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 まるで嘘のような話だが、このガキは"過去"から来たらしい。そして、この子どもの代わりになまえは今"過去"にいるのだという。


 住所、秘密。名前、秘密。生年月日、秘密。その他一切の情報も秘密で覆われた幼女が吐きだす不足だらけの言葉を巧みに補完しつつ、メレオロンは内心ほうと舌を巻いていた。
 意思疎通のセンスと言葉の選択が残念なことにばかりに意識が向き気づくのが遅れたが、この年頃のガキにしては随分と肝が座っている。見知らぬ土地の見知らぬ部屋でカメレオン男に問い詰められるという状況にあって、怯えて泣き叫ぶでもなく意識を手放すでもなくただ「どこまで答えたらセーフなのか」とうんうん考え込むなど大人でもそうそう居ないだろう。いや、だがまず、発言を真実とするならば"未来"という世界において見るものすべてに興味を惹かれ浮き足立つか環境の違いに戸惑う方がまっとうな反応だろう。たとえばこれがなまえならば、未知との遭遇に大興奮の挙句、ギラギラした瞳で話も聞かずに一心不乱で情報収集にかかりきりだろう。質問しようとする側が逆に質問攻めに合う様は目に見えている。……ああつまり、きっと彼女は今入れ違いになった"過去"でそんな感じでいるに違いない。

 当初はどうなることかと思ったが、聞けばかかっても一、二時間程度のことらしい。当事者に「いつものことだよ」と言い切られれば、いつまでも気に病んでも仕方がない。この時間に取り残されたメレオロンに速やかに状況を打破できるだけの手段がない以上どうしようもないのも事実なので、今はただこの位置交換の儀式とやらを見届けて、戻って来たなまえへの土産話にするのが一番だろうと腹を決める。ついでに、きっと顔に出さないだけで内心は心細いだろう幼女への気遣いとして、これまた明るい声でリビングへと誘いをかける。
「そんなとこに座ってねェで、あっちでミルクでも飲まねェか?」
「んーん。それに、あのね、ここにいないとなの」
 ガキにはミルクだと思ったがジュースの方が良かったか、と考えたがそういうことではなかった。
 座り続ける子どもの目は確かに開いているというのに、その瞳が何も映してはいないことに気がつきゾッとする。ああそうか、肝が座っているのではない。大人びているわけでもない。ただ、諦めているのか……。
 清潔そうな服を着て、栄養が足りていないでもない、当たり前に"普通"に生きているような、それどころかむしろ役目としてはどこまでも"特別"で"大切"にされているだろう子どもが、こんな目をしていることがとても意外だった。
「……お嬢ちゃんよォ、もっと"先"にも行ったことがあるのか?」
「うーんと……わかんない。しらないのははおぼえてるけど、それだけだから」
 そこになにがあったのか、どんなところだったのか、そういうのはあんまり覚えていられないと子どもが説明する。相変わらずぼんやりとした口調で、けれど言わんとすることははっきりしていた。
 それに、ぜんぶ忘れなさいって"せんせい"が言うの。そこになにがあってもわたしには関係ないから、できるだけはじめから見ないようにして聞かないようにして、ただじっとしていなさいって。

 対するメレオロンの眉間に深い皺を刻むには充分なほどに、その答えは完璧だった。物分かりの良い子どもは"分銅"としては褒められるものなのだろう。だが、まるでただの働きアリ(道具)であれと命じるような物言いはこれ以上なく癇に障った。"自分"を取り戻す以前の、ただただ巣の繁栄と残酷な愉しみの為にだけ生きていた隷属の記憶は今でも鈍痛を伴って蘇る。
 肉を裂く感触と流れる血の臭いを振り払うように、メレオロンは握った手に力を込める。代わりに思い出すのは、たったひとりの存在だ。いつだって好奇心旺盛で、どんな事態にだって柔軟に歩み寄り、選択することが出来る人間。そして、「閉じた世界はつまらないじゃない」と笑って異形の手を引き、連れ出した陽の下で愛を囁いてくれる逞ましい恋人。


「オレにはよくわかんねーけどよ。最終的に忘れちまうってことと、そもそも知ろうもとしねーってことは違ェんじゃねーのか?」
 そんだけ面白い経験が出来るんだから、儲けモンと思わなきゃ損だと思うがな。たとえばオレの知ってる奴なんてなァ、何でもかんでも知りたがった挙句、手当たり次第に新聞やら雑誌やら契約しやがってな。仕分けるのもオレだし移る度に連絡すんのもオレだし、おまけに、なんかありゃまるっと放置で好き勝手に潜りに行くから手がかかって仕方ねェんだぜ……っと、ハナシが逸れちまったな。……まあよ、そんな奴にとったら、時間移動なんてスゲー羨ましいモンに映るだろうよ。

 愛しの彼女のこととなると饒舌になってしまうのは今更なことで、困った困ったと愚痴めかしつつも次第に緩む目元口元に呆れられるのもいつものことである。が、さすがに今日の相手は見知った相手ではなく初対面の幼女なので、ツッコミの代わりに向けられたのはピュアな視線だ。しかし不思議なことに、これはこれで恥ずかしくなってくる。

「わすれるのに、聞いてもいいの?」

 どうやら戸惑いの元はメレオロンの惚気に対してではなかったらしい。ぱちぱちと動く瞼にようやく年相応の幼さを感じ取り、当たり前だろうがと答えてやると更にぱちぱちが返ってくる。

「何でもかんでも覚えていられりゃ、そりゃその方がいいんだろうけどよ。けど全部覚えてるってのが幸せかどうかっつーとそうでもねーし……いや、なんでもねェ。でな、お嬢ちゃんはまだガキなんだから、難しいこたァ考えずに興味の向くままにあれこれ尋ねてみりゃいーんじゃねェか。それに、知らねェことを知るのってワクワクすんだろ?」


 知りたがり屋の筆頭のような恋人よりも随分と聞く態度がなっている子どもは、しばらく考え込んだ後に、ようやく思いだしたらしい好奇心に瞳を揺らしおずおずと顔を上げた。
 じゃあ、あのね。
「わたしの代わりのひとは、女のトカゲさん?」
 ここは何処とか、背後にこれでもかと積み上げられた本についてだとか。さて一体どれを尋ねてくるのだろうこの子どもは……と身構えていたところに投げられたのは予想外の質問で、思わずおおきな口をぽかんと開ける羽目になる。そして合点がいくと同時に、肩の震えが止まらなくなった。ああそうだ、そういえばこの子どもはここに来てから他の誰とも出会っていないのだ。そして、なによりも自分こそが彼女について詳細を教えてはいない。

「ひー、苦しいぜ。そうだよな、オレみたいなの見てりゃそう思っちまうよな。安心しな、トカゲなのはオレだけだ。アイツはちゃんとニンゲンさ」



(2016.01.05)(タイトル:亡霊)
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