■ 03

■御託の上でワルツを踊りましょう■


「信じられへん! いくら見た目がプリチーやからって蝿を撫で回したり抱きしめたりってあんさん……!」
「そうですよ。バレないように必死だった私の苦労が馬鹿みたいじゃないですか!」

 相変わらず膝にはベルゼブブを乗せたままで、回した腕を解く様子もない。
 愛でる姿勢を崩さないなまえだが、両サイドからの息ぴったりな攻撃を受けてさすがに口元はへの字になっていた。

「えー、私なんにも悪くないもーん。大体、"ベルゼブブ"って聞けば"蝿の王"に繋がるのは常識だよね? ねー? ねぇって、アクタベくんもなんか言ってよー!」
「……ソウデスネ」
「アクタベさん適当に同意しないで下さい! どこの常識ですかそれ!?」
「どこのって"この世界"の常識でしょうが。それに今時、悪魔使いじゃなくても知ってる人は知ってるでしょ。なんたってベルゼブブさんは超有名な悪魔だもんねー」

 この事務所に召喚されて以来、生贄はカレー、姿はペンギン、何かあればスカ○ロだ変態だと蔑まれ、悪魔を悪魔とも思っていないような扱いで酷使される日々を送っているベルゼブブにとって、ただの言葉だとは言え久しぶりに受けた大悪魔扱いである。いつもなら気を良くしてえっへんと胸を張るところだが、くちばし周りを撫でる手の気持ちよさにぼうっとしていたため彼のターンは静かに終了した。

「なぁなぁ、でもなぁ、その蝿のせいでたった今ワシえらい目ェにおうてんで? 可哀想やろ? あんさんが黙ってたんも少しは関係あると思わんか? いやまあ、ほんまは少しどころか大有りやねんけどな、ワシは優しいからそんなことは言わへんねんで?」

 何かを思いついたらしいアザゼルが瞳をキラキラさせて媚び始めるが、罪悪感を煽ろうとするあまり正当性は薄れてただのイチャモン付けにしか聞こえない。共闘していた筈の佐隈の表情がみるみる軽蔑に染まり、グリモアを持つ手に力が込められる。なまえがちらりと抑止の視線を投げかけるのがあと一拍でも遅ければ、刑は執行されていただろう。

「そりゃ身体は治るけどなぁ、ワシの心は深く深ーく傷付いてんでぇ。わかるか、見えへん傷からだらだら血が流れてまんねんで。あーあー、この傷はなまえはんの抱っこでしか癒されへん気がするわぁー。まあ、その後パンツ見せてくれるとかおっぱいで挟んでくれるとかはあくまであんさんの"誠意"の表し方やから、ワシは無理強いはせんけどなぁ。でもこんだけのことしくさって心が痛まん奴は、まぁろくな人間ちゃうわなー」

 常ならばとっくに沈められていただろう悪魔の戯言だが、なまえは微笑みさえ浮かべながら耳を傾けてやっていた。そして一通り済んだことを確認すると、時計を確認するように自然な動きで窓辺に向かって「ねえ」と呼びかけた。
 たちまちアザゼルの膝がガクガクと揺れ始める。具体的に何がどうしたというでもない、ただの条件反射である。ただ、彼女の視線が向かった先に居るのが、先程から可能な限りに状況を無視してたった一人面倒くさそうに読書に勤しんでいる芥辺であるというだけだ。
 ──ああ、あかん、こいつを介入させたらあかんでなまえはん!!
 けれどもアザゼルの魂の叫びは誰の心にも届かなかった。

「こんなこと言われてるんだけど、アクタベくんはどう思う? でも約束は約束だし、契約内容から言うと私に非はないよね。むしろちゃんと代価を払っている分、より気分良く元を取ろうと思うのは利用者として当たり前のことだと思うんだけどなぁ」
 芥辺の眉間がぴくりと動く。けれどそれ以上に佐隈の顔色が露骨に変わった。
「私が撫でたいのは可愛いくてふわふわの、羽毛ぎっしりみっちりのベルゼブブさんであって、セクハラ三昧の犬とも猫ともつかない小さいおっさんじゃないのよ」
「酷いなまえはん!! ちっさいおっさんになんの恨みがあんのん!?」
 アザゼルの悲鳴の遥か上空で、人でなし二人の視線が絡まり合う。
「この要求によってただでさえ少ないベルゼブブさんとの触れ合いタイムが更に減るんだし……この際、全部見直して最低二割減スタートってところで手を打たないこともないけど。勿論、算出方法も歩合制に変更で」

