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「忘れてないよね? 行き先は絶対間違えちゃ嫌なんだからね」
「そう何度も繰り返さなくてもわかっている。……じゃあ、先に行かせてもらうからな」

 港に向かうまでのモンスター対策としてこの女が用意した様々なアイテムは確かに役に立つことは立ったが、ただ突っ切るだけの場合と比べるとなんとなく労力と結果が見合わない気がする。いや、そもそもこの女がもっとちゃんと働けばいいだけなのだ。二人分のイベントを一人でこなそうとするのだから、綻びが生まれることは当たり前じゃないか。気が付けばただただ無駄に遠回りをしていただけなのではと思うのは、果たしてオレの気のせいだろうか……って勿論そんなわけはない。この女が悪い。このロープはそりゃ確かに仕方ないとしても、ここまでいいように使われてやる義理なんてないんじゃねえか?


 ──そんなことを考えながらでも、手に入れたばかりの通行チケットはきちんと役目を果たしてくれる。発動を唱えるとたちまちビノールトの身体はそれまでとは違う場所へと運ばれていた。

 目の前にはいつか会ったナビゲーターの少女を彷彿とさせるNPCが立っていた。入場口の彼女がそうだったように、やはり極めて事務的に作られた笑みを浮かべ、いかにもプログラムどおりという調子で淡々と帰還についての説明がなされる。フリーポケットのカードの消滅や、再開までの日数制限、その他の幾つかのルールなど。けれど今のビノールトにとっては関係のないことばかりだ。
 大切なことは、一つだけ。世界中のあらゆる港を背景にしての「どの港を選択しますか?」という問いかけである。いざその瞬間が来た時、ビノールトは反射的に息を呑んでしまったが、しかし勿論言うべき答えは忘れてはいなかった。
 なまえに指示されたのは、ビノールトのマシンがある場所でもなく、彼女のマシンがある場所でもなく、管理局から近い港でもなく、その管理局から三番目に離れた場所に位置するそれなりに栄えた港だった。

 近すぎれば、他の賞金稼ぎの目に止まり手柄を横取りされるかもしれない。かといって遠すぎるのは、それはそれで面倒だ。かといって他の国や地方の施設では、本部への連絡や手続きで無駄に時間をかけることになるかもしれない。そんな感じのことを言った彼女の「面倒な手続きを可能な限り省いて、円滑に確実に賞金を手にしたい」という考えはビノールトとしても理解出来ないことではなかった。むしろこの場合、当事者である賞金首本人にそこまで赤裸々に告げるなまえの価値観や常識の方がよほど理解し難い。
 いくらこの首のロープという"鎖"があるとはいえ、こんな風にぽんぽんと手の内を晒して大丈夫なのだろうかあの女。その内痛い目に合うんじゃないか、と呆れたタイミングで少女に再び訪ねられた。さあ、どの港を選択しますか。
 なまえの声を思い出しながら、ビノールトは口を開く。

「そうだな、じゃあここにしてくれ。サヘルタ合衆国の──」


  ***


 寂れた船着き場から弓なりに伸びた堤防の片隅で、ビノールトはひとり待っていた。
 幸いなことに天気もよく、(たまに通りがかる老人たちに訝しげな目で振り返られることさえ除けば)こうしてのんびりするのも悪くはない。もともと、何をするでもなく、ただじっとしていることは昔から得意な方だった。それが出来たからといって、褒められたことなどなかったけれど。
 ゲキャアゲキャアと醜く鳴く海鳥をぼんやりと瞳に映しながら、首に巻きつくロープを指先で捏ねる。別に痛いわけでも苦しいわけでもないし、正直なところ気分的なものを除けばほとんど負担はないのだが、なんとなくこうして弄ることが癖になってしまったのだ。

 ああ、それにしても、本当にいい天気だ。

 ふと、今なら思い直せるぞとビノールトの経験が囁いた。
 こんな辺鄙な町でも銀行はあるのだ。ハンターライセンスを担保にすれば金も武器も簡単に用意出来るし、罠だって幾らでも仕掛けられる。
 喉元過ぎれば、なんとやら。
 人の心はずっと同じでいられる程に強くはない。
 ましてビノールトは、自分の心がそんな立派な代物でないことをよく知っていた。
 絶望的な状況でもなければ、死線をくぐった直後でもなく、腹も満ちて体力にも余裕があるとなれば、同じ心のままでいる方が無理があるというものだ。
 むしろ、どこまでも"まとも"から外れきった身で、今更こんな生き方を止められるかもなどと思ってしまった方がどうかしていた。たった一度の出会いとたった一言に柄でもなく影響されて、あの澄んだ眼差しに報えるだろうかなんて甘い夢を見て、なんと滑稽だったろう。
 あのハンターも少年たちも、ここにはいない。それに彼らだって、過去に見逃した相手がその後どうしているかをわざわざ確かめる程、そして約束が違われていたところでそれを断罪しようと行動する程、暇ではないだろう。それどころか、いいように扱った格下の名などすぐに忘れてしまうのだろう。
 だから、もうすぐ来るだろうあの女を"どうにか"して、その後でここひと月ばかりの記憶をすっかり沈めてしまえばそれで仕舞いなのだ。都合の悪いことなど全て忘れて、期待なんて愚かしい感情は全て滅して、今まで通りに生きていけばそれでいい。


