■ 3(完)

 誰にも出会わない廊下の先にある自室に戻って一息ついたメレオロンは、さてとと呟き部屋を出てもう一度やはり誰とも出会わない廊下を歩いて突き当りのエレベーターに再び乗り込んだ。電子画面の数字が増えていくのを数回見送り、開いたドアの向こうへと迷いなく進み──誰とも出会わない廊下の途中の、もう何度訪れたかもわからない見慣れた一室の前で足を止める。

 ピンポーンとチャイムの響きに続いてパタパタと足音がやってくる。がちゃりと扉が開き、溢れるような笑顔が出迎えてくれる……という展開にはならなかった。
 聞き耳を立ててみても、玄関に向かってくる誰かの足音など一向に感じられない。けれど今日のこの時間、住人が在宅しているだろうことは確認済みだ。しっかり鳴ったのだから機械の故障というわけでもないだろう。けれど、ここでもう一度鳴らしたところで結果が変わらないだろうことは、もう経験で知っている。
 軽い吐息と共にカクンと首を倒したメレオロンは、あーあと小さく呟き苦笑した。まーったくもう、あいつめ。またかよ。


 別にいらないと断りかけた合鍵をああも無理やり押し付けてきた理由は、きっとこうなることを見越してだろう。

 そもそも、ご自由にどうぞとは言われているのだ。にもかかわらず一旦ベルを鳴らすのは、言ってみればメレオロン側のこだわりでしかない。何度開けても慣れる兆候のない鍵を使って、若干の後ろめたさを胸に扉を開ける。邪魔するぜと声をかけつつ明るい室内を進み……見えた人影にほっと息を吐く。ほらやっぱり。住人はそこにいるではないか。
 リビングのソファ越しに見えたなまえの後頭部に、数度呼びかけながら近づいても反応はない。これではチャイムが聞こえないのも納得だ。眠っているのか、なんてことは考えたりはしない。(むしろ彼女のことだ。眠っている時の方が、侵入者に敏感に反応できるだろう。)

「おーい、氷溶けちまってるぜ……って言ったところで、どうせ聞こえねェよなぁ?」

 机の上のグラスを指差し笑っても彼女の反応はない。元は濃いコーヒーだったに違いない液体がなみなみと注がれたグラスの中央では、もう間もなく溶けきってしまうだろう小さな氷が数片浮いている。
 おまけに、横には本が積み上がっている。どんな時間が過ぎていたのか明らかな光景に加え、こうしている間にもページをめくる音が鳴り止むことがない。
 今日はあとどれくらいかかるのかねぇと腰を曲げて手元を覗き込めば、タイトルの横に「下」という文字を見つけてひとまずほっと息を吐く。文字通り「上下」もしくは「上中下」の「下巻」ならば、ページをめくり終えた手が次の一冊を手に取ることはないだろう……多分。いや、少なくとも、次に移るまでに一呼吸の間はあるはずだから、などと思いながらも念には念を入れて周囲の本をそっと移動させておく。
 分厚い本はまだ半分も残っているけれど、このペースならそう時間はかからないだろうと見当を付けて静かに立ち上がり、忘れられた可哀想なグラスへと手を伸ばす。
「って、マジで薄っ!」
 ほら。彼女を待つ間にすることが、もう見つかった。
 無残な味の元アイスコーヒーの代わりを用意すべく、勝手知ったるなんとやらと意気揚々キッチンに向かう姿に悲壮感は必要ない。


