレオロンは、そのまま静かにカーソルを移動させて惜しみながらも画面を終了させた。

 恐る恐るの雨だれ式タイピングから始めて数日。おぼつかなかった指先は、今ではするすると滑らかに思考のまま文字を叩き出すまでになっている。
 講義の内容もどんどん具体的になものになり、より現実的な手段の話しになった。電脳通信手段や情報処理について学べば学ぶほど、やりたいこととやれることが増えていく。正直今日も学び足りない。もっともっと時間が欲しい。しかし、機械も場所も講師への報酬も、一つとして自分では用意できず何から何まで世話になっている分際だ。
時計を見ながら「じゃあ、そろそろ時間だしね」と穏やかに言われてしまっては、仕方がない。

 プツリと小さな音を最後に電源が落ちたのを確認して立ち上がれば、講師役の男性も立ち上がった。そのまま、二人揃って扉に向かう。
 人当たりのいい笑顔のままで、けれど満更お世辞だけでもない口調で、飲み込みが早くて凄いねとさらりと言われ、つい、なんと答えたものかと戸惑ってしまう。うっかり思いつくまま「教える人の腕がいいからだ」と返した場合、この講師はきっと減点を告げるだろう。なぜならこれもまた授業の一環だろうから。この世界をより生きやすくするための知恵はなにも電脳の触り方だけではい。

 けれども、言葉を選んでいるうちに好青年の口がまた動いた。最初から重要なのはこの先だったらしい。

「そろそろもっと専門的なこともやっていこうか」

 専門的なこと? と疑問符を用意して振り向いたところで、想像以上にギラギラと輝く瞳とかち合いぎょっとする。
 たった一瞬のうちに大切な一線を越えてしまった男の笑みは、普段からは想像できない凶悪さだ。そしてなにより応対する自分の顔を引き攣らせるのは、こんな表情をする人間に覚えが有り過ぎるという事実だったりするのだから救えない……いや、そんな人間たちだったからこそ自分は救われたのだけれども。
 ああ、そうか。呟く代わりにそっと長い息を吐く。
 普段の物腰の柔らかさについ失念しがちになるのだけれど、こんな優男に見えるこの人物も、目的の為に手段を磨き、獲物を狩ることに執念を燃やす"ハンターらしいハンター"だった。
 今更すぎる事実を思い出して、いつの間にか緩んでいた気を引き締める。


 そう。自分たちのいた場所は町の学習教室などではなくハンター協会の本部ビルの一室だし、この男もただの人畜無害な講師などでは勿論ない。
 入り込めない場所はなく、読み取れない情報はなく、手懐けられないシステムはないと評されるほどに電脳世界と蜜月関係にある星持ちのハンターだ。考えるまでもなく、キーひとつまともに叩けないようなひよっこにつける講師役としては随分と過ぎた人選である。



  ***



 この社会で(少なくとも当面は)生きていくとした以上、例えばパソコンなどの機械は使えないよりは使えた方がずっといい。せめて一般人程度に電脳ページで情報収集くらいは出来ないと効率が悪くて仕方がない。傍らのなまえ見ていると、強く強くそう思った。
 とはいえ先立つものがない現状で、道具一式なんて高級品が買い揃えられるわけがない。そもそも、どこから手をつけていいのかもわからない。けれども、幸いにと言うべきか。不意に生じた思いつきとその思いつきを実行に移すまでの戸惑いは、メレオロンひとりの頭を飛び出してあっという間に実現可能なところへ着地することとなった。
 ことあるごとに電脳的音信不通かつ短期的あるいは長期的消息不明に陥るなまえに業を煮やしていた面々が、これをまたとない好機と捉えたのだ。むしろ、自身の不得意分野をメレオロンが補うという可能性に無邪気に目を輝かせた彼女の反応が一番控えめに思えたほどには周囲が乗り気だった。

 かくして、抜群の追い風により技能修得の機会は得たのだが、なにせ求められているのは……現役ハンターのサポート役である。当然、ただの教養レベルで済むはずがない。そしてその点を"強く"考慮して派遣されたのが、あの電脳方面を得意分野とするハンターだった。
 ちなみに、まだキーの叩き方すら知らない時点で「この"講習"の間に何があっても一切協会に責任を求めない」という念書にサインさせられ、続いて改めて講師である青年自身とも多数の制約を"個人的に"交わすことを求められた。そして先ほどの意味深な一言。つまり用意されたこの道の先は、"それほどまでも"表沙汰になってはいけない場所ということである。

 自分のような異物に対して、これほどまでの"教育"を行うことは大丈夫なのか。おまえら絶対おかしいだろ。そう呆れる反面、けれどもそこまで念を押すほどのものが飛び出てくるのかと高揚せずにはいられない。