「……なまえ。そういえばお前、恋人は出来たのか?」

 ベルゼブブは自身を抱き締める腕の力が強くなった事に気が付いていたが、素知らぬ顔で沈黙を続ける。旗色が悪いなまえを思い遣っての行動ではない。話の流れも芥辺の本心も読めない現在、ここで下手に首を突っ込んで不必要なとばっちりを受けたくはないという保身故である。

「どうせ、相変わらず猫くらいしか相手にしてくれるような奴もいないんだろう。ああ、失敬、君の"猫たち"は君に構うより乳繰り合う方に忙しいんだったっけ?」
「うっさいわよ、この陰険男! う、う、うちの可愛い可愛いあの子たちは、じゃれあってる姿が最高に可愛いからいいのよ! それに毎朝仲良く起こしに来てくれるんだから!」
 なまえはん、それはメシが欲しいだけとちゃうんか……小さな小さな声は彼女の耳に届く前に押し付けられたグリモアによって宙へと消えた。
「まあ落ち着けよ。なあ、だったら帰宅からおやすみまでの退屈な時間にもう一匹ペットが欲しくないか?」
 瞬間、アザゼルは潰れた視界の向こうにどす黒い気配を感じていた。悪魔以上に悪魔らしい人間の口から、クククと笑い声が溢れ始める。
「何もこんな殺風景な事務所の小さなソファで満足している事はない。お前の家のソファやラグの上で、誰にも邪魔されることなくだらりと気を緩ませながら……ああそうだな、好きなテレビや音楽でもかけながら、思う存分に可愛い生き物を愛でる日があってもいいとは思わないか?」
 刺さるところがあったのだろう。なまえの視線から鋭さが薄れた。腹を軋ませていた手をベルゼブブの頬に移すと、揺れる心のままにふにふにと弄り始める。

「……いや、まあ、確かに家でも抱っこしてたいけど……でもそこまで拘束するのは本人の意思ってのが……ねぇ?」

 抗い難い誘惑に身を捩る女──悪魔としては極上のご馳走である光景に目を奪われたベルゼブブだったが、一瞬で我に返ると覚えたての感動を振り払うべくぷるぷると首を振った。さすがに、此の期に及んで静観していられる程に無頓着ではない。そう、関係ないどころではないのだ。なにせ今、これ以上なく現在進行形で新たな人身売買の契約が交わされようとしているのだ。目の前で、当の本人を丸ごと無視して。

「ピギャース! テメェら!! このベルゼブブ優一様を何だと思ってんだ下痢便野郎共がァ!!」

 今度こそ暖かく柔らかな膝の上から飛び立った悪魔は、怒りに任せた一撃をお見舞いしてやろうと羽に魔力を集める。
 狙いはアクタベ──いや、さすがにそれは命知らずが過ぎるか。むしろ距離的にはなまえの方が──いや、悪魔使いでもない人間にこの一撃は酷だろう、ならば、ならば──そこだぁぁぁぁ!!!!
 完璧に八つ当たりの一撃へと質を変えた攻撃は、しかしながらやはり向かう先が悪かった。電卓とグリモアを手に事態を見守っていた佐隈の身体に切っ先が辿り着く前に、人間の限界を軽々と超えた芥辺によって鷲掴みにされ壁に叩きつけられてしまう。ぴくぴくと崩れるしかない悪魔は、恨み言も謝罪も断末魔すらも響かせてはもらえない。仕上げとばかりに芥辺が力を強めれば、長い指の間からはぶちぶち肉片が飛び散り、生臭いシミが床に広がった。


 芥辺探偵事務所は、今日も平常運転である。



(2015.08.31)(タイトル:亡霊)
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