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 名乗られた名に聞き覚えはなかった。とはいえ、元々ビノールトにとって覚える価値のある名前というものは獲物の名くらいだったし、それすらも狩り終えるまでの短い付き合いだった。
 なまえというハンターが"外の世界"でどの程度の文脈で語られているのかも分からなければ、彼女が成果として挙げる賞金首たちにも心当たりはない。
 だからつまり、落ち着いて思考するだけの余裕を取り戻したビノールトにとって、なまえという女は胡散臭さの塊だった。

 生け捕りが得意だとわざわざ宣言するだけあって、腕には自信があるのだろう。第一級殺人犯の男と二人きりという状況下でも、なまえは怯える様子ひとつ見せず丸腰でくつろいでいる。けれども、彼女の余裕を裏付けるものが理解出来ない以上、ビノールトにとって女の隙を付くことは実に簡単なことに思えてしまうのだ。彼女の言葉も態度も、世間知らずの小娘特有の驕りとしか思えない。
 何より、首にぐるりと巻かれた縄がどうにも外せないということ以外は特に何の異変も感じないのだから。巻かれた時に感じた衝撃もあれきりだし、遠隔操作で絞め殺されるという気配もない。実態を持たない縄の続きが彼女の手元に繋がっていることは見えるものの、かといって具体的に自分の"何か"を封じられている実感もない。
 いったい何が楽しいのか賞金首に向けるにはいささか邪気の無さ過ぎる笑みが、不気味だといえば不気味なのだが……それでもなまえを有能だと認識するには圧倒的に材料が足りていない。見れば見る程、彼女には狩人よりも獲物の立場の方が似合うと思えてしまうのだ。

 だからこうして、数メートル先にある柔肌と、その下で規則正しく鼓動を打つ心臓を思うとどうにも落ち着かない気分になってしまう。弱い。弱過ぎる。踏みにじろうとすれば容易く踏みにじることが出来るだろうし、いつもならとっくにハサミを突き立てている筈だ。
 けれど何故か、今回ばかりは行動には起こせずにいる。
 半ば無理矢理かけられた念の呪縛を引き千切ろうと足掻く気も湧かないどころか、怖いもの知らずを体現するような女を横目に「これも何かの縁だろうか」と溜息を漏らす程に達観してしまっている。ああ……あの岩場で子供達を襲ってから、何もかもが予想外の方向に転がってばかりだ。



  ***



 熱い湯を浴び、こびり付いた土や垢や血を落とし、清潔な服を着て、温かい食事を胃に納め、柔かなベッドに横になったところまでは覚えている。
 あの時、窓の外は暗かった。けれども、今でもまだ暗いというのは、つまり。

「なあ……お前確かに昨日、"今日の朝"出発だとか言ってなかったか……」
「ぐーすか寝てた人が何言ってんの。はい、これ。仕方がないからクリーニング代も懸賞金に含めといてあげる」

 投げられた包みを開ければ、着慣れた服が現れる。
 十日分の汚れを引き受けて廃棄も止む無しと思われた服は、ホテルの超常的なサービス技術により見事に元通りになっていた。これでもう、昨夜与えられたあのいかにも適当に見繕いましたと言わんばかりの"凄まじく尖ったセンスの微妙にサイズの合わない服"を着なくていいかと思うとほっとする。
 ちなみに今のビノールトは備品のバスローブを着て眠っていたわけだが、白いタオル地から荒縄が覗く着こなしはなかなか真似したくない異様さである。

「まあ、投降しようっていう気持ちさえ持続してくれるんなら、出発自体は明日でもいいのよ。どうせ一日二日遅れたって今更だし、賞金額も変わらないし」

 正直、ちゃんと休んで体力回復してくれた方が助かるしね。
 そう言って体を伸ばす女の姿は、ビノールトの目にはやはり年相応の甘っちょろいものに映るのだ。ぺらぺらとよく動く舌も、健康的に色付いた頬も、細い首の下でゆっくりと上下する胸も、程よく肉の付いた腹や尻も、とても美味そうに見える。

 この閉じられたゲームの中は身を隠すにはうってつけだが、狩場としては理想的とは言えなかった。ゲームの特性上どうしたって増えるのは筋の硬い男が多かったし、せっかく女の姿をしているNPCもコマンド通りの反応しかしない。肌を裂いても臓物を引きずり出しても悲鳴の一つもあげないし、それどころか相も変わらず奇天烈なセリフを話し続けるのだからとてもバラして楽しむどころではない。おまけに、事切れるとすぐに消滅してしまうのだ。
 思えば、本当の意味で"生身"の女を食ったのはいつだったか。


 喉元過ぎれば、なんとやら。
 衣を得て、住を得て、そして残る欲求は……?


 昨日はあれだけ薄れていた欲望が、ビノールトの中で再び熱を持ち始めていた。長年培ってきた狂気が、もはや性として身体に染み付いていることは本人すら自覚していないことだった。
 小さな黒目をなまえに合わせたまま、湧き上がってきた唾をごくりと飲み込む。
 ほとんど無意識のまま一歩一歩と動く足が向かう先は当然ながら女のところだし、指先はいつの間にか腰のハサミを探してぐねぐねと動き始めていた。
 纏っている着衣がバスローブだということにも、ハサミが収められたホルダーは机の上だということにも気が付けないまま、ビノールトはその瞬間を夢見てただただ歩を進める。

「っつ……ゲホッ…ゴ…ホッ……」

 けれども、その身体は次の瞬間盛大につんのめった。

「大丈夫? 寝起きなんだから無理しちゃ危ないよ。まあ、でも、ね、寝てただけでもお腹って空くよね」

 思わず膝を付いて噎せるビノールトの元まで軽やかな足取りでやってきたなまえは、そのまま腰を落として目線を合わせると"心配なんて欠片もしていない"という口調で微笑みかける。

「残念なことに、このホテルって食事にバリエーションがないんだって。昨日と一緒ってのも味気ないし、裏の食堂街まで行ってみよっか」

 よし決まり。さあさあ、早く着替えてね。
 急かされるまま立ち上がった時には、胃を焼くような衝動は消えていた。

 痛む首を撫でようとしたビノールトの手は、無慈悲な荒縄に阻まれる。巻き付く縄からも"その先"からも、もう何の圧力も感じない。
 女が"何も起こらなかった"と振る舞う以上、謝罪を口にするのは違う気がした。けれど全てが彼女の意のままなのだと思われるのは面白くなくて、少し考えた後でそっと言葉を絞り出す。
 意趣返しには程遠いが、それでも。

「このままで外に出ろって言うのか……」
「あら、似合ってるんだからいいじゃない? それに、誰が見たってただの麻縄のチョーカーなんだから気にすることないって」


 賞金首が捕縛されたと気付かれることと、好きで"麻縄のチョーカー"を身に付けていると思われることと、一体どちらの方がマシなのか。
 どちらも御免だと思っているビノールトの胸中などまるで推し量る気がないらしいなまえに、これは何を言ったところで無駄なのだなと悟り溜息を吐く。



(2016.07.11)(タイトル:いえども)
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