 明日からのことを考えるだけで、知らず知らずのうちにひゅうと口笛が漏れる。
 ちなみにポケットに隠した指先は、もうずっと意識を離れてわきわきと踊り続けている。


 技術が手に入る。生きる術が手に入る。彼女の助けになれる。彼女のそばにいる意味が出来る。そんなふうに浮かれていたのはいつまでだったか。

 もはやこの件に関しては、単純に自分のためなのかなまえのためなのか、むしろなまえが喜ぶことが前提にあっての自分の喜びなのか、判別がつかなくなっている。けれど、戸惑う時間すら終わっていた。今は別にわからなくてもいいかと思っている。だって出来ることが増えるということは、いいに決まっている。

 彼女の横にいても、そうでなくても、どちらにせよ技術や知識というものは多く深く修得するに越したことはない。そして事実として彼女はこの方面に関してはからきしダメで、しかも努力でどうなる次元でもない。仮に"どうにかなる"ことがあるとすれば、それはなまえという蒐集家が書物への愛を失くした結果だろう。そして断言できるが、そんな日はまず訪れない。

 だからこそ、そんな彼女だからこそ。その彼女が、愛する書物と天秤にかけて諦めた電脳という"可能性"を自分が補う事ができたなら。そうなれば……なまえの横にいていいのだと胸を張れるような気がするではないか。


 もっとも、たとえメレオロンという生き物が彼女の不足を補えなくても──つまり電脳から情報を引き出せなくとも、車を運転出来なくても、あるいは料理が下手なままでも、彼女は気にはしないだろう。これまで生きてきたのと同じようになまえは欠点だらけの彼女自分を抱いて不自由ながらも自由に勝手に生きていくだろうし、変わらずメレオロンにも笑いかけるだろう。
 少なくとも出会ってから今日まで、どんな形であれ彼女から「有用であるように」と求められたことはない。幾らでも使いようがあるはずの透明化すら利用しようとはしないのだから、彼女のそれは徹底している。

 けれども要求されないからといって、ただ甘やかされるまま愛でられて、彼女と協会の庇護下でのうのうと生きているだけの腑抜けになるつもりは毛頭ないのだ。

 いつになったらこの街から出られるのか。
 自分では身の振り方ひとつ満足に決められないこの身が、新たな選択肢を示されたのはつい先日のことだった。
 それはつまり、ハンター協会の飼い犬となって指示の下で働き続けるか、用意された土地でひっそりと暮らすか、特定のハンター……つまり彼女の管理下に収まるか。

 どの道も、首輪が付いていることには変わらない。
 それでも、前ふたつと最後のひとつではその意味も内容も全く異なっている。なにより明らかに浮いた三番目は、"メレオロン"という得体の知れないキメラ=アント一匹を得るために、彼女がそれなりの代価を払ったことをこれ以上なく知らせている。
「まあ、そんなに難しく考えなくても大丈夫。あとは私にお任せってことだから、メレオロンはもうなーんにも気にせず好き勝手にしてくれたらいいって」
 ハンター協会からの通知を受けて驚いている自分の横で、あっけらかんと彼女は言ってのけた。協会の監視もすぐになくなるだろうし、そうしたら頃合いを見て契約は解くから。だから今だけ、ちょっとだけ我慢してね。
 ハの字の眉で告げられた言葉に今度こそ我が耳を疑った。つまり彼女は最初からその気だったのだ。あくまでこれは方便で、支配で縛るつもりなどないのだと。メレオロンは自由なのだと。どこにいっても何をしてもいいのだと。
 むしろいつものような強引さで、これでずっと一緒だとか騒ぐと思っていたのに、そんなことも一言も口にはしなくて……そろどころか、ただただ手放すことが前提となった未来の話ばかりを嬉しそうに並べていく。

 協会内での彼女の立場や扱いがそこまでよいものではないことなどとうに気が付いていた。そんな中で相当の根回しをしただろうに、恨み言のひとつも、恩着せがましい言葉のひとつもなまえは口にしない。
 あれだけ嫌がっていた協会本部や"資料室"に、あの日以降も何度も何度も出向いていたくせに。その度に、憔悴して帰って来ていたくせに。
 うまく隠せたと思っているなら、甘過ぎる。そこまで見くびってもらっては困る。



 ──「資料室のコレクションにどうしても読みたい本があって」通っていた、なんて。
 確かめたところであいつはもちろん本当のことなど何も言わねェだろうが……そんな見え透いた嘘、わからねーわけがねェだろう?



(2015.02.06)(講師役ハンターに特に元ネタはなし。タイトル:プルチネッラ)
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