■ 羅針盤を片手に

 薄暗いその空間は、書庫と呼ぶにはあまりにも歪だった。
 足元から天井までを繋ぐ壁は一面の例外もなく本棚として活用され、どの列にもぎっしりと背表紙が並んで見える。それだけでも大した量なのに、広い部屋に無数の通路を作るように配置された棚にも一段として空きはない。
 もっとも、これだけならメレオロンだって「図書館のようだ」と言えただろう。
 途方もない数の書物が素人目にも整理され、管理され、次なる利用者のために行儀良く並んでいるようには見えなかったから、歪なのだ。
 僅かな空間を埋めるように横に差し込まれた本、雪崩にならないのが不思議なバランスで積まれている書類、個人名の書かれた無数のファイルから飛び出ているのは手紙だろうか。本棚からあふれたのか、あるいは最初から定位置を与える気がなかったのか、幾らかの山は床にそのまま築かれていた。


「……すげェな」


 ミテネ連邦の中でもあらゆる意味で制限の多いNGL自治国で人生の大部分を過ごしたメレオロンは、外界に対する知識が乏しかった。
 "蟻"として生まれ変わってから今に至るまでのこの短期間の内に、持ち前の知能と処理能力でかなりの情報は得たもののそれでも充分とは言い難い。特にこうして討伐隊の任務完了とともに、教育機関は勿論のこと社会基盤が整っている他国の、それも都市部に移った時にその知識の差は歴然となった。
 (余談だが、同じくNGL出身のイカルゴは裏組織に所属していた経験からか幾分すんなりとこの社会を受け入れることができていた。)

 元討伐隊の面々がその違和感を違和感として認識し始めるより前に、メレオロンに会うためだけにせっせと通い詰めていたなまえはそれを問題とした。なお、彼女はこの気づきを"愛の力"と言い胸を張ったが、勝ち組人生を体現する女の唇が告げる"愛"などメレオロンにとっては笑えないジョークでしかなかった。

 それでも、甲斐甲斐しいアピールだか単に面白がっているのだかわからないなまえが持参する子供向けの学習本はどれも得難いものとなっていた。
 そして、人間よりも優れた"蟻"の学習能力により驚異的な速度で知識を吸収し己の視野を広げ始めたメレオロンはすぐに気づいてしまったのだ。飄々とした態度で、どこか無造作とも思えるような気安さで渡される本たちが、実は読み手の思考や理解度を深く意識した上での選書であると。三日前なら読み解けなかった内容。別の流れですでに関連書を読んでいたからこそわかる近代史。情報は知識となって四方に枝を伸ばし、別の枝と絡み、交わり、また伸びていく。

 なにかのついでにメレオロンがそう彼女のことを口にすれば、旧知であるナックルやシュートはそりゃそうだと声を揃えた。

「そりゃ、なまえだからな。『歩く本棚ブックシェルフ』や『書類整理箱レターケース』って名は伊達じゃないってことだ」


 そして、あの呼び名がただの揶揄ではなかったことを、こうして能力を目の当たりにして思い知る。
 あるはずのない空間に入り込むという体感はノヴの念能力を思い出したが、見渡す限り本棚と本で埋め尽くされている空間は彼のそれとはまるで違う。
 収納を優先させた結果という発言を信じるのならば、この光景は日々更新されていることになる。
 単なるオブジェではなく中身のある図書として再構成したものを、本棚という形で収納し、書庫という形で再構築し続けていく。しかも、別のなにかを本にするのではなく、本をそのまま本として記憶するためにだなんて。効率も常識もかなぐり捨てた狂気の沙汰としか思えない。もっとも、この空間が念で作られた空間である以上、これらの書物が本当はどういった存在なのかは当人にしかわからない。

 だから、今はただ。
 途方もない図書を収め増やし続けているというこの空間を維持できること自体に、圧倒された。

「つーか……こりゃ、『書類整理庫』っつーよりも『書庫アーカイブ』だろうが……」

 振り返ったなまえは満足げに笑い、再び一歩二歩と奥へ進む。

「ふふ、いいでしょう? どれでも手に取っていいよ……って言いたいけど、こういうのは順番が大切だからね。とりあえず、こないだの"教科書"をもうちょっと詳しくした感じのから入ってみて、次は地理と歴史と、特に政治面から見たものを平均的に。で、おおよそが掴めたら仕上げとして、時流を理解するために有名どころのファンタジー小説とかああそうだ恋愛小説もちょっと読んでみたらどうかなー?」

 歌うように喋りながら、道すがら一冊一冊と抜き取っていく手に迷いはない。
 そうしてあっという間に数冊の本を抱えると、振り返ってこっちこっちとメレオロンの名を呼んだ。
 慌てて足早に近よると途端に目の前の光景が切り替わる。右も左も後ろも相変わらず本の森には違いないのだが、不思議な事に目の前にだけ、ぽっかりとなにも無いスペースが広がっていた。

 一瞬前までは、確かにそこにも本棚が存在していた筈なのだが。
 大きな目をぱちりと瞬いたメレオロンの問いに、なまえはあっさりと答えてみせた。

「腰を下ろして読みたいでしょ?」

 問いの答えにしては微妙に期待からずれていた。なんと返したものかと考えている間にも、なにもおかしい事はないという顔で「さあここでどうぞ」と勧められる。
「そうだ。何だったら、革張りのソファとかコタツとか、畳とかも用意出来るけど。ああ、でも、この空間が禁煙な事には変わりないから。もしどうしても吸いたくなったら、そのベルを鳴らしてね」

 そのベルならどこに居ても聞こえるから、となまえが指差す先はメレオロンの首である。
 受け取った時には小さな鍵の形をしていた"それ"は、この空間に入った瞬間に入館証へと姿を変えていた。メレオロンの顔写真と名前が入ったネックホルダーには小さなベルが付いているのだが、不思議な事に先ほどからどれだけ動いてもかすかな音も発しない。

「鳴らそうとすればちゃんと鳴るから大丈夫よ。あとはまあ、利用規約を破ろうとした時とかもね」

 メレオロンの為に場を整えたようなことを言っておきながら、早々に「ついでに私も」と本を開き始めたなまえはもうすっかり真剣な目つきで文字を追っている。

 本の山の中で、パラパラとページを捲り文字を追うなまえ。その姿が、不意にメレオロンの記憶の奥底にある懐かしい姿と重なった。
 最初に頭に浮かんだのは、積み上げられた本の中に立つ男の姿だった。しかしすぐに、その記憶は現実の光景ではないと気づく。NGLでただの末端の住人として静かに暮らしていた善良な養父に、積み上げられる程の書物が入手出来たわけがないのだから。
 だからつまり、実際に見た光景というものは、あの土で出来た巣に集められた本の山と、それらの知識を貪欲に吸収しようとするペンギン型の"蟻"の姿でしかない。

 それでも。
 そのペンギンの姿と、もやの向こうの朧げな男の姿と、目の前のなまえの姿は柔かく重なり、メレオロンの胸を内側から軋ませる。
 瞳を輝かせながら本を集めよと指示を出した"ペギー"と、情熱のままにこれほどの空間を作り上げてしまった"なまえ"の姿がリンクする。
 狭い世界でNGLの教本だけを胸に抱いていた養父の"ペギー"と、未知を塗り替える知識を求め、貪欲に理解・修得することを選び、実際に望みを叶えていた蟻の"ペギー"。あの巣の中で多くの本に囲まれていた蟻の姿を思い出すと、ほんの少しだけ養父の人生にも慰みか……あるいは一匙の救いがあったかのように思えてくる。

「……目、潤んでない? どうしたの? やだ……ひょっとして、そんなに禁煙が嫌だったわけ?」

 いつの間にかこちらを凝視していたなまえの声に我に返ったメレオロンは、慌てて袖で目を覆うとなんでもないさと腰を下ろした。



(2014.10.24)
[ / 一覧 / ] 

top / 分岐 / 拍手