■ 約束は怖いよ、守りたくなるから怖い

 さすがに、ねぇ……。
 耳をかすめた呟きに顔を上げれば、顰め面がこちらを向いていた。
 何かやらかしてしまっただろうかと戸惑うより早く、なまえの方がひょいと距離を飛び越えた。隣に腰掛けた彼女はやはり厳しい顔をしているが、よくよく見ればそれは不愉快さによるそれとは少し違う。そもそも、自分相手に怒っていたならこうして側にはやって来ないだろうし、彼女の視線はずっと一点に向かっている。つまり、首あたりに。

「これ、外しちゃわない?」
 そう言って指し示されたのは、予想通りの物である。彼女によって結ばれたロープ。彼女の能力と自分を繋ぐ媒介。
「……またそんな……これがあるから大丈夫って言ったのは、あんたの方だろうが」
 外すなんて、命知らずにも程がある。今更すぎる提案に脱力してしまうのは無理もないだろう。
 このロープがあるおかげで彼女の身の安全は保障されている。彼女の身を脅かす張本人である自分がこんなことを言うのはおかしな話だが、本当にそうなのだから仕方がない。

「そりゃまあそうなんだけどさぁ。よく考えてみたら、数日程度ならまだしも……四六時中がこの先ずーっと続くってなるとさすがに厳しいんだよね。ってことで、もっと楽なのに変えてみない?」
「楽なの?」
「んー……まあ、単刀直入に言っちゃうと街中で荒縄ってのは外聞悪いかなぁってのもある。今日もほら、しょっぱなから視線が凄かったじゃない? ちらちら見るだけじゃなくて、なんか私の方まで窺ってはヒソヒソしてたしさぁ」
「そりゃオレの趣味じゃなけりゃ、あんたの趣味ってことになるからな。実際そうだろ?」
「いやいや、だってそれというのもちゃんと理由あってのことで。……でも、聞かれてないのに説明するのも、ね。いっそ最初の段階でそれはファッションですか?って聞いてくれたらいいのに」
「いやー……ふつーの依頼人なら、ハンター相手にそんな恐ろしいこと突っ込めねェって」
「ほら、ね。だったらそもそも縄を止めてもっと他の方法にした方がずっと楽になると思わない?」

 どうだとばかりに胸を張るのはいいが、この距離でそれをやられると少しばかり目の遣り場に困ってしまう。なまえという女は、自分の前にいるのが人肉を食らってきた狂人であり女を切り刻む殺人鬼だということは理解しているようなのだが、それが"男"だという視点にはまるで意識がいっていないようで……参ってしまう。切り付けられる心配をする以上に犯される心配もして欲しいものだが、生憎彼女はいつだって"友人"に対して理解がありすぎた。
 大量に押収された"ソレ系"裏フィルムの中に含まれている"本物"を弾くという依頼を取ってきた彼女に「こういうのが本当の、趣味と実益を兼ねてってことかな」と笑いかけられて否定しなかった自分にも責任はあるのだが、それにしても……なぁ。
 などと一昨日の方向に思考を飛ばしていると、首のロープをぐいと引かれた。

「聞いてる?」
「悪い、聞いてなかった」

 そんなやり取りの間ですら、鼻先を掠める匂いにくらりと思考を奪われそうになる。
 シャンプーからトリートメントまで何もかも同じものを使っているのに、使用者によってこんなにも甘美な芳香となるのだから不思議なものだ。思いっきり嗅ぎたい思いを我慢して何事もないように見下ろせば、今度は小さなつむじが目に入る。ああ、なんて綺麗な色の頭皮だろう。思わず溜息が零れてしまう。一日分の汚れなどでは彼女の髪は損なえない。それどころか、この皮脂の混じった甘い香りといったら……控えめに言っても、このままずっと嗅いでいたい程に味わい深い。

「……本当に大丈夫? 実は結構、疲れてる?」
「あ、ああ。そうだな、やっぱりああいう場所は、ちょっとばかり肩が凝るっつーか」

 体良く昼間の仕事のせいにしてしまえば、なまえもなるほどねえと納得してくれた。尤も……シャンデリアに毛皮にブロンズ像という解りやすい成金趣味に囲まれて気疲れしたのも事実ではあるのだけれど。

「せめてその縄がなければ、スーツも様になったんだろうけどね。ミスマッチどころか、むしろ危ない感じが増してるもんねー……ってことで、やっぱり早急に変えよう」
「……オレはなんでもいいがな。あんたの能力なんだから、好きにしてくれ」

 するとなまえが、少しばかり困ったように微笑んだ。

 それなんだけどね……と続く声がいつもより小さくて、彼女が言おうとする内容の重要さに思い至る。
 大体の傾向として、念能力者は自分の能力をべらべらと吹聴することはしない。それはなまえも例外ではなく、自分だって彼女の能力について知っていることといえば実地に基づく範囲でしかない。だから、当然ながらこの先は、相当に気を許された相手しか聞かされないような内容の筈で──喉がごくりと音を立てた。


  ***


「──だから、物理的にどうこうって部分を重視すると露骨な場所になりがちじゃない? となるともう、あなた的要素に働きかけるしかないかなって。だから『約束したぞ!』って強く思って欲しいんだけど」