 一向に姿勢が変わらない恋人の横に腰掛け、その姿をじーっと見つめる。
 さらさらと流れるように文字を追う眼球の動きは滑らかで、よくもまあそんなにつっかえることもなく読み進められるものだといつ見ても感心してしまう。
 などと思った瞬間、見計らったようにあれだけ途切れなかった動きが止まり、数秒置いて薄く開いた口から「ほぅ」と感嘆が漏れた。
 ジャスト過ぎるタイミングだ。おいお前、本当はオレに気付いてんじゃねェのか?と疑いたくなる。
 もっとも、こういう時の彼女に脇目を振る余裕などはなく本当に文字しか追っていないことなど、充分過ぎるほど承知している。だから全てが今更だし、こんなふうにあれこれ考えてみるのも戯れにすぎない。戯れついでに補足するなら、幾ら脇目も振らずとはいっても、さすがにその気になれば彼女の意識をこちら側に向けさせることは可能だ。
 それは例えば目を覆うとか、本を取り上げるとか、つまりはそういう実力行使というやつである。
 いうまでもなく極めて強引かつ非道な手段なので一度確かめたきりだし、きっとこれからもよほどの非常時くらいしか実行に移す機会はないだろう。
 ちなみにそんな彼女が好むのは、戦線気鋭の小説家による最新作から古典、解説文、論文、紀行文、実用書、歴史書、などなど。あればあるだけ、何時間でも。果てはゴシップ誌や、辞書や時刻表やもう文章と言っていいのかも怪しい地図帳や楽譜すら。
 何でも夢中で読み漁る節操なしな彼女の本日の選択はフィクションだ。それもタイトルからすると推理小説な気分らしく、複数冊にわたる物語の後半部分ともなればクライマックスなのは明白で。これではいよいよ邪魔できない。


「はぁ……良かった……」
 最後の一文まで舐めとるように視線を動かしたなまえは、ようやく視線を上げると静かに目を閉じた。薄く開いた唇から溢れた熱い吐息が、彼女の浸る余韻の深さを物語っている。
 たっぷり数秒おいてようやく現世に戻る気になったらしい彼女は、そのまま時計を確認するように頭を動かすと見事に固まった。
「よぉ、おかえり」
「……あ」
 上気していた頬から見る間に色が抜けていく。見開かれた目には、しゃがんだ膝に頬を乗せてにやにやと覗き込む自分の姿が映っている。糾弾の言葉など必要ない。確かめるまでもなく約束の時間などとっくに過ぎていることに気づいただろう彼女に、にやにや笑いのままで畳み掛ける。
「いーぜ、別に。百面相見てんのもなかなか面白かったしな」
 嘘ではない。テレビなりその辺の本なり時間を潰す手段なら幾らでもあるにもかかわらず、こうして彼女を見つめることを選んだのは自分だ。
 特に、盛り上がりどころなどは非常にわかりやすい。一体誰に共感しているのか、眉も口元も上がったり下がったりと忙しく動くのでなかなか楽しめた。

「うー……ごめん。もっと早く終わるつもりだったんだけど」
 ちゃんと出迎える予定だったのに、とごにょごにょ言う口を気にすんなと封じて、しょげてしまった頭をポンポンと撫でる。約束の相手に放置をくらってこの反応というのは甘過ぎる気もするが、こんなところもなまえらしいと許せてしまうのだから仕方がない。
「昼、食ったか?」
 むしろ朝飯はどうしたと聞いてもいいところだが、さすがにそこまで暴くのは可哀想かと手心を加えて尋ねてやる。すると案の定ふにゃりと崩れる表情に、やっぱりかと本日何度目かもわからない苦笑が漏れる。
「ん。だろうと思って、軽いもん用意しといたぜ」
 いつのまにかすっかり自分のテリトリーとなりつつあるキッチンをくいと示せば、申し訳なさそうだった表情が途端に輝き出すのだから現金なものだ。まるで少女のように屈託無く笑い、メレオロン大好きー!と倒れてくる愛しい生き物。そんな大の大人を身体全部で抱きとめて、よしよしと撫でて髪を梳く。

 ああ、食事なんて後にしてこのまま此処でいちゃいちゃしたい……そんな誘惑にぐらりと意識を揺さぶられるが、誘いの言葉を声に出す前に焦る必要はないのだと思い直す。そう、だって、まだまだたっぷり時間はあるのだから。(ついでに言えば、いい雰囲気のところで空腹が限界に達して中断……だなんて、それこそ冗談ではない。)
 それに、今か今かと出番を待っている遅めのランチへの、なまえの反応も気になる。自画自賛に酔うつもりはないが、それでも今日もなかなか美味しくできたと思うのだ。


 ……さて、彼女は喜んでくれるだろうか?



(2015.02.11)(タイトル:プルチネッラ)
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