■ 5

 ──くぅぅぅ

 控えめながらもしっかり主張する音に振り向くと、音の主はおかしいなぁと呑気に腹に手を当てていた。なるほど、まだ恥ずかしくはない年齢なのか。

「あーそうだな、もう結構経つからなァ。よし、なんか食うか?」
「ううん。食べちゃだめだから。おもさがかわるんだって」

  そういえば、ミルクも断っていたなと思い出す。これもまた、条件なのだろうか。
 沈黙をどんな意味に受け取ったのか、変なところで気配りが出来るらしい子どもが「トカゲさんは食べてもいいよ」と言う。けれどもさすがに、腹音を響かせる幼女を放ってひとり食事を楽しめるほどに"人でなし"ではないつもりだ。

「オレは腹減ってねェしな。つーか、まだ帰れねぇのかよ」
「いつもはね、もっと早くおわるんだけど。せんせい、いっぱいお話してるのかな」
「おい、まさか何かあったんじゃ……」
「だいじょうぶ。失敗した時はぎゅぎゅーって戻されるだけだから。お腹はへったけど、でもほかにいやな感じはしないもん」

 もしや異常事態かと焦りかけたメレオロンを、幼女が自信たっぷりに否定する。
 とはいえ不安が完全に拭えるわけではないが、今はこの子どもを信じるしかないのだ。相変わらず得体の知れないガキではあるものの、一緒にいて嫌な感じがしないのは幸いだった。

「あ、ちょっと待ってろよ。いいモンがあるぜ ──ほらよ」
「え、あの、だから食べちゃ……」
「キャンディくらいならいいんじゃねェか? 腹の足しにはなんねーかもだが、気は紛れると思うぜ」

 帰宅途中で買ったキャンディを今更ながら取り出してみる。
 ショッキングピンクの包み紙はこのあたりならどこの店でも手に入る定番の銘柄で、特に飴好きというわけでもないなまえの唯一に近いお気に入りだ。他の街でも見かけるたびに買い求めていたのだからその執心は余程のもので、今だってゴミ箱にはピンクの小山が出来ている。そんなわけだから後から拗ねられるかもしれないが、年端もいかない、それも空腹の子どもにひとつふたつ与えるくらいは大目に見てもらいたい。
 ほらよと差し出せば、小さな手が恐る恐るという様子で受け取る。物珍しそうに透かしたり手に置いたりして眺めていた幼女だが、ついに欲求が戸惑いを凌駕したらしく包みを解き始めた。

「……うわぁ」

 小さな唇に飴玉を含んだ子どもの瞳は、初めての感動にキラキラと輝いていた。
 あまりにも素直な反応を前に、一部始終を見守っていたメレオロンの口元にも笑みが浮かぶ。諦めきった目より、この方がずっと子どもらしくて好ましい。気に入ったようだなと声をかけると、首がぶんぶん揺らされる。

「おいしい。これすき! ありがとう!」

 ゆっくりと少しでも長く味わおうとするかのように飴を転がしていた幼女だが、その笑顔は次第に消えていく。黙り込んでしまった肩にどうしたのかと尋ねれば、鮮やかな包み紙には似合わない硬い声が小さく響いた。

「おぼえていようと、思って」

 覚えていたいのだと望む姿が想像以上に悲痛なものだったから、メレオロンは己の浅はかさを顧みないわけにはいかなくなった。何も見ず、何も食べず、何も残さず……それは能力者の存在を隠すためだけでも、時間移動を正しく行うためだけでもなく、分銅である幼い子どもの精神を守るためでもあったのかもしれない。

「別にな、こんなキャンディなんてどこでも売ってるモンだからよ。お前がどこから来たのかは知んねェけど、生きてりゃそのうち食うこともあるだろうし……なァ、そんな顔すんなよ」

 そんなふうに泣きそうな顔で唇を噛むくらいなら、いっそ泣いてしまえばいいのに。
 感情のままに泣きじゃくるガキなど極力遠慮したい存在だったのに、この瞬間は確かにそう願っていた。笑っている方がいい。けれど、感情を殺そうとするくらいならまだ大声で泣きわめいてくれる方がずっといい。ここにいるからこの子は苦しむのだろうか。元いた場所に戻れたら、この子どもはまた笑うのだろうか。この時間のことなどすっかり忘れて、"せんせい"に褒められたと喜ぶのだろうか。
 かける言葉を見付けられないメレオロンの前で、一滴の涙も流さないまま幼女がそっと目を閉じていた。ほんの束の間触れ合っただけの子ども相手に、なぜこんなにも戸惑わなくてはいけないのだろうか。

 ──ああ頼むぜなまえ、早く戻って来てくれ。



(2016.01.06)(タイトル:亡霊)
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