 どうだろう?と見上げられても、正直なところ困惑するしかない。
 なまえが言うには、彼女の能力において重要なのは"何"で"どこを"縛るかということだった。それはつまり対象への精神的な圧力がそのまま効力の強さに反映されるというわけで。言われてみれば、なるほど。この首のロープは初対面の犯罪者に向けてはこれ以上なく確かな選択だったのだろう。見た目も実も申し分ない。実際、どこからともなく引かれた時の衝撃は大したものだったし、鏡を見る度に状況を思い知らされた。
 だが、それだけインパクトのある場所にインパクトのある方法で制限をかけようとすれば、日常にはそぐわなくなる。かと言って代案に挙がった指輪やアンクレットでは効果の程は望めない。いざ理性を失い襲いかかった時に、指が多少痺れたり足首がきりりと痛んだところでそれが一体何になる?
 とまあ、そんな自制出来ないことを前提に加害者側が胸を張るのはおかしいのだが、出来ることならなまえのことは傷付けずにいたいと思うのだから仕方がない。

 そうして堂々巡りのやりとりを超えて、彼女がそれなりに言いにくそうに口にしたことは……いっそもう心理面に特化したアプローチを、ということだった。

「オレとあんたで、約束?」
「うんうん。糸とか紙みたいに力技で引き千切れそうとか、すぐ外せそうとか、そういう方面じゃなくてさ。良心に訴えるというかそういう方向のアレならいけるかなーって」
「……いや、だからよォ、そもそもオレがオレ自身を信用できてねェわけだから」
「んー……そこはなんとか頑張っておくれよ。私も、ある程度は腹くくるしかないかなぁって、まあ、そのね、これでも色々考えてみたわけですよ」

 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、これは思っていた以上に本当の馬鹿だった。お人好しにも程がある。いや、そもそも、出会った頃から変な女ではあったが、それでもあの頃の彼女はここまでの"お人好し"には見えなかったと記憶している。ではこれも、単なる思い付き以上の意味があるのだろうか。
 だからね。そう言って見上げてくる瞳に隠されているだろう真意を探ろうと覗き返す。けれども、どれだけ覗き込んでみたところで瞳はちっとも揺らぎやしない。そこにあるのは確かな決意と自信なさげな男の顔ばかりで、やがては根負けしてしまう。
 あーあ、知らねェからな。
 そう言ってわざとらしく顔を覆うまではまだ面目が保てたが、いっそう距離を詰められて今度こそ狼狽を隠せなくなる。おいコラ、膝が当たってんだろ。こっちは肩だけでもういっぱいいっぱいだっつーのに。

「うおっ……ちょ、おま、突然……」
「そうと決まれば早速。これ取っちゃおうねー」

 ──パチリ。
 首のロープのその中心、とりわけ目立つ結び目部分から聞こえない筈の甲高い音が鳴った。咄嗟に反撃を繰り出そうとする身体を抑えたことに気が付いていないのか、器用な指先は躊躇う様子もなくするするとロープを解いていく。
 たったそれだけで、あれ程確かに彼女へと繋がっていたロープは瞬く間にただのゴミに変わった。移った熱が冷める程の時間も無いまま、拍子抜けする程あっさりと。顔色一つ変えない女は、ただの役目を終えた道具として一瞥することすらせず、それを投げ捨てる。不意に、明日の自分を目にしているような不快感に襲われた。今はこうして"友達"だの何だのと執着してくれているが、他の"お気に入り"を見付けてしまえば──

「なんて顔をしているの?」

 言われて、反射的に背すじを正す。僅かばかり軽くなった肩を震わせて一点を凝視していた自分は、そんなに酷い表情をしていたのだろうか。
 たった今これ以上なく冷酷にゴミをゴミとして扱った女は、けれども驚く程の熱を宿した瞳をこちらに向けていた。
 気が付けば、彼女の手のひらが近くまで来ていた。身構える余裕もないまま受け入れるしかなかったその手は、ロープに触れていた時とは違う触れ方で頭を撫で、髪を梳いていく。もともと距離感を見誤りがちななまえではあったが、こんなふうに触れてきたことはさすがにない。困惑の声をかけるどころか息の仕方すら忘れてしまい、ただ座り続けるだけでやっとだ。だから、襟元まで降りた手が次に何をするのかなんてそれこそまるで予測出来るわけもなくて。

 磨き上げられた女のしなやかな腕が、首を撫で背中に行き着く。
 腕の内側。その柔らかな皮膚が自分のざらりと荒れた首筋により幾らか傷付いたのではないかと焦りを覚えるけれど、実のところそんなものはただの現実逃避だった。ただでさえ近かった距離がいっそう近くなっていくことに、気が付いてしまうことが怖いだけだった。無論、そんな逃避はいつまでも続きはしない。
 こんなふうに見つめられたことはない。こんなふうに手を伸ばされたことはない。
 怖かった。なまえの意図が解らなかったし、彼女がもたらすものを都合よく解釈して、後で羽虫のように叩き潰されて勝手に傷付く羽目になることも怖かった。ただでさえ、平穏と幸福を覚え込まされてしまった身体を持て余し、今後これを失ってしまえばどうなるのだろうかと身勝手な不安に震える程なのに。
 何か言わなければ。冗談でも、仕事の話でも、なんでもいいから、なにか。
 とにかくこの場を切り抜けてしまおうと口を開けてみるけれど、カラカラに乾いた舌は重い。まともな言葉を何一つ吐けないまま、見開いた目を右へ左へと揺らす滑稽な姿を全て見られている。そのことに気が付いてしまい羞恥に駆られるところまでも、全て。

 けれども。今もなお、なまえの目から熱は消えてはいなかった。

 戸惑い怯える男の姿を全て瞳に映しながらも、彼女は呆れる様子ひとつ見せず、首に回した腕を引くどころか両手の指をしっかりと組み直していた。微笑みの形をした唇が薄く開き、すうっと息を吸い込み、やがてそっと吐き出した。さほど声量はなかった筈なのに、どくりどくりと跳ねる心臓の音よりずっと明瞭にその言葉は耳に届き、胸にとどめを刺す。


「──ビノールト、このなまえ=苗字が"あなたを捕まえる"」


 この腕が離れてこの声が消えた後も、私の存在がある限り。
 またあの甘い香りが鼻腔に広がる。倒れこむように抱き付いてきたなまえの頭は今では肩に埋められ、表情を見ることは出来ないがそんなことはさしたる問題ではなかった。彼女のことを気にする余裕などとっくに無くなっている。
 初めて会ったあの岩場で言われた時よりずっと深く深く染み渡るように言葉が沈み込んでいく。お馴染みの痛みは無い。けれど苦しい。今はただ、ロープよりもずっと重くしなやかな鎖で身体の内側から縛られたような、そんな、ありえない感覚に目眩を覚えるしかできない。

 これは一体なんという呪いなのか。
 裏切れる気がしない。刃向かえる気がしない。もしもこの先衝動に負ける時が来たならば、なまえを壊すより先に自分が壊れてしまうだろう……そう思えて仕方がない。喉元を抑えられるよりもずっと、こちらの方がタチが悪いではないか。


  ***


 でもって、次はこっちね。
 腕を回すタイミングを計りかねている間に、あっさりとなまえは離れてしまった。たった今自分がどれだけやっかいな呪縛をかけたのか、まるで自覚がないらしい。今度はこれだよと小指を差し出す女は悲しい程に普段どおりで、先程までの真摯さも妖しさも見付けられない。熱く潤んだ眼差しは爛漫とした輝きに戻っているし、声色だっていつもどおり無邪気なものだ。
 ただ、向けられた手が何を求めているのかが解らないということだけは先程と同じだったけれど。

「あれ、指切りって知らない?」
「……俺の、指を詰めろと」
「違う違う、指切りげんまん。子供がする約束の!」

 初耳だと首を傾げれば解説が始まったが、子供が"友達"と交わすにはなんとも物騒な内容に絶句してしまう。指を切断し、一万回殴り、針まで頬張らせるなんて裏社会顔負けの制裁フルコースではないか。正直な感想を口に出せば、なまえも神妙な顔で頷いた。まあ、子供ってのはそういう過激なのが好きみたいだから。まるで他人事なこの女は、自身の子供時代を振り返る気はないらしい。あんたも大概過激なことが好きだったタチじゃねーのかと突っ込みたくなるが、面倒が見えているので今は呑み込む。
 えーっと確か、こんな感じで小指を合わせてね。
 細いくせに柔らかさだけはある女の指が絡められる。関節と皮ばかりが目立つ男の指にふわふわの肉に包まれた指が絡む光景は異様で、見れば見るほど落ち着かない。捻れば簡単に折れてしまいそうだ。

「……まあ、いいけどよ。いくぞ、"オレはあんたを獲物として見ないようにするし、切りたくなっても我慢する"──ってこれでいいのか」
「うん上出来。で、こうして手を振りながらさっきのリズムで歌を──」

  指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます 指切った

 一体何がそんなに嬉しいのか。指先を撫でるなまえを横目に溜息を吐きかけて、吐き出す直前にごくりと呑み込む。もしかして、この行為自体があんたにとって特別だったのか?
 気付いてみればなんてことはない。丁寧に絡められる指も、少々ずれて動かされた手も、拍を確かめながらの歌声も、見よう見まねという言葉がよく似合う。

 なるほど。気付かれないようにそっと小指を握り込む。幾らなまえでも、今時こんな子供染みた行為を言い出せる相手はそういなかったらしい。事実、なまえがかけた念とは違い、自分が口にしたものはただの口約束であり責任を棚上げしての希望に過ぎず、針だって呑むわけがない。
 彼女だってそんなことは百も承知だろうけれど……それでも、あの言葉が守りたい約束であり、叶えたい誓いであることに変わりはない。

 はじめての指切りを終えた小指は、なんだかとても熱かった。



(2016.10.08)(タイトル:as far as I know)
(ビノールトが気付いていないだけで念はかかってない。なまえさんが覚悟を賭けることにしただけ)
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