  ***


「遅いな……」
 別れてから、数刻。
 何度目か忘れる程繰り返した独り言に、ようやく返す声があった。
「──誰が、遅いってぇ?」
「ああ。やっぱりあんたか。そろそろ来るだろうかと…思っていたんだ……」
 むしろもっと早いと思っていたけれど、なんて余計なことは口にはしない。そんな嫌味を口にするよりも、怒った彼女に首のロープを勢いよく引くか絞めるかされてもやり過ごせるように、呼吸と体勢を整えなければいけないから。
 けれども首への衝撃はいつまでたってもやって来ず、代わりにとことこと近寄ってきたなまえにじろりと睨みつけられる。
「なんで、なんでここなの! 最後の"リー"しか合ってないってどんな記憶力よ! これ、私が気付かず行っちゃってたら丸四日は待ちぼうけだったってわかってる? この、辺鄙な、何もない町で、四日間! まったく、余計な手間かけさせてくれちゃってさぁ。港の選択でなーんか嫌な予感して確かめたからよかったものの、あの子ってばそれきりどの港を選んだかまでは教えてくれないしさあ……」
 矢継ぎ早に繰り出される恨み節は暴言と呼ぶには随分と間抜けなものだったし、ぷりぷり怒る小さな肩はヒステリーの攻撃性とは程遠い。
 女の反応は想定とはかけ離れたのものだった筈なのにいざこうして目にしてみると、ビノールト自身が驚く程に、彼はそれを"驚かなかった"。更には、驚きの代わりに広がるのは、胸の奥で小さく軽い泡が湧き上がりしゅわしゅわと弾けるような心地よさで──次から次へと溢れる違和感に、否が応でも認めないわけにはいかなくなる。

 ああそうか、オレはこの反応を期待していたのか。

 まっすぐ視線を合わせるように見上げてくる彼女から、うっかり緩んでしまった口元が隠せるわけがない。
 慌てた様子も詫びる様子も見せないビノールトに薄々違和感を覚え始めていたらしいなまえは、見咎めた表情にぴたりと口を止めると、ひと呼吸分の沈黙の末ようやく見付けた言葉を溜息と共に吐き出した。
「──やられた。うっわまさか、そういう茶目っ気を発揮して来るタイプだとは思わなかったんだけど。タチ悪いって言われるでしょ」
 けれど。脱力感ただようその声ですらビノールトが覚悟していたより随分と軽やかなものだったから、また胸の内側でしゅわしゅわと泡が弾ける。あんまり際限なく弾けるから、そのうち胸だけで済んでくれず喉まで上がって来てしまいそうだ。そうなったら泡はどこから出て行くのだろうか。目の奥がツンとした気がして、ぎゅっと背筋を伸ばして首の後ろに力を込める。ここで堰き止めてしまわなければどうなってしまうかわからない。
「悪いな。ふと……これがどこまで有効なのか気になってな」
「そんなヤワな念はしてないよーだ」
「みたいだな……」
「あーもう、ここからだと倍はかかるってのに。いっそ、そこに見える派出所で妥協しちゃう?」
「……念能力についてわかってる奴がいればいいがな。けどよ、どうせ移動する気だったんだから、列車にでも乗りゃ数日だろ」
「いやいや賞金首を一般車両に押し込めるなんてそんな! さすがに本部から怒られる! ああ、でも今から手続きして特別室が押さえられるかっていうとこれはまた難しい問題だし……あーもう、この辺で飛行船って言ったらどこが近いんだろ」


 至近距離でじゃれあう男女。はたから見れば、微笑ましく映るだろうか。けれどいくら能天気なやりとりを交わしていようが、実際のところ二人の関係には微塵の甘さも含まれてはいないのだ。今もしもこの場に"視る"ことの出来る人間が居合わせたなら、男の首を飾る縄の先に気付いて驚いただろう。


「もっと怒るだろうと思った」
「怒ってるけどね」
「……いや、そういうことじゃなくて」
「だって別に"逃げようとした"わけじゃないでしょ? あくまで私たちのこれは利害と目的の一致なんだし」
「…そう……か? じゃあこのロープは……」
「いやいや、ソレ外しちゃったら確保の建前も何もなくなっちゃうから。そこ大事だから」

 あっさりと「逃げようとしたわけじゃないでしょ」なんて言われてしまったら、どんな顔をしていいかわからなくなる。
 ビノールトという少年を虐げてきた大勢の者がしてきたように。ビノールトという青年が恨んできた大勢の者がしてきたように。そんな風に扱われるのならまだよかった。盗人扱いされるなら、その前に本当に盗んでしまえばいい。このゴミ野郎がと蔑む目には、期待されたとおりに振舞ってやればいい。狂人だと叫ぶ女のリクエストには、最高の狂気で応えてやればいい。
 けれど、なまえはビノールトを試さない。裏があることを求めない。間違うことを期待しない。
 しかし彼女のそれが"お人好し"のそれとはどこか違う形をしていることにも気が付いてしまうのだ。なぜなら、彼女はそれすらも誤魔化さないから。

 絶望的な状況でもなければ、死線をくぐった直後でもない。腹も満ちて体力にも余裕がある。そして、こんな変な女が側にいて。
 当たり前のように"ただの人間"扱いをされて、同じ心のままでいられる方が無理があるというものだろう。



(2016.07.18)(タイトル:いえども)
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