■ 5

 どれ、ここはひとつ手合わせといってみんかね?

 その言葉は誘いなどではなく、どう聞いたところで命令でしかなかった。
 けれど、どうあがいたところで勝ちようのない相手だとしても……否、桁違いな相手だからこそ、相対できることに胸の奥底が震えたのも事実だった。

 睨み合う、なんてことも叶わなかった。一歩も動き出せない身体を揶揄され、堪らず繰り出した拳を軽やかに受け流され、わけがわからないまま地面に叩きつけられ、起き上がれないままどれくらい経っただろうか。全身を走る痛みと痺れにみっともない呻き声を漏らしながら、これを行った張本人を見上げる。けれども、ちかちかと霞む目では老人の表情までは窺えない。
 不意に、今もなお首にかかりっぱなしのロープに皺だらけの手が伸ばされ、小さな身体からは想像も出来ない力でぐいと引き上げられた。
「なんじゃお前さん、肌艶よし血色よしで随分調子が良さそうじゃのー。……はて、アレとの旅はそんなに気楽だったか?」
 でたらめに震える鼓膜が伝えてくる音がどこまで正しい音かわからないまま、ビノールトは脳裏で言葉を組み立てなおす。働かない頭でなんと答えるつもりかも決めずに口を開けば、痛む肺からひゅうひゅうと荒い息がただただ漏れた。老人は笑っていたのだろうか。怒っていたのだろうか。馬鹿になった耳が最後にとらえた音が正しかったのかどうかは、確かめるすべがない。

「勘違いしてくれるなよ。これは赦しではない。まして、償いなンて都合のいい行為にもなりえねェのさ」


  ***


 どこをどう打ち付けたかも解らないまま意識を失ったビノールトは、やがて冷たいコンクリートの上で目を覚ました。
 狭く薄暗い部屋の中央で、黒い革靴がコツと音を立てる。
「やあ、おはよう。起きて早々で悪いが、その椅子に座ってくれるかな。話があるんだが」
 その椅子と示されたものを見る前に、身じろいだ背中にコツンと硬い物があたった。

 飾り気のないパイプ椅子に手をやりながら何気なく服をはたくと、非難と受け止めたらしい男がやれやれと肩をすくめた。ピカピカの革靴がまたコツと響く。
「知ってるだろう? 気絶した人間ってのは重いんだよ。そんな身体を、椅子に座らせるなんてどれほど手間か」
 思わず手を止め、何か言い返す代わりにごくりと唾を喉に落とす。
 別にそういう意味で言ったのではなかったし、謝罪を期待していたわけでもない。けれど、ともすれば自分を非難するような男の態度にどうしようもなく心が波打ってしまう。
 しかし、それは"今更"なことでもあった。軽んじられるのも、見下されるのも、距離を置かれるのも、今更気に病む事でもない程に"いつものこと"の筈なのに、今日に限って何故かこんなにも引っかかる。

 そんなビノールトの戸惑いを気に止める様子もないまま、革靴の男は自分の仕事を続けた。会長の一撃で気絶したこと。この場所とここにいる理由。幾つかの事柄についての確認。そして、賞金首としてのビノールトの今後の処遇について。次々と流し込まれる情報に追い付けず目を白黒させて口をぱくぱくと動かすビノールトを冷ややかに一瞥した男は、それ以上は僅かの時間も付き合う気はないらしく、やれやれと肩をすくめることで締めとした。

「うんうん、不思議に思うのも無理はない。わたしたちですら、会長のお考えの全ては理解出来てはいないのだから」
 では御機嫌よう。
 気付けば再び、薄暗い部屋に取り残されていた。部屋に鍵はかかっていないが、立ち上がる気にもなれない。
 けれどすっかり調子を戻した聴覚は、遠ざかる足音の先にもう一つの靴音を認めた。それは男のものと比べて随分軽やかで速い。しかも、だんだんと近付いてくる。
 まさかと疑う気持ちの隅で、やはりと身構える部分があった。けれど結局はどうしていいか解らないまま、ただ全身を強張らせるしか出来なかったビノールトの予想は見事に当たり、やがて扉の向こうからひょこりと顔を覗かせたのはなまえだった。
 すたすたと傍までやって来た彼女は、及び腰なことには触れないまま首のロープに向かって手を伸ばす。オーラをまとった指先がそこに触れた瞬間、かちゃりと小さな音がひとつ。小さな痺れはあったものの、いつかの時ほど痛くはない。

 お待たせ。お疲れ様。大変だったね。ごめんね。
 おおよそ聞きなれない言葉を立て続けに降らせた彼女は、そのままビノールトの袖を引く。

「とりあえず、出よっか」

 冷えた廊下を進み、外へ。
 前を行く背中に迷いはなく、薄闇に慣れた目にはひどく眩しく映った。



(2016.09.15)(タイトル:いえども)
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