■ 6

「……なあ、どこまで行くんだ」
「もうちょっと先。そこの角曲がって、三ブロックくらい先のホテルだから」
「……何が起こってんのか、聞いてもいいか」
「あー……うん、ほら、あんまり外で話すなって言われてるからさ、そういうのは着いてからにしよう」

 新月なのか、それとも単に時間的なものなのか。どちらにせよ、ビルの間から見える空に月はない。
 いつの間にか離れてしまった指先を少しだけ寂しく思いながら小柄な背中をそっと窺う。いったい、どうして、なんで。聞きたいことは沢山ある。言いたいことも沢山ある。けれど、歩みに合わせて揺れる髪の奥にちらちらと覗く細い首筋に思考の全てを持って行かれてしまう。こんな光景には覚えがあった。この先のこともよく知っている。

 手を伸ばせば掴めそうな、力を入れたら折れそうな、細い女の首。
 研ぎ上げた刃でそっと撫でれば、たちまち真っ赤な血が吹き出るだろう。ひくりひくりと震える喉をそのままにして、弱まっていく心音を心地よく感じながら、柔らかな肉を削いで、抉って、千切って。

 意識しないまま探る手がいつまでもシザーケースに触れないことを不思議に思い、そこでようやく我にかえる。
 今、オレは何を考えていた?
 慌てて背筋を伸ばせば、溜まった唾液がごくりと喉を落ちていった。たちまち胃に不快感が満ちてくる。心臓が早鐘を打つ。今になって、いよいよ思い知った。そんな相手ではないとわかっている筈なのに、そんな生き方をやめようと決めた筈なのに、なのに、いざこうして街灯を頼りに夜道を行くなまえをどうしたって"ただの女"と見てしまう程、自分はもうどうしようもなく腐りきっている。
 最初の一人には理由があった。次の女にも、その次の女にも、理由はあった。
 けれど何度も何度も繰り返すうちにどんどん理由は薄くなり、やがて女を殺すのも肉を断つのも食らうのもただの反射や衝動になっていたのだとようやく理解する。でなければ、この後に及んでなまえ相手にこんな欲望を抱く筈がないだろうに。だってこの女は他の女とは違ったのに。向けられる視線も、かけられる言葉も、何もかもがあいつらとは違ったのに──それでもこの手は、握り慣れたハサミを求めてしまう。
 顔から血の気が引いているのが解る。さぞ、ひどい顔をしているのだろう──月のない夜でも隠せないほどに。


「ビノールト?」


 前にいるなまえに呼びかけられても、もう足も喉も動かない。
 取り繕うなら今しかないのに。気が付かないで欲しいと思うのに。気が付いて欲しいとも思う。
 どうしたってまともではないこのオレに悲鳴をあげて逃げてくれるなら、全てを忘れて襲いかかればいい。付き合いきれないと背を向けてくれるなら、未練も残さず済むだろう。生きていない方がいいと言ってくれるなら、引導を乞えばいい。だから、さあ、振り返ってくれ。

「……なあ、やっぱり……オレは……」
「ひょっとして、まだどっか痛む? 今更だけどタクシー捕まえてこようか?」
「いや、そうじゃなくてだな」
「んー…なら、ちょっと待ってね、っと。はい、おいで」

 さすがに背負うのは無理だけど、肩くらいは貸せるんだから。
 まさかと確かめる間も与えずオーラを纏った右肩が差し出された。大の男を支えるために部分的に強化したらしい。けれど今はその気遣いに感じ入るどころではない。あれだけ目の毒だった首筋を目の前におかれて、持て余していた欲望と自己嫌悪が綯い交ぜになって肥大していく。
 その肩を「寄るな」と弾いたのは完全に無意識でのことだった。自分の声にはっとする。なんとかバランスを取れたものの突然一体どうしたのだと目を見開くなまえの姿を認めた途端に、またひやりと汗が流れ落ちる。思い返すまでもなく最悪な反応をしてしまった。傷付けただろうか、腹を立てているだろうか。拒絶される結果になればいいと願ったのは自分なのに、いざその瞬間に近付けばこんなふうに慌てるか怯えるかしかできないことがますます嫌になる。

「ちがっ……そういう、意味じゃ……違…くて」
「うん? 近寄るのは、ダメなの?」

 けれどこんな時ですらなまえは予想外の行動をとるから。あわあわと無駄に唇を震わせるしかできない愚かな男から視線を外したかと思うと、二歩下がって街路樹に凭れ掛かり、そっと尋ねてくれたりするから。だからつい、都合のいいことを考えてしまう。期待してしまう。この乱れきった呼吸が落ち着いて、もつれてしまった思考が元に戻るまで待ってくれるつもりだろうか、なんて。このどす黒い本音を晒しても許されるのではないか、なんて。
 それでも、働かない頭で可能な限り言葉を選び取って、やっとの思いで「獲物扱いしそうになる自分がいる」のだと告白できたあとは、ただただ恥じ入るように足元を見つめるしかできなかった。このまま闇に紛れるように逃げてしまえば、いっそ楽だろうに。そんなふうに沈むばかりの思考は、やがて思いもよらない言葉にすくい上げられた。

「大丈夫、大丈夫。そんなに心配しなくても、あなたは私を害したりはしないって」
「待てよ。なんでそんなこと……言いきれるんだ……」
「あら。あなたはもっと、私を信用してくれてもいいと思うんだけど」

 この流れで「信用している」ではなく「信用してほしい」とは?
 恐る恐る向けた眼差しに問いを込めれば、なまえは自身の喉元をちょんちょんと指差した。

「さっき締め直したでしょ。この能力は、そんな簡単に破られるようなものじゃないんだから。あなたが本気で襲いかかろうが、うっかり襲いかかろうが、自分の身くらいはちゃんと守れるから安心してよ」
「でも」
「気にしてくれてありがとう、とは言っておく」


 向けられた表情に、さっきまでとは別の理由で呼吸を忘れる。
 ああ、なぜこの女は、こんなにも──



(2016.09.16)(タイトル:いえども)
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