■ 3

 結論として、翌日に延ばされた船出はそこから更にもう一日延びることになった。


「やだもう、お金があるならあるって早く言ってくれたらいいのに!」
「ああ……すまん」

 トレードショップにある預け金について教えてから、女はずっとこの調子だった。
 上気した頬に浮かれた口調。これ以上なくご機嫌な様子のなまえにバシバシと肩を叩かれたビノールトは、(何度目かも忘れたやり取りにすっかり飽き飽きしながらも)最低限の気遣いで気のない相槌を打ってやる。
 数日前、あの岩場でなまえに"捕まった"時点でビノールトのカードポケットには何のカードも残ってはいなかった。一連の流れを覗き見ていた彼女も当然それは承知していたので、極々当たり前のように彼女の手持ちだけで港を目指す筈だったのだが──夕食の席でぽろりと零した言葉で風向きが変わった。
 これでも、この箱庭で気楽な逃亡生活を送れるだけの金額は貯めてきたのだ。預金を引き出した時のなまえの反応は見ものだったが、ビノールトが得意でいられたのはそこまでだった。
 せっかくお金があるんだから予備のカードも用意しとこうよ、なんて言われたかと思えばあっという間に<同行>でマサドラに飛ばされスペルカードショップに引きずり込まれ、ようやく終われば今度は一息吐く間もなくデパート内を上へ下へと連れまわされる羽目になったのだから堪らない。

「思っていたんだが……港に向かうだけでそんなに物が必要なのか?」

 基本的に、スペルカードというものはゲームクリアを目指すプレーヤー同士の戦闘でより優位に立つためのアイテムである。
 <同行>や<交信>という日常生活を送る上で"あったら便利"なスペルカード以外が、今の自分たちに必要だとは思えない。ただ森林地帯を突っ切るだけならそんな重装備はいらないのではないか。
 するとなまえは、信じられないと目を見開いた。
「いやいや、何言ってるの。そりゃ確かにまっすぐ突っ切るだけかもしれないけど、せっかくなら出来る限り快適に安全に進めた方がいいでしょ? 虫とか日差しとか雑魚モンスターとか、避けられるものは極力避けて通りたいじゃない。それに万が一、鬱陶しいPKとかとかち合っちゃったら最悪だしさ」
 ほら、これも入れといて。
 虫除けスプレーや補給食のカードをビノールトに差し出すなまえの顔はどこまでも真剣そのものだ。
 そしてビノールトがその一枚一枚をバインダーに収めている間にも「モンスターの体液がかかるかもしれないし、雨に降られるかもしれないし、水たまりがあるかもしれないしね」などと心配していたらキリのない事態を挙げながら着替えの服を見繕い始めていた。



 ちなみに。
 散々振り回されても変わらず「納得し難い」という顔をしたままのビノールトに、業を煮やしたなまえが言い放った言葉がこちらである。
「言っとくけど、あくまであなたを思ってのアドバイスなんだからね。自分だけで進むのと、私みたいなか弱い女を庇いながら進むのとじゃ、疲労の溜まり具合とか進める速度とか全然違うんだから。いらない苦労はしなくていいの」
「おい待て。庇われる側が偉そうに言うことじゃないだろ」
 数日前のビノールトだったならば「馬鹿かおまえは」「何様だ」と遠慮なくハサミを突き立てていただろうが、残念なことにこの数日間で彼女への理解を幾らか深めてしまっていた。例えば、選ぶ手段がいちいち奇妙過ぎるからついそればかり見てしまうのだけれど、引いた目で見渡せばそれら手段がただ一つの目的に集約されていくことや、描かれた道筋が実は意外なまでにブレがないものだと理解してしまえるくらいには。
 広いベッドにて与えられる良質の睡眠も、渡された救急箱にぎっしり詰め込まれた治療薬も、テーブルいっぱいに並ぶ料理も、あれもこれも、全て。

 そこにあったのは献身ではない。向けられていたのは労りではない。
 そこにあったのは最初からずっと、彼女の都合だけだ。

 護送にあたり賞金首に賞金首自身を守らせようとするだけでも論外なのに、賞金稼ぎの身までもを守らせようとするなど正気の沙汰とは思えない。けれども、そういった思惑を隠そうとも取り繕おうともしない態度はなぜかそこまで不快とは思えないのだ。挑発でも嘲りでもなく、「だって、できるでしょ?」なんて言葉を"当たり前のことを当たり前に口にしただけ"という顔で言い放つ傲慢さは人としてどうかと思うのに、なぜかやる気になってしまう自分自身がここにいる。


 ──やっかいな奴に捕まっちまったもんだ。
 眉間を揉みながら本日何度目かの溜息を吐き出すビノールトの首には、今日もロープが巻き付いている。



(2016.07.16)(タイトル:いえども